第54話


「カイリ。聖書の元になる図鑑を」

「はい」


 聖書の存在を知らされてから、一週間。

 カイリは、ようやく聖歌語で書き直した図鑑を、フランツに提出した。

 最初は三日でと大きな口を叩いたのに、結局一週間かかってしまった。己の計画性の無さには呆れてしまう。


「しかし、300ページを一週間でか。結構早かったな」

「え?」

「あー、そうそ。オレだと二週間はかけるぜ。だって面倒だしな」

「……手がつりそうですわ。わたくしなら、絶対にしたくない作業です」


 レインとシュリアがそれぞれ身を引く様に、カイリの図鑑を眺めている。どうやら彼らは書類仕事が苦手なタイプの様だ。カイリは元々前世で勉強漬けの日々だったこともあり、書くことをそこまで苦にしない。

 レインとシュリアが各々好き勝手に感想を言うのに対して、背後にいるエディとリオーネは静かだ。同意することもなく、けれど反論することもなくただ黙っている。

 妙な静けさにカイリは不思議な気分になったが、今は他に気にすべきことがあった。


「よし。じゃあ、始めるか」

「えっと。……待って下さい、フランツさん」

「うん?」


 どうした、と言わんばかりのフランツの顔に、カイリは自分こそ彼の様な顔をしたかった。

 ここは、第十三位の宿舎の礼拝堂だ。教会に行かなくても、各々の宿舎の中にも礼拝堂が整っているという事実に恐れおののいたが、それよりも更にカイリは疑問ばかりが浮かんでいる。


「あの。聖書って、教会との契約の証なんですよね?」

「ああ、そうだな」

「それに、他の人が触れると雷が鳴るとか」

「ああ、そうだな」


 それが? と表情全体で語られ、益々カイリは腑に落ちない。むしろ、彼の顔は全てカイリがするべき表情だ。


「教会との契約の証なら、その、……教会本部へ行って、そういう専門の人にやってもらうんじゃないんですか?」


 今はただの図鑑なのに、それが聖書の役目を持つ様になるのだ。しかも、他の者が触れると雷まで出て来るというおまけ付きである。

 故に、カイリは聖書としての力を持たせる誰かがいるのだと、そう考えていたのだが。


「いや? ただ、それぞれの宿舎で、適当に礼拝堂で祈りを捧げれば良い」

「……はい?」

「そして、こことは違う別の世界に、『ありがたくお言葉とお力をお借りします』と適当に真摯に祈れば良い。簡単だろう?」



 簡単すぎるわ。



 物凄く激しくツッコミをぶっ飛ばしたかったが、仮にも相手は団長である。カイリは喉元どころか舌先まで出かかったところで耐え忍んだ。懸命に飲み込んだ自分を褒めてやりたい。

 専門職の人間がいるわけでもなく、ただ所属する宿舎の礼拝堂で、適当に祈れば聖書になるというこの杜撰ずさんな方法。

 教会を信じている一般人が知ったら、がらがらと理想が音を立てて崩れていきそうだ。現に、カイリは別に信じてもいないのに、教会への印象が崩れ去って瓦礫がれきの成れの果てになっている。その内、瓦礫がちりになって吹き飛びそうだ。


「……。あの、フランツさん」

「何だ?」

「……どうして、そんな適当過ぎる馬鹿げた方法で、……いえ、そんな適当な祈りとも思えない祈りで、聖書が力を持つんですか?」

「いやー。お前さん、本音だだ漏れだなー。いや、気持ちは分かるぜ?」

「……言い直しているのに、さっぱり言い直されていないあたり、もう駄目ですわ」


 レインとシュリアが他人事の様に笑っている。つまり、彼らもカイリと同意見ということだ。益々不可解である。

 そして、フランツもふっと達観した風に目を伏せた。そのまま、厳かな空気をまとう礼拝堂の天上を見上げ。



「安心しろ、カイリ。――俺にも分からん」



 分からないのかよ。



 今度こそツッコミをぶっ飛ばしたかったが、寸でで堪えてしまった。変に冷静だと、こういうところで損をする。

 カイリが白い目でフランツを見上げていると、彼は豪快に笑って腕を組んだ。


「流石はカイリ。良いところに目を付けるな」

「いえ、誰しも思っていることだと思いますわ」

「何を言う。他の盲目的な奴らは、喜んで涙を流しながら意気揚々と祈りを捧げるぞ。『流石は聖歌の奇跡! 凡人とは次元が違う!』とな」


 なるほど。凡人が言いそうだ。


 カイリの辛辣しんらつな感想は、口に出さなくても漏れまくっていた様だ。レインが苦しそうに腹を抱えて笑い転げている。


「いやあ。カイリ、ほんっと正直だなー。ポーカーフェイス、身に付けた方が良いぜ?」

「……頑張ります」

「まあ、仕組みは分からんがな。実際、自分が所属する聖壇せいだんに聖書を置き、力を借りるといった風に祈れば光る。論より証拠だな、やってみろ」

「……はい。分かりました」


 促されたのだから、仕方がない。

 カイリはフランツから聖書を受け取り、聖壇の前へと進み出た。

 奥には十字架が粛々と高らかに掲げられていた。カイリには信仰心など欠片も無かったが、それでも黄金に光り輝く十字架は、ステンドグラスから差し込む光を反射して冷厳なる空気をまとっている。思わず膝を折りたくなる者の気持ちも分かる気がした。

