第64話


 試合が明日に迫った夜。

 なかなか寝付けないカイリは、宿舎の中庭に一人足を運んでいた。

 見上げた先では、まんまるの可愛らしい月が清楚に輝いている。庭を覆う瑞々みずみずしい緑の絨毯じゅうたんを照らす月明かりは優しく、この世界だけが切り取られたかの様に静かだ。


「……綺麗だな」


 最近は、ゆっくりと周りを見渡す余裕もなかった。村にいた頃は、いつも自然に溢れていて心をうるおわせていたのに、都会は何かと慌ただしい。

 もちろん、都会だから、というだけではない。

 教会のこと、ケントのこと、噂のこと、仲間のこと。本当に、たくさんのことがあった。それこそ、一人では抱えきれないくらいに。


 ――こんな時、両親がいてくれたら。


 叶わない願いを抱きながら、縁側に腰をかける。

 両親とは、その日あった出来事をいつも笑いながら語り合っていた。へこんでいた時は、隣に座って。悩んでいた時は、向かい合って相談に乗ってもらって。

 本当に他愛もない話を毎日毎日よくしたものだ。それだけで心は休まり、前へ進む活力になった。

 けれど、今は。



〝おかえりなさい、カイリ〟


〝おー、帰ったか! おかえり、カイリ〟



 懐かしい声は、聞こえても。

 もう。みんなは、ここにいない。



「……、……――うさぎ追いし、かの山」



 零れ出た歌は、無意識だった。

 自分でも驚いたが、止める気にもなれない。



小鮒こぶな釣りし、かの川」



 よく歌を歌ってくれと、せがんできた両親。

 少し前までは、それが当たり前だったのに。



 今は、こんなにも遠い。



「夢は今も、巡りて

 忘れがたき、ふるさと」



 震えそうになる声を、必死になだめる。

 この歌は、とても思い入れのある歌だ。特に父が大好きだった。――せめて、歌だけでも無様なところは見せたくない。



「いかにいます、父母ちちはは

 つつがなしや、友垣ともがき



 いつも優しかった父と母。

 賑やかに、笑い合った友人達。

 人目を気にしなければならなかったけれど、いつもみんなで一緒に歌っていた。



「雨に風に、つけても

 思いいずる、故郷ふるさと



 もう今は、制限なく歌えるはずなのに。

 何故だろうか。



 ひどくさみしくて、ただただ虚しい。



「志を、果たして

 いつの日にか、帰らん」



 いつか、あの故郷を再び訪れる日は来るのだろうか。慌ただし過ぎて、無理だろうか。

 けれどせめて、お墓まいりには行けたら良いと切に願う。

 あの、穏やかな自然に囲まれた故郷に、笑顔に溢れた日々に。

 いつか、帰れたら。



「山はあおき、故郷

 水は清き、故郷」



 ――帰れたら、良かったのに。



 歌い終えて、また静寂が訪れる。空気に溶ける様に声が吸い込まれていき、緑の海に落ちていった。

 大好きな歌を歌ったのに、心は全く晴れない。しばらく何をする気も起きなかった。ぼうっと、ささやき合う緑の声を眺める。

 だが、いつまでもこうしてはいられない。明日は試合なのだ。そろそろ寝なければ差し障りが出てくる。

 ぐっと、手に力を入れて立ち上がろうとしたその時。



「何ですの。もう、里心でもつきましたの?」

「――」



 誰もいないはずの空間に、別の人の声が響く。

 カイリが振り返ると、そこにはベージュのショールを肩からかけたシュリアの姿があった。いつもまとめている淡く輝く紅藤の髪が流れ、密やかに月明かりを弾いている。

 彼女の服装は、いつものロングスカートではない。淡い桃色と白が可愛らしく彩る、ふわりとすそが広がる寝巻き姿だ。しかも、ショールの生地はうっすらと透けていて、覆われてはいるものの胸元辺りの曲線がかなり危うい。


 ――寝巻き姿とか、駄目だろっ。


 村では年頃の女性がいなかったから意識したことが無かったが、彼女は子供ではい。若い女性がそんな格好でうろつくのは危なさ過ぎる。


「しゅ、シュリア。あの」

「あなたに襲われるくらいなら、死にますから。大丈夫ですわ」


 そういう問題じゃない。


 よく分からない理由を引っげて、シュリアは堂々とカイリの隣に腰を下ろした。ふわりと風に乗ってきた香りが爽やかに甘く、くらくらする。

 慌てて外向そっぽを向いたが、頬が熱い。気付かれていないかと冷や冷やした。

 早く中へ入ってくれと思いはしたが、彼女はカイリの言うことなど絶対に聞きはしない。観念して、そちらを見ない様に溜息を吐いた。


「……ごめん。うるさかったか?」

「いいえ。寝るのに支障はありませんでしたわ」


 なら、何故ここに来たのだろうか。

 この宿舎にはいくつか中庭があるが、ここの中庭は考えてみれば全員の自室から割と近い場所に造られている。そこまで大きな声で歌ったつもりはないが、聞こえていてもおかしくはない。


