第63話


「あ」

「あ」


 ばったりと、食堂でエディはリオーネと顔を合わせた。

 夜も深まり、世界が静かに眠りに就いている時刻。エディは眠れないままベッドの上で寝返りを打ちまくり、耐えきれずに部屋を出た。


 ――食堂で水でも飲もう。


 そう思って食堂の扉を開けると、リオーネの姿があったのだ。

 お互い、顔を見合わせて気まずげに目を逸らす。いつもならば、彼女に対して熱烈な愛の告白をするエディも、今日ばかりは口にする気分にはなれなかった。

 第一位が来た日に、怒涛どとうの様に考えさせられることがあってから、もう二日経つ。

 そう。もう、二日だ。



 明日。あの新人は、第一位と試合をする。



 メンバーとして一緒に選ばれたのは、エディとリオーネだ。レインが勝手に決めた。試合に出ろと。

 冗談では無かった。何故、自分が。

 そういう気持ちと――罪悪感とがせめぎ合ってはいたが、圧倒的に反発心が勝っていた。はずだった。

 だが。



〝試合のことなんだけど〟



 新人は、笑顔で告げてきた。



〝出なくても良いよ〟



 試合に、出なくても良いと。笑って、首を振った。



「……明日。試合、ですね」



 リオーネが、しめやかに告げてくる。

 こちらと目を合わせず、彼女はあらぬ方角を見つめていた。その方向に気付いてしまい、エディは殊更ことさらに目線を流す。


「……、そうっすね」

「……」


 再度、沈黙が訪れる。

 明日、試合はあるがエディとリオーネは出るつもりはない。

 だって、新人は、試合に出なくても良いと笑っていた。

 嫌いだろ、と。嫌だろ、と。

 信じられないのだから、仕方がない、と。

 そんな風に、言ってきたのだから。



「――っ」



 ぐっと、喉が握り締められた様に痛む。



 何故、あんな風に彼は言うのだろうか。しかも、笑って。やはり彼が第十三位の悪意を流したのではないかと疑いたくなった。

 だが、違う。



 ――きっと、そうではない。



〝……例え殴られても、俺の意志は変わらないっ。俺は! 第十三位の一員だ! 彼らを侮辱する奴らは、俺が許さない!〟



 扉越しだったから、全ての会話が聞こえたわけではない。

 けれど、彼は、第一位に喧嘩を売っていた。殴られたのに、毅然きぜんと彼らをね付けていた。

 エディ達のことを、侮辱するなと。第十三位にこれからもいると。

 本当に第十三位を悪く思っているのならば、そんな演技をする意味はない。ましてや、殴られて痛い思いをする必要も無かった。

 だから。


「……カイリ様。怒っていましたね」

「っ」


 嫌なタイミングで、痛いところをリオーネが突いてくる。

 彼女も、きっと同じ時に同じことを思い出していた。そうでなければ、こんなに心臓の悪い言葉は無い。


「私達のこと、悪く言っていたはずなのに」

「……」

「それなのに、……私達のこと、かばっていましたね」

「……っ」


 どうして今、はっきりと言葉にしてしまうのか。

 彼女の気持ちが分からない。エディと同じく、あれだけ彼に対して不信感を募らせていたのに。

 それなのに。


「ねえ、エディさん」

「……何すか」


 つい、刺々しい反応になってしまう。普段からは考えられない失態に、エディはしかし言い直すことも出来ない。

 心が震える。一緒に、吐息も震えた。

 それは、きっと彼女も同じだ。

 何故なら。



「……私達。一体、何をしているんでしょうか」