 カイリは息を整え、聖書となるはずの図鑑を聖壇に置く。そのままフランツに指示された通り、片膝を突いて両手を組み、静かに頭を垂れて目を閉じた。


 前世の母国の言葉。

 日本語と同じ、聖歌語。


 それが、何故不思議な力を持っているのかカイリにはまだ分からない。

 それでも、その聖歌語のおかげで、何とか今日まで生き延びて来られた。


 ――失ったものも、大き過ぎたけれど。


 だが、おかげで得られたものもある。

 未だ複雑な気分ではあるし、聖歌語も聖歌も良いイメージだけでは決してない。

 けれど。



「……お願いします」



 明日を生き抜くために。

 両親達と、友人達と、村の人達と約束したことを守るために。



 笑って、幸せに生きていくために。



 ――どうか、力を貸して下さい。



 カイリは心から深く祈る。むしろ、両親達へ向けて祈る様な気持ちだった。

 何となく胸元が熱い。体に染み込む様な熱に、カイリが不思議に思っていると。



 かっと、目の前で何かがまばゆく輝いた。



「――、えっ!?」

「うお……っ!」



 思わずカイリが目を見開いて顔を上げると、ばりいっと、太く真っ白に輝く稲妻が聖壇に落ちた。フランツ達も咄嗟とっさに武器に手をかけ、聖壇へと身構える。

 しゅうっと、稲妻が図鑑に吸い込まれる様に消えていく。ぱち、ばちっと、目に見えるほどの雷の閃光が、幾重にも束になって図鑑を包む様に輝いていた。

 無意識にカイリが右手を胸元に持っていくと、何となくほのかな熱が伝わってくる。

 見下ろせば、パイライトが淡く発光している様だった。図鑑に呼応する様な輝きに、カイリはパイライトと図鑑を見比べてしまう。


 一体、何が起こったのだろう。


 フランツ達を振り返るが、彼らも呆然とした様に聖壇を見つめている。恐らく初めての事態なのだろう。

 カイリは迷ったが、聖壇の方へと歩み寄った。図鑑が未だにばちばちと鳴っているが、大切な形見なのだ。いつまでもそのままにしておきたくない。


「っ、待て、カイリ」

「え? ――わっ!」


 手を伸ばして触れる直前に、フランツが制止をかけてくる。

 驚いてカイリが振り向くと同時に、ふわっと図鑑が目の前で浮かび上がった。そのまま、もう一度、ばちいっと激しい雷の様な火花が手元を包む様に鳴り響く。

 だが。



「……って、え」



 図鑑は、カイリを弾く様なことはしなかった。



 むしろ、その火花でさえ、カイリを歓迎する様に右手の周りを嬉しそうにくるくる回っている。

 不思議な現象に瞬いてしまったが、カイリはそろそろと図鑑に両手を伸ばす。図鑑も、応える様にカイリの両手へと吸い込まれる様に近付いてきた。

 そのまま、ぽすんとカイリの手に大人しく収まる。

 あれだけ輝いていた表面も、今は嘘の様に大人しい。カイリの手にすり寄る様に、しっくりと馴染んだ。

 呆けた様にカイリが見下ろしていると、フランツ達もようやく警戒を解いた様だ。武器を納め、近付いてくる。


「カイリ。怪我は無いか?」

「はい。何も。……あの、これって」

「……今まで見たことのない現象だが、……うむ。聖書になった様だな」


 試しにフランツが触れてみると、図鑑改め聖書が、ぱちっと抗議する様に小さく火花を出す。

 慌ててカイリが引っ込め、抱き締めながら聖書に語りかけた。


「だ、駄目だ。この人は、俺の恩人なんだ」

「……カイリ」

「……ここにいる第十三位の人達は、俺にとって、……大切な仲間なんだ。だから、……あんまり攻撃的にならないで欲しい」


 カイリが心をこめて語り続けると、聖書は心得たのか大人しくなった。何となく聖書の空気が少し変わった気がして、カイリは首を傾げる。

 フランツもそれを感じ取ったのか、もう一度聖書に手を伸ばす。



 ――火花は、散らなかった。



 カイリの言う通りになったことに、自分自身が一番驚いた。声が出なくて、まじまじと聖書を凝視してしまう。


「……ふむ。なるほど」

「……えーと。フランツさん、これ、何が起こっているんですか?」

「いや、……初めてのことだらけだな。しかし、……レイン、シュリア。触ってみろ」

「ええー……恐いですわ」

「ま、やるだけやってみるか。ほれ、エディとリオーネも」

「……、はい」

「……っす」


 レインの呼びかけに、ずっと黙ったままだったエディとリオーネも恐る恐る近付いてくる。

 全員で手を伸ばすと、聖書はもう火花を散らさなかった。ただ黙って受け入れている。