「そういえば、久しぶりにその歌を歌いましたわね」

「……『故郷ふるさと』のことか?」

「ええ。聖歌の力が強いというのを気にしていましたの?」


 前に、フランツに言われたことがある。『故郷』の威力は、上に知られてはいけないと。

 想像する力を変えれば良いだけの話だが、カイリはこの曲に関してはそこまで器用にはなれない。この歌を歌う時、必ず村のことを思い出すだろう。


「……いや。俺の心の問題だよ」

「……」

「これを歌うと、どうしても村のことを思い出すから。……まだ、思い出すのは辛いんだ」


 だが、それでも歌わずにはいられなかった。彼女の言う通り、里心がついてしまったのだろう。思った以上に心に負ったダメージが深刻だったに違いない。



 情けないなと自嘲しながら、カイリは立ち上がれなくなってしまった。



 誰もいなければ、まだ奮い立たせられたのに、何故シュリアが来てしまったのだろう。気合を入れたはずの力が抜けていく。

 しばらく、互いに言葉が無い。特に仲が良いわけでもないのだから当然だ。

 けれど、そこまで沈黙が嫌でないのは、カイリが彼女を嫌いではないからだろう。


 ――少しだけ、救われた気分になるなんて言ったら、酷い顔をされそうだな。


 想像して、微かに口元に笑みが浮かぶ。わずかに戻ってきた活力に、カイリは心の湿りを誤魔化す様に目を伏せた。

 そうだ。いつまでも無言でここにいるわけにもいかない。夜風に当たり過ぎれば、彼女も風邪を引いてしまう。

 だから、再び立ち上がろうとしたのだが、またタイミングを逃した。



「エディとリオーネのことですけど」

「――っ」



 どきり、とカイリの胸が怯えた様に跳ねる。

 シュリアの方を振り向けない。二人について、これ以上何を聞かされるのだろうと恐怖さえ覚えた。


「昔、同じことがあったのですわ」

「……、え?」


 同じこと。

 示された内容が上手く把握出来なくて、カイリが首を傾げると。



「第十三位についての悪意ある噂です。新しい騎士が入団するたびに、一ヶ月足らずで、わたくし達に対する罵倒や悪評が隅々まで振り撒かれたのですわ」

「……、え?」

「その後まもなく、新人は辞めて行きました。次の日にはもう、別の騎士団で笑って過ごしていましたのよ」

「……、は?」



 ざわっと、風が黒く騒ぎ出す。

 新しい騎士が入団するたびに。一ヶ月足らずで、罵倒や悪評を振り撒かれる。

 それは、今の状況に全て合致する。

 嫌な偶然に、カイリの胸が先程とは別の意味で怯える様に震えた。


「……、それって」

「ほとんどの新人が、上や他の騎士団が放った刺客の様なものですわ。第十三位に入ったらどうなるかの見せしめや、第十三位をより叩き落とし、教会の隅に追いやるための姑息こそくな手段です」

「なっ。……何だよ、それ!」


 カイリが反射的に叫ぶのを、シュリアは一瞥いちべつしただけで溜息を吐いた。

 その冷たい反応に、カイリはどうしても委縮してしまう。彼女にまで疑われているのではと思うと、自然と心と一緒に周囲の明度も落ちていった。


「もしかしたら、中には純粋に入って来た者もいたかもしれませんわ。けれど、他の騎士団は、特に第一位は第十三位に新人が入るのを良くは思いません」

「それ、って……」

「ケント殿は、多分関与はしていませんわ。けれど、どうでも良いから手も打たなかっただけです」


 先手を打たれて、カイリはうつむく。

 ケントは、確かに興味が無いものはどうでも良いという節が昔からあった。この人生でも同じ様だということは、父のクリスからも聞いている。


「ここ二年ほどは、新しい入団者もいませんでしたから。あなたが来て、そしてまた悪意の噂が流れた。エディとリオーネは、特に過去と照らし合わせて敏感になったのでしょう。二人は昔、純粋に新人を歓迎していましたし、落ち込み方も激しかったので」


