第90話


「まあ、今日はゆっくり休め。カイリも色々思い出して疲れただろう」


 宿舎に戻り、フランツが解散を命じたことで仲間達は散っていった。

 作戦を立て、夕食はなし崩しに全員でケントの屋敷でご馳走になった。彼の母のエリスが張り切ってくれたらしく、かなり豪勢で、エディやレインが目を輝かせて唸っていた。

 レインなどは、味の秘訣を探ってエリスと攻防を繰り広げていたくらいだ。余程気に入ったのだろう。エディもこっそり耳をそばだてていて笑ってしまった。うちの騎士団は本当に男性陣が料理に熱心である。


「ああ、さっぱりした……」


 ゆったりと風呂に入り、カイリは寝間着に着替えて部屋に戻る。

 心のよどみも気持ち良い湯船のおかげである程度は汚れごと落ちた。

 だが、それで不安が完全に消え去るわけではない。


 ――エリックさん。


 もしかしたら、生きていないのではないかとカイリは思っていた。むしろ、本当はその酷いことを願っていたのだと、カイリは彼の姿を見て初めて自覚した。



〝つまり、騎士になりたくてカイリを売って、しかも挙句に失敗して村全滅させて、今は保身のために狂信者にいるってことになるよね?〟



 ケントの言葉を静かに思い起こす。

 彼の言う通りだ。エリックは、カイリを売った挙句に村を死に追いやった。しかも今は、狂信者に身を寄せている。

 彼の最初の行動は、騎士になりたい一心だったのかもしれない。

 だが、それが危ない橋だったのだと、今では痛いほどカイリも実感している。村の者達が決死の覚悟でカイリを逃がそうとした中、村を危険にさらした彼の行動をどうしても許せなかった。

 例え、自分が全ての原因だったとしても、心の整理がつかない。


 エリックに会った時、カイリはどんな反応をするのか。


 ある意味、村の仇が目の前にいる。その時どんな感情に支配されるのか。

 予想が付かない。未だ黒い感情が渦巻くカイリには、それが恐かった。



「おーおー、しけたつらして。いっちょまえに色男ぶりやがってんな」

「――」



 憂いを吹き飛ばす様な軽薄な声が、カイリの頭を叩く。

 顔を上げると、レインが食堂から出てくるところだった。マグカップを二つ手にして、行儀悪く足で扉を閉める。


「レインさん」

「よ。部屋戻んだろ? 開けてくれ」

「あ、はい」


 頼まれるまま、カイリは自室の扉を開けてレインを中に入れる。

 扉を閉めて一息吐くと、ずいっと目の前にマグカップを差し出された。ほかほかと、甘い香りがココア色の表面から立ち上っている。

 そうだ。これは、色のまま。


「……ココア?」

「そ。お前も飲むだろ?」


 悪戯っぽく笑って、レインが半ば強引にカイリに渡す。

 それを受け取ると、カップの表面からじんわり熱が伝わってくる。指先から熱を帯びていき、指から手を伝って心にまで届く様なほのかな温かさに、カイリは泣きたくなるほど安堵した。