 聖書から手を離し、シュリアが思い切り眉をひそめていた。レインも神妙な顔つきで、聖書をいぶかしげに見下ろしている。


「……どうして、もう設定されていますの?」

「え? 設定?」

「あー、カイリは知らないだろうけどな。聖書ってのは最初、本人以外はどうしたって誰彼かまわず弾くもんなんだよ。さっき、団長のことも攻撃したろ?」

「あ、はい」

「でも、……もう攻撃しないとか。ありえねー……何なんだ、これ」


 頭をがしがし掻いて、レインが唸る。カイリもその様子に不安に駆られてしまった。

 設定というのがどういうものかは知らないが、恐らく特定の人間は攻撃しない様にと何か仕掛けを施すのだろう。

 だが、もうそれが設定されているという事実が異常の様だ。カイリは震える様にフランツを見上げた。


「……本来、普段は聖書をベルトなり何なりで戒めて、攻撃をしない様にするのだがな。その戒めが解けても団の者同士で聖書が衝突しないように、それぞれが聖歌語や契約の言葉を使い、持ち主本人がその聖歌語を受け取って己の聖書に力を馴染ませるのだ」

「後は、団の聖歌騎士一人が代表して、『他の奴らも攻撃すんなよー』って聖歌語で命令を染み込ませんだ。他の団や一般人を攻撃しないためにな。こっちは団員同士と違って軽い契約の感じになるから、誤作動起きる可能性もあるけどよ。聖書の雷では死にはしねえから、大抵は笑って済まされる」


 いや、済まされないだろ。


 そう突っ込みたかったが、確かに団を回って全員と契約を、とはならないだろう。膨大な手間になる。


「聖書は、聖歌と同じく神聖視されているからな。雷に撃たれたら、むしろ『ご利益が』とかいう馬鹿もいる」

「はあ……」

「後は、紛失したり破損すると処罰もされる」

「しょ、処罰!?」

「ああ。前に戦闘中に囮に使って見事に壊れ、投獄された奴もいる」

「投獄!?」

「そうだ。まあ、ちょっと手続きが面倒な身分証明書だと思ってくれれば良い」

「……はい」


 適当に聖書になる割には、随分と貴重な書物の様だ。カイリも注意しようと固く誓った。肝が冷える。


「というわけで、聖書はそういう意味もあり、設定が面倒なのが普通なのだ。しかし、……今は、カイリが語りかけただけでそれが出来てしまった。……最初の稲妻のことといい、勝手に浮かび上がってカイリに収まることといい、……何が起きたのかさっぱりだな」


 推測さえ出来ないというのか。

 イレギュラーなことばかりが連続で起こっているということだけは理解した。益々カイリの心中が掻き乱される。



「普段は、……どういう感じなんですか?」

「祈りを捧げて終わりだ。いつの間にか光って聖書になっている」



 それもどうなんだろう。



 今の現象の方が、よほど聖書への道のりという感じである。カイリにはもう何が何だか訳が分からない。


「まあ、今の方が『聖書になったー』という感じはするがな」


 そう思っていると、フランツもカイリの心境に同調してきた。

 レイン達も同じ様に笑って頷いている。カイリの認識がズレているわけでは無いのだと、少しだけ安堵した。


「ふむ。……全て、手書きにしたからか? しかし、今の様な現象の報告は上がったことはないな……」

「案外、村の奴らが力貸してくれてたりしてなー」

「……ああ。なるほど。ありえますわね」

「そんな、……。……でも」



 ――もし、本当だったら嬉しいな。



 レインやシュリアの言葉に同意するわけではないが、この図鑑は村の形見だ。村のみんなで完成させたものだ。

 だから、夢でも良い。勘違いでも構わない。そう思っても良いだろうか。

 ぎゅっと図鑑を抱いて、カイリは目を閉じる。


 まぶたの裏に浮かぶのは、両親達の、みんなの優しい笑顔だ。


 いつだって、カイリを全力で愛し、育ててくれた人達。カイリにとって、掛け替えのない尊い宝物だ。

 だから。


「……ありがとう」


 この図鑑を、聖書にすることを許してくれた様な気がして、カイリは自然と感謝を口にしていた。

 フランツ達が、優しい眼差しでカイリを見守ってくれている。やれやれ、といった白い目も約一名いたが、気にしないことにした。

 だから。



 背後で、不気味なほどに大人しくしている二人の存在に、カイリは注意を払うことはなかった。



 今日は全く会話に参加しないことの意味を、カイリが知るのは約一週間後である。


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