「――――」



 彼女の声は、震えていた。



 静かに濡れる声が、乾いた空気に沁み渡る。彼女の歌声の様だと、エディはどこかで思ってしまった。歌う様に泣くとは、まさにこのことだろう。

 だが、エディだって同じだ。同じ気持ちだ。

 彼のことを、まだ信じられない。あれだけ啖呵たんかを切ってくれた彼を、未だに信じることが出来ない。

 何故なら。



〝初めまして! オレ、ファルって言います!〟



 今までの新人も、同じ様に笑顔で入団してきたから。

 同じ様に、噂を否定してくれたから。

 だから、信じることなど出来はしなかった。


〝エディ先輩、エディ先輩! おはようございます! 今日も訓練、よろしくお願いします!〟


〝エディ先輩って、優しいですよね。オレ、ここに入れて良かったです!〟


〝第十三位のこと悪く言ってる奴らがいるけど、全然ですよね。あーあ、噂って恐いですね〟


〝エディ先輩! 銃剣、教えて下さい! オレも早く強くなって、先輩達の役に立ちたいんです!〟


 今でも覚えている。初めて入った新人は、ファルという名前の少年だった。

 エディに懐いて、教えを請うて、何処に行くにも一緒に来て。

 快活かいかつに笑って、すぐに第十三位に溶け込んでいた。

 エディに懐いていただけではない。聖歌語がなかなか扱えないということで、リオーネにも熱心に聖歌語の教えを説いてもらっていた。

 武術にも聖歌語にも、懸命にはげんでいた。レインやシュリアにも積極的にぶつかって行き、土をつけられながらも必死に食らいついていた。

 熱心な子だった。良い子だった。いつも笑っていて、明るくて、やる気に満ち溢れた素直な子だった。

 楽しかった。彼と話すと時間があっという間だった。

 だから、エディも忘れていたのだ。



 第十三位が本来、周囲に何と思われているかということを。



〝本当に、ひ、酷いんです……っ!〟



 あれは、ファルが入って三週間くらい経った頃だっただろうか。

 本当に偶然だった。エディは、もうすぐ調理用の油が切れることをすっかり忘れていて、いつもの様に買い出しに出かけたのだ。

 その、渡り廊下を歩く最中の、ちょっとした庭の茂みから『それ』は聞こえてきた。



〝せ、先輩達、本当に、……こ、恐いんですっ!〟



 この声は、ファルだ。

 そう思った矢先の、宣告だった。



〝オレのこと、……や、役に立たないからって、……何度も何度も殴って、蹴って、……昨日は、……お湯、ぶっかけられて……っ〟



 頭が冷えるとは、こういうことだろうか。

 それくらい、エディには衝撃だった。

 確かに、彼は昨夜お湯をかぶってしまった。調理中に手元が狂ってしまったらしく、お湯を沸かしていた小鍋を引っくり返し、右腕に少しかかってしまったのだ。

 けれど、それはエディ達がかけたものではない。彼が自ら被ったものだ。故意ではない。間違いなく事故だった。

 それなのに。



〝……うわ、ひでえ〟

〝何だよ、それ。いじめじゃねえか!〟

〝そ、それに……あんなに広いのに、宿舎の掃除、全部、やらされて……。終わるまで、食事も抜きでっ〟

〝はあっ!?〟

〝団長は、オレを見るたび怒鳴り付けるし、閉じ込めるしっ。しゅ、シュリア先輩は無視するし、レイン先輩は裏表が激しいんですっ。表ではへらへらしているのに、しゅ、宿舎の中では……! すっごい冷たくて、狂暴で。ごめんなさい、許してって言っても、殴られて……っ〟