「ありがとうございます」

「ま、それでも飲んで寝ろよ。今日は色々あったからな」


 はーあ、とレインが奥のベッドに腰掛けながらココアをすする。やっぱうめえな、と自画自賛する声に、カイリも手前のベッドに座ってココアを一口含んだ。

 甘い味の中にほろ苦さが含まれたこのさじ加減が絶妙だ。レインは料理全般が得意だが、飲み物の腕まで一流である。特にココアは絶品だ。感心した。


「美味しい」

「そだろ? オレが作ったんだからな」

「ありがとうございます。……ちょっと、落ち着きました」

「おーおー。感謝しろよー」


 片手を突きながら足を組んでカップを傾ける彼の姿は、窓から差し込む月明かりに照らされて幻想的だ。室内に明かりが点いていないからか、一際それが際立っている。

 彼は、とても面倒見が良い。第一位の試合の原因になった悪意の時も、彼はカイリを責めはしなかった。エディとリオーネを諌める側に回り、気遣ってさえくれた。

 けれど。



 ――時折、探る様な目で彼は自分を見る。



 少しだけ、踏み込んでも構わないだろうか。

 今までずっと、距離が近いはずなのに、その実一線を強固に引かれていた。彼は決して内側に踏み込ませはしない。

 たかだか仲間になってから一ヶ月。図々しいのは分かっているが、せめて探ってくる意味だけは知っておきたかった。


「レインさん」

「おう、何だ?」

「……。……俺のこと、どう思っていますか」

「……、んー?」

「……」



 質問の仕方がおかしい。



 カイリ自身分かってはいたが、本当に話の切り出し方が下手くそだ。およそ交渉には向かない。

 今までも自覚はあったが、本気で情けなくなった。頭が痛い。


「何だよ、お前。オレ、そっちの気は無いぜ?」

「俺だって無いです!」

「じゃあ、何だよ」

「えーと、……」


 考え込んでいると、意地悪そうににやにやレインが眺めてくる。

 だが。



 ――ああ、まただ。



 一瞬。ほんの一瞬ではあるが、彼のルビーの瞳にまた鋭い光が煌めいた。

 彼は、カイリを警戒しているのだろうか。

 どうせ聞き方が下手くそだし、彼の方が一枚も二枚も上手だ。ならば、直球でいくしかない。


「レインさんは時々俺のこと、試す様な、探る様な目で見ていますよね」

「まあな」


 即答された。

 隠す腹積もりも無いということだろうか。彼自身、カイリが気付いていることは承知の上だったのだろう。フランクなのに読めないこの感覚が、落ち着かなくなる。


「どうしてですか」

「どうしてって、そりゃあ、お前。第十三位に入ってからまだ一ヶ月じゃねえか。完全に信頼できるわけないだろ?」

「そうですね。それは俺も、納得しています」

「じゃあ、仕方ない。諦めろ」

「でも、それだけですか?」


 話を打ち切られそうになったので、慌てて食い下がる。

 いぶかしげに彼が眉根を寄せるのを、カイリはじっと観察した。どこか異変はないかと目を皿の様にして見つめる。

 だが、彼の瞳にも表情にも変化が見当たらない。カイリ程度では、相手の腹の内を探るなど到底不可能だ。

 けれど。


「信頼出来ないのは分かります。エディやリオーネだって、まだ俺のこと信じているわけじゃないと思いますし」

「そうだなー。同じことがあったら、また揺れるぜ、あいつらは」

「でも、その、……レインさんはあの二人とはまた別の探りを入れてるんじゃないかって、……えー、思えまして」


 最後はしどろもどろになってしまった。確信が無いのだから仕方がない。

 カイリは、元第一位団長の息子で曰く付き。第十三位の団長の親友の息子だから、助けに来てもらえた。しかも聖歌が歌えて、狂信者にも狙われている。村は滅びたが危機一髪で生還し、めでたく第十三位に保護された。