 全貌を聞かされて、ようやくカイリも腑に落ちた。

 過去に繰り返し同じ様な中傷を受け、仲間を陥れられていたのならば、カイリを疑うのも無理はない。いくら違うと叫んでも、信じることは難しいだろう。

 ならば、本当に八方塞がりだ。一朝一夕で解決する問題ではない。


「……本当に、持久戦になりそうだな」

「……」


 ぽつりと、カイリがささやく。その声がまるで泣きそうに聞こえて、慌てて口をぎゅっと結んだ。

 ただでさえ、シュリアには出会った頃から情けないところばかり見せている。これ以上呆れられたくはない。


 ――本当に、そろそろ眠ってしまおう。


 ここで悩んでいると、本格的にどツボにはまりそうだ。

 思って腰を上げかけると、また機会を奪う様にシュリアが口を開いた。


「あなた、何故あんなことを言いましたの」

「……、え?」


 あんなこと、とはどんなことだろうか。

 心当たりがどれか分からなくて、カイリが振り向くと。



「エディとリオーネにです。試合に出なくても良いだなんて、負けるつもりですの?」

「……、ああ」



 二日前のことだ。

 第一位に喧嘩を売られ、レインに試合に出ろと言われた二人に、カイリは確かにそう告げた。

 あの時の言葉はそのまま本心だ。だから、質問されても困るのだが。


「いつものあなたらしくありませんわ」

「……、俺らしくない?」


 思ってもみなかった指摘に、カイリは首を捻る。

 そんな反応にいらついたのか、だん、と彼女は縁側を叩いた。



「全く、あなたって人は! ……ああ、いえ。あなたらしい、とも言えますか」



 どっちだ。



 物凄くツッコミたかったが、苛ついた彼女には通じない。

 故に、不本意ではあるが黙って拝聴する。


「とにかく! あなたとは一ヶ月と少ししか一緒にいませんでしたが、不自然でしたわ。いつものあなたなら、何が何でも出て欲しいって言っていたでしょうに。そう、『俺は無実だ! 噂が嘘だって証明するために、試合に出て絶対勝つ! だから頼む! 一緒に出てくれ! お願いだ!』とか、もしくは『待ってるからな! 試合、出てくれるの! 絶対待ってるから!』とか。それこそ、朝から晩まで付きまとっていそうですわ」

「……俺、どんだけ強引だって思われてるんだ?」

「旅のことを忘れたとは言わせません。わたくしに堂々と喧嘩を売ってきたではありませんの」

「……うっ」

「弱いし実力も伴っていないのに、こちらの気持ちなど考えもせずにずかずかと。全く折れませんでしたし」

「い、いや、気持ちは一応、……考えては、いる」

「考えた上であれなんでしょう。まったく、理解に苦しみますわ」


 どすどすと痛いところを突かれて、カイリの頭が垂れていく。

 確かに、彼女とは最初からぶつかってばかりだった。カイリも無鉄砲だったのは重々承知している。


「突き放されても、違うなら違う。そう言って、食らいついていくのがあなたです。なのに、今回は違った」

「……」

「確かに、旅の間も変なところであなたは引いたりしましたが……何か、思うところでもありましたの?」


 ああ、とカイリは深く感じ入る。彼女は本当に鋭い。



 ――シュリアには、敵わないなあ。



 旅の間、発破をかけてくれたのも、背中を押してくれたのも彼女だった。

 今回だってそう。エディやリオーネとぶつかるキッカケをくれたのは彼女だ。彼女の真っ直ぐで不器用な強さと優しさが、カイリには眩しい。


「……実はさ、……同じだったんだ」

「? 同じとは」

「昔、同じことがあったんだ。……お前が、色々酷いこと言ってたんだろ。お前がやったんだろって。みんなに責められたことがあって」

「――」


 あの時は、クラス全員が敵に回った。

 自分の言葉を聞いてくれる人は誰もいなかった。教師は見て見ぬふりだったし、ケントも同じクラスにはいなかった。

 エディとリオーネの様に決め付けて、憎んで、自分を真っ向から責めた。

 あの時受けた痛みは、決して忘れることは出来ない。


「前世の時の話だから、本当にかなり前のことなんだ。……昔は、誤解を解くのを諦めたんだけど、今回は頑張ろうかなって」

「……頑張った結果があれですの」

「俺としては、頑張ってぶつかったつもりなんだけど。……それでも、俺らしくなかったのかな」


 どこかでまだ躊躇ためらいがあったのかもしれない。シュリアが言うのだからそうなのだろう。

 自分はやっていない。言っていない。

 そう訴えても信じてもらえない辛さは、未だに傷となってこびり付いている。

 声をかけても無視される。それなのに、こちらに聞こえる様に、ひそひそ話をされる。嘲笑される。後ろ指を指される。

 エディとリオーネは陰口こそ叩かなかったが、それでもやはりこたえた。


「俺、やっぱり怖がってるんだな」

「……」

「……これから、まだ第十三位でやっていくつもりなのに。駄目だなあ、……っ」


 声が詰まった。これ以上弱音を吐きたくない。

 だから、今度こそ強引に立ち上がって話を終わらせようとしたのに、シュリアは言葉をかけてきた。終わらせまい、とするかの様に重ねてくる。


「あなた」

「……っ、……何だ?」


 答えないわけにはいかない。彼女は逃げ道を封じてくる。

 泣きたくないのに、と恨みがましく振り返ると。


「わたくしのこと、恐くありませんの」

「――、はい?」


 いきなり何を言い出したのか。

 いぶかしげに眉をひそめれば、彼女はやけに無表情で告げてきた。



「親殺しのわたくしのことです。恐くはありませんの」

「――――――――」



 切り出された質問に、カイリは一瞬絶句した。


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