 何をでたらめを。

 エディの頭の中がふつふつと煮えたぎる様に沸騰していく。

 フランツは少しズレているが優しいし、シュリアは何だかんだで面倒見が良い。レインもさりげなくフォローをしてくれる、最高の先輩達だ。

 それなのに。


〝うわあ……第十三位って、色々酷い奴らだって噂だけど、本当みたいだな〟

〝さすが、傷持ちなだけあるわ〟

〝おいおい。もう第十三位やめて、こっち来いよ〟

〝うっ、……ふっ。……それに、……リオーネ先輩は、オレに目をつけたみたいで、……毎晩ベッドに押し倒されて……〟

〝――え〟



 騎士達の絶句が、エディの元にまで波紋の様に伝わってくる。

 リオーネのことまで、悪し様に言い始めた。

 瞬間。



 エディの頭が沸騰した。茂みを掻き分け、ファルの元へと突進した。



 その時の彼の怯えようと言ったら無かった。



〝ひっ……!〟

〝げ、おい、第十三位じゃねえか! ……聞いたぞ! 新人に何してんだ!〟

〝寄ってたかってストレスのはけ口にするなんて、それでもお前ら騎士かよ!〟



 うるさかった。ハエがぶんぶん耳元で飛び回る様に鬱陶しくて、堪らなくて。

 そして。



 他の騎士達がかばう後ろで、ファルがゆっくりと――本当にゆっくりと、口元の端を吊り上げていくのを目にして。



 何かが、エディの頭の中で強くぶち切れた。



 その後のことを、エディはよく覚えていない。



 気付いたら、フランツやレインがエディを羽交い絞めにしていた。やめろ、と妙に冷静に二人が押さえ込み、それでも止まらないエディを殴り付けた。

 目の前には、いつの間にか腹を抱えてうずくまる数多の騎士達の姿が散見されて、ぼんやりと眺めるだけだったのだけは覚えている。


 その倒れた中には当然、ファルの姿もあった。


 おかげで、エディは一ヶ月の謹慎処分を食らったのだ。第十三位の悪報も瞬く間に強く広がってしまい、立場は一層悪くなった。

 それなのに、フランツ達は何も言わなかった。いつもは皮肉や嫌味を飛ばすシュリアでさえ、エディを強く責めたりはしなかった。

 淡々と、日々を過ごし。フランツ達も、今までと変わらずに接してくれた。

 そうして、一ヶ月後。久々に外に出た時。



 ファルは、第十位へと移籍していた。



 笑っていた。輝かんばかりの笑みで、同僚と笑って過ごしていた。

 まるで、第十三位との日々は無かったかの様に、彼は何事も無く過ごしていた。すれ違ったのに、エディの方など見向きもしなかった。

 そして、悟った。



 ――ああ。結局、彼は第十三位をおとしめるためだけに来たのだと。



 それから、何人か新人が入ったが、全員同じだった。

 最初は今度こそ、今度こそと思ったのに、一年が経った頃にはもう「ああ、またか」とあざけりさえ含んだ笑みが零れ落ちた。

 だから。



 最初は、新人であるカイリという人間が第十三位に来ると知った時、動揺した。



 ああ、またかと思った。どうせ、また一ヶ月足らずで第十三位を貶めて去って行くのだろうと。

 リオーネも同じ気持ちだっただろう。フランツから手紙で知らされた時、複雑そうな顔をしていた。

 けれど。



〝ああ、本当に! 彼は年上への敬意がなっていないんですわ!〟



 その新人が来ることとなった当日。

 先にそのことを伝えに来たシュリアが、珍しく感情をあらわにして声を荒げていた。


 カイリという名前の新人は、何と旅の間シュリアと喧嘩をしたのだそうだ。


 噛み付いてくる。年上を年上とも思っていない。礼儀がなっていない。真っ直ぐで頑固で、どうせ第十三位に入ってくる。足手まといなのに。そのくせ聖歌の威力は馬鹿みたいに強い。

 ここまであけすけにこき下ろすシュリアに、エディもリオーネも呆気に取られたものだ。レインも「へえ」と興味深そうに彼女を観察していた。

 だから、悪戯を仕掛けてみることにしたのだ。扉の隙間に、小麦粉を大量に入れた缶を挟んだら、どんな反応をするかと。

 結果は。



〝新人いじめなんて、見下げた根性なので。是非とも上司であるフランツさんに責任を取ってもらおうと思いまして〟



 生意気にも、上司となるフランツを餌にした。



 確かに、今までの新人とは違うと感じた。それは、他の者達も同じだっただろう。

 それに、彼はフランツの親友の息子だと言う。身分の証明にもはくが付いている。

 しかも、人を皮肉と嫌味で突き飛ばすシュリアが、ここまで気にかけていることも拍車をかけた。

 極めつけに。



〝お願いします。……どうか、俺を。この第十三位に入れて下さい〟



 彼は、自分達に許可まで求めてきた。

 頭を下げて。試験が無いなんて不公平だから、全員の許可が欲しいのだと。

 そんな新人は初めてだった。

 だから。



 信じてみよう。もう一度だけ。



 思って、エディは彼を歓迎した。リオーネも同じ気持ちだったらしく、一生懸命聖歌のことを教えていた。その後、自主的に練習している彼を見て、こっそり彼女が微笑んでいたのも記憶に新しい。

 彼は素直で、けれど少し生意気で。それでも根は優しいらしく、エディの掃除を手伝ったり、食事の用意に参加したり、買い物に出かけたり、色々動いていた。

 リオーネがびんふたを開けるのに手間取っているのを、さりげなくフォローしたり。いつの間にか椅子にかけていた上着が落ちているのを、何も言わずに拾って元に戻したり。後で片付けようと思って忙しさのあまり忘れていた雑巾ぞうきんを、綺麗に洗って干しておいたり――。