 並べてみると、カイリでも何だか上手く行きすぎな上に胡散臭うさんくさい。レインでなくとも疑いそうだ。


「……俺って、はたから見ると結構胡散臭いですね」

「お前、それ自分で言うかよ」

「改めて振り返って、今、絶望的にそう思いました」

「……あー。お前、ほんっと、そういうとこ素直だよなー」


 呆れた様に頭を掻き、レインが小さく溜息を吐く。

 これではまた煙に巻かれる。元々踏み込めるとは思っていなかったが、それにしても探り方が下手過ぎる。もう少し世渡り上手になりたい。


「……なあ」


 心の中だけで涙を流していると、レインが呼びかけてくる。

 カイリは顔を上げ――どきりと、体の芯から震えた。



 見つめた先では、レインのルビーの瞳がぎらつく様に鋭く輝いている。



 部屋の中は薄暗く、頼りになる明かりは窓から照らされる月光のみ。それを背景に静かに座る彼の姿が、夜さえも吸い込まれる様に真っ黒に羽ばたいていた。



「――お前さ」

「――っ⁉」



 いつの間に目の前にまで迫っていたのか。レインが見下ろす様にカイリの眼前で佇んでいる。


「ほんと、聖歌の力、強いよな」

「……っ」


 全てをかしずかせる様な覇気の強さに、カイリの喉が圧迫される。息が出来なくなりそうな息苦しさに、無意識に喉に手を添えた。


「リオーネもそれなりに強いけどよ。お前の聖歌は一等強い。恐らく、騎士団全体でも上位に食い込むだろうよ」

「……っ、あ、ありがとう、ございます?」

「はは。疑問形かよ。……お前らしいな」


 すっと手を伸ばして、喉に添えていたカイリの手を掴んでくる。

 絡め取られる様なレインの手は、別に力など加わっていない。あくまで本当に軽く掴んでいるだけだ。

 それなのに。



 カイリの手は、びくともしない。



 振り払えないほどの威圧感に圧倒され、カイリはひくっと喉を震わせた。


「……っ」

「お前がその気になれば、それはもう、そこら辺の奴ら操ることも目じゃないだろうなー」

「……、え?」

「お前、自覚してるか?」


 ぎりっと、手首を強く掴まれる様な錯覚に陥る。

 だが、特に力が加えられたわけではない。彼は、飛ばしているだけなのだ。



 ――本気でカイリを殺さんと、殺意を飛ばしてきている。



「……っ、レイン、さ」

「お前の心一つで、多くの奴の命が左右される。それはとても頼りになる一方で、危険な存在だ」

「は、……っ」

「お前がもし狂信者に捕まったら、どうなるんだろうな? 教皇に捕まったら? 利用されるだけされて、お前は保身のために聖歌を悪用したりするのかね?」

「――っ」


 間近でささやかれ、カイリは息を呑む。

 かたかたと、体が小刻みに震えて止まらない。それだけ、今目の前にいるレインが恐ろしくて、頭から食われそうで逃げ出したくなった。

 ぐっと身を引こうとしたが、それも出来ない。かちっと歯が鳴るのを止められない。

 だが。



「そうだ。……お前、エリックみたいに保身に走るんだろ?」

「――」



 エリックみたいに。



 その言葉を聞いた瞬間、カイリの頭が冷えた。先程まで震えていた体が、嘘の様に静まり返る。

 エリックみたいに。

 自分が。エリックみたいに。



 ――村のみんなを殺した、彼みたいに。



 彼と同じ様になる。

 レインは、そう決めつけるのか。


「何、言って……」

「だって、そうだろ? ……歌わなきゃ殺してやる。四肢もぎ取って、目も潰して、死にたくても死ねないまま一生奴隷の様にこき使ってやるって言われたら、お前、抵抗出来んのか?」

「……っ、レインさん……っ」

「んなの、抵抗出来ないよなあ? 誰だって自分が可愛い。だから」


 覆いかぶさる様に見下ろして、レインはカイリを食い破る様に視線で喉を刺す。



「誰かを殺せって言われたら、殺すんだろ。その聖歌で全員操って……村殺した狂信者みたいにな」

「――」



 殺す。



 そう言われた瞬間。



 ばしゃあっと、カイリは手にしていたマグカップの中身をレインにぶちまけた。



 あっつ! とレインが勢い良く手を離して飛び退く。

 カイリの目の前が、真っ暗に落ちていく。なのに頭の中は反対に真っ白く染まっていって、カイリは視界が滲む様な怒りを覚えた。

 エリックと一緒。保身に走る。

 村を潰した原因と一緒。カイリは、彼と同じ。



 誰かを殺せと言われたら、平気で誰かの命を奪う。



 そんな風に、レインに思われている。

 それがひどく腹立たしくて、狂いたくなるほど悔しかった。


「……一緒に、しないで下さい」

「……あ?」


 母の様に。父の様に。

 リックの様に。ミーナの様に。ラインの様に。――村の皆の様に。

 あんな風に、残酷に殺す。

 そんな悲劇に追い込んだ奴と。自分を。



「俺の大切な村を奪った奴と! あんな風に殺した奴と! 一緒にしないで下さい!」

「――」



 叩き付ける様に叫んだ。憎悪さえ撒き散らし、カイリはレインを激しく睨む。

 だが。


「……っ、あ……っ」


 レインの濡れた状態を見つめ、カイリは我に返る。

 今、自分はレインに何をしたのか。思い返し、慌てて彼の状態を見下ろして血の気が引いた。

 怒りから、カイリは反射的にココアの入ったマグカップを彼にかけてしまった。ほかほかと湯気が立っていたのだから、相当熱かっただろう。己の愚かさに頭が痛くなった。


「……っ! す、すみません!」

「……、は?」


 土下座をする勢いで謝罪すれば、レインが呆けた様に目を丸くした。

 何故、怒らないのだろうか。不思議に思いながらも、軽く混乱したカイリは辺りを見渡して近くにあった手拭きを引っ掴む。


「っ、すみませんっ。俺、ああ、……、本当にすみませんっ!」

「……は?」

「火傷、しなかったですか。……っ、ココア、びっしょり……。……本当にすみません。洗濯、俺がします」

「……」

「……ごめんなさい。俺、頭に血が上って、……っ」


 レインの服を拭きながら、カイリは唇を噛み締める。

 こんなに頭に血が上って喧嘩を売る人間だったのかと、自分で自分に呆れ果てた。もう少し制御しなければ、いざという時に本気で悪い状況に陥ってしまう。



 ――これでは、誰かを殺すと思われても当然だ。



 益々落ち込んで、カイリは泣きそうになりながら手拭きで床を拭く。

 だが、いつまで経っても汚れた寝間着を脱ごうとしないレインに、不審を抱いた。

 どうしたのかと彼を見上げれば、彼は疑心を隠しもせずに顔に浮かべている。

 やはり、怒ったのだろうか。

 これでは彼の信頼を得るどころか、物凄い勢いで遠ざかっていきそうだ。カイリが深く穴を掘りたくなっていると。


「お前な……怒るなら、最後までちゃんと怒れよ。体に悪いぞ」

「……、え」


 ぽん、と頭を軽く撫でられる。

 思いがけない行動にカイリが目を白黒させると、レインはすっかりいつも通りの表情に戻っていた。

 その様子にホッとしたのもつかの間。



 ――ああ。また隠されてしまった。



 もう少しで掴めたかもしれないのに、また彼はするりと裏に隠れた。その事実に落ち込み、カイリは俯く。


「今のは、どう考えてもオレがあおっただろ。エリックと一緒にすんなってのも、村の奴ら殺されたお前としては、当然の反応だと思うけど?」

「……」

「それに、殺気も乗せてたしな。正当防衛だ。何も謝ることじゃない」


 言いながら、レインは早々に立ち上がってタンスの引き出しからタオルを取り出す。やれやれと、疲れた様に濡れた床を一緒に拭き始めた彼に、だがカイリの心は浮上しない。


〝お前の心一つで、多くの奴の命が左右される。それはとても頼りになる一方で、危険な存在だ〟


 彼が、殺意と共に見せたあの顔は。

 きっと。



「でも、……本心、なんですよね」

「……あ?」

「さっきの。俺が聖歌を歌えて、力も強くて。人を操ることが出来るくらいの力を持っているから、危険だって。それ、本心ですよね」

「……」



 レインが再び表情を削ぎ落とす。

 その反応で、彼の心にようやく触れられた気がした。


「……そう思うのは、きっと仕方ないことなんだと思います。だって、……俺がいくらそんなことしないって言ったって、エリックさんの例だってある」

「お前……」

「追い詰められて、保身に走らなきゃならなくなったら、……そうするかもしれない。レインさんがそう思うのは、もっともなんだと思います」


 エリックと一緒にされて腹立たしい。

 だが一方で、信頼の無いカイリが彼にそう思われても当然なのだとも思った。

 誰だって命は惜しい。カイリだって、死ぬのは恐い。

 ただ、――村のことがあるから。



 目の前で、大切な人達が殺されたから。



 だから、保身のために誰かを犠牲にするというその考え方に吐き気がするだけなのだ。

 それを彼に分かってもらうというのは、途方もない道のりだ。それこそ、時間をかけて信頼を積み重ねるしかない。

 だが、彼がどうしても、納得出来ないのならば。

 今この時に、少しでも安心出来る『何か』が欲しいのであれば。


「……。ねえ、レインさん。俺のこと、信頼出来ないんですよね」

「……。そうだな」

「だったら」


 一度、言葉を切る。正直、口にするかどうか激しく迷った。

 しかし、カイリとしても自分が彼の言う様なところまで堕ちたくはない。

 だからこそ、決意と覚悟を握り締め、彼に誓約を差し出した。



「レインさんが、俺が聖歌を悪用するかもしれないって思ったその時は。貴方が、俺を殺して下さい」

「――――――――」



 レインの目が、いっぱいに見開かれる。

 信じられないといったその表情に、カイリは震えそうになる指を握り締めて続けた。


「死ぬのは、恐いです。聖歌だって悪用するつもりはありません」

「……」

「でも、レインさんの言う様に、未来がどうなるかなんて分からない。吐きながら、嫌悪しながら、……もしかしたら聖歌を悪用してしまうその時が、来るかもしれない」


 今の自分なら、胸を張って悪用しないと言い切れる。

 だが、拷問を受け、四肢を切断され、洗脳されてしまえば、その限りではないのだ。

 かつて、村を襲った狂信者は四肢など無くても良いと断言していた。歌さえ歌えれば良いのだと。

 その状態になってしまったら、カイリとしてもどんな行動を取るか自信が無い。


「俺は、聖歌が……俺が歌う歌が、好きです。これは、俺の大好きな歌だから」

「……、好き」

「はい。それに、家族との、友人との、……村の人達との、故郷の大切な想い出が多く詰まっています。だから、これを悪用するなんて考えられないし、……したくもない」

「……」

「だから、もし、どうしても俺が悪用しそうになったら、その時はレインさん。貴方が、俺を止めて下さい。……俺を、殺してでも止めて下さい」



 俺に、歌わせないで下さい。



 切実に願って、彼に祈る。

 これは、カイリの本心だ。聖歌を悪用したくない、させないで欲しい。心からの願いだ。

 歌うことになったら、死ぬまで――死にたくなるほど後悔する。だからこその願いだ。

 レインは、静かにカイリを見据えてきた。燃える様な炎を奥に秘めた瞳が、探る様にカイリの目の奥に潜り込んでくる。

 どれだけの間、視線を交わし合っただろうか。



「……ったくな」



 先に折れたのは、レインだった。

 がりがりと頭を掻いて、レインは立ち上がる。その表情は弱り切っていて、なかなかお目にかかれるものではない。


「じゃあ、早速殺すかね」

「……それは、全力で抵抗します」

「違いねえ」


 ぶはっと噴き出して、レインは仰向けにカイリのベッドに寝転がった。自分のベッドに転がってくれと、抗議がしたい。

 しかも。



「なあ、カイリ。歌ってくれよ」

「え?」



 唐突にリクエストされた。

 今まで聖歌の善し悪しについて語っていたはずなのに、手の平を返した様だ。

 カイリが用心深く見下ろすと、レインは疲れた様に笑った。


「お前の歌、オレも好きだぜ」

「……っ、え」

「他の奴らの聖歌は好きじゃねえが、……お前のは何か、違う感じがするんだよ」

「……レインさん」

「あー、……調子、狂うよなー……」



 歌ってくれ。



 もう一度囁かれた言葉に、カイリは不意に視界が滲む。

 気付かれない様に息を吸い込んで、溜まりかけた熱を散らす。


〝母さん、カイリの歌が聞きたいわ〟

〝んー、父さんはあれがいいなあ。故郷のことを歌っているやつ!〟


 こんな風に歌をねだられるなんて、もう無いと思っていた。

 だが。


〝なあ、カイリ。歌ってくれよ〟


 まだ、求めてくれる人がいる。

 それは、カイリにとってはとても切なくて、くすぐったいことだった。

 こほん、と喉を整えて、カイリは息を吸い込む。

 まだ痛みは伴うけれど、とても深く好きな歌だ。彼にも届けば良いと、願って口を開く。



「――うさぎ追いし、かの山」

「――」



 父が一番好きだった歌。

 母も何だかんだでよくせがんできた歌。



 そして、カイリにとっても一番、思い出深い曲だ。



 歌ってくれと言われるなら、これしかもう思いつかなかった。



「こぶな釣りし、かの川」



 目を閉じて、レインが歌に耳を傾ける。

 その顔が安らいでいる様に思えて、カイリは静かに、目を伏せて『故郷ふるさと』を歌い紡ぐ。


 聖歌を悪用しない。


 彼の安らかな表情に、先程のやり取りを想起する。

 そうだ。その通りだ。

 カイリは、歌が好きだ。両親達との強い繋がりを持つ想い出だ。大切な宝物だ。

 その聖歌を悪用してはいけない。約束したから、というだけではなく、決して穢してはいけないと強く感じる。

 だから。



「夢は今も、巡りて」



〝こうげきはできなくても、そんな風に人のやくに立てる剣術だとおれは思うんだ〟



 ――自分が振るうこの剣も、決して悪用してはいけないんだ。



 思い知らされて、カイリは俯く。

 この『故郷』を歌っている今、尚更思う。



〝だから、カイリにはぴったりだなって〟



 ラインが、カイリに教えてくれた防御特化の剣。

 どんな豪速の一撃も全て弾き、かわし、攻撃が当たらない剣。

 おとりになって、誰かを逃がし、時間を稼ぐ剣。

 自分のためではなく、誰かのために在る剣。



「忘れがたき、ふるさと」



 ラインが教えてくれたのは、誰かを守るための剣なのだ。



 それを、私利私欲のために使ってはいけない。彼の教えを穢すなど、カイリの矜持きょうじが許さない。



〝そ! だから、カイリはだいじょーぶだよ!〟



 ラインがせっかく信じて託してくれたのだ。カイリに合う剣技を、誰かを守るための剣を教えてくれた道を、踏み外しはしない。

 故に、決意する。



 ――エリックさんと会っても、俺は、この剣を決して感情任せに振るったりはしない。



 仇として会うのではなく。

 一人の聖歌騎士として。

 あくまで、村の最後の生き残りとして会おう。



「――。……いかにいます、父母ちちはは



 一瞬、心の奥底が黒い痛みに刺された気がしたが、目を閉じて耐える。

 そうだ。間違えてはいけない。

 彼らが命懸けで繋ぎ、託してくれた命なのだから。



「つつがなしや、友垣ともがき



 この大切な歌にこめられた想いが、カイリの黒い感情を流し去ってくれる様な気がして。

 レインのために、自分のために、カイリは最後まで歌い続けた。


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