 些細なことばかりだ。当たり前のことなのかもしれない。

 それでも、彼の小さな優しさを目の当たりにするたび、今度こそ信じたいと思う気持ちが強くなっていった。

 それなのに。



〝おい、聞いたか? 第十三位に入った新人、いじめ受けてるんだってよ〟



 リオーネと、買い物に出かけた時が最初だった。

 耳にした瞬間、体から血の気が引いていく様な思いだったのは今でも鮮明に思い出せる。



〝なんか、同室の奴には毎晩襲われてるってよ〟

〝は? ほんとかよ。いや、女も色気振り撒いてすり寄ってきてるとか聞いたぜ〟

〝団長は、脅して第十三位に入れたんだろ?〟

〝あの双璧の女だっけ? あいつ、顔を合わせればねちねちねちねち嫌味言って、心ずたぼろにするって〟

〝下っ端の奴は、掃除全部押し付けてきて、終わらなかったら飯抜きとか〟

〝はあ。よくまだ第十三位にいるよな。俺なら、もう泣き付いてすぐ抜けるぜ〟


 聞いた様な内容ばかりだった。三年前は、よく耳にしていた。

 おまけに。



〝お前……新人のこと甚振いたぶって、毎晩泣かせてるんだってな〟



 あろうことか、彼らは悪評をささやくだけではなく、暴力まで振るってきた。



〝この下種げすが! オレ達と同じ空気吸ってるだけでも吐き気がするぜ!〟

〝お湯ぶっかけて、見えないところに火傷とかさせてんだろ? お前も同じ目に遭わせてやろうかっ〟

〝毎晩全員で襲ってんだってな。生まれが穢い奴は、やることも穢ねえな! ……おら、何立ってんだ! 許可してねえぞ!〟

〝ほら、土下座しろよ。お前達二人共、土下座しろ! 俺達が良いって言うまで頭上げるんじゃねえぞ〟

〝……何だ? その目は。反抗的だなっ。全然反省してないじゃないか〟

〝新人を、――あろうことか聖歌騎士をなぶり殺そうとする愚者がっ。息をするな。死ね! 死んでしまえ!〟


 あらゆる罵倒と暴力が、エディに振ってきた。リオーネは女性だからなのか、何とか暴力だけは免れていたが、それでも間近で大勢に罵られて泣きそうになっていた。泣かなかったのは意地だったはずだ。

 三年前よりも、酷い結末だった。

 けれど、結果は同じだ。

 故に、すぐに諦めた。



 ――ああ。あの新人も、同じなのだと。



 エディ達には良い顔をしているが、結局第一位の刺客なのだ。第十三位を叩き潰して、すぐに別の騎士団で、自分達を馬鹿にした様に笑って過ごすのだ。

 結局、彼らと同じ。

 だから、すぐに出て行くだろう。そう思っていたのに。



〝……、俺、エディに何かした? ここ最近、ずっと怒ってないか?〟



 ――どの口がっ。



 瞬間的に沸騰した。殴り飛ばしたかった。

 けれど、それでまた第十三位に迷惑がかかるのが嫌で、堪えた。

 それなのに、彼は何度も何度も話しかけてくる。しつこくて、フランツの前で怒鳴り返してしまったのは罰が悪かった。

 シュリアに強制的に向かい合わされ、説教され。エディは積もりに積もっていた怒りを爆発させた。

 それで、終わるはずだった。彼も本性を表すはずだった。

 それなのに。



〝何で俺が言ったって決め付けるんだ! エディは、俺が誰かに何かを言ってたところでも見たのかよ!〟



 彼はあろうことか、食って掛かってきた。

 違うと。言っていないと。

 それだけではない。


〝どうして、……どうしてもっと早く言わなかったんだ! こんな大事なこと!〟


 彼は、いきなり怒り出したのだ。

 エディ達を心配する様な素振りまで見せてきた。自分を悪者にしてでも訴えれば良かったじゃないかと、泣きそうな顔で怒鳴り散らしてきた。


 彼は、最後の最後まで無実を訴えてきた。自分は、やっていないのだ、と。


 そんな馬鹿なこと、あるはずがない。確かに、彼が告げ口した場面を押さえたわけではないが、ここまで噂が広まっているのだ。十中八九彼の仕業だとはらわたが煮えくり返っていた。

 それなのに。



〝頭は冷えたか?〟



 レインは、彼の味方をした。



 シュリアも、フランツも。激しくエディとぶつかり合ったのに、彼とは今まで通りに接していた。

 三年前の時は、対処してくれていたのに。



 新人カイリには、何もしなかった。



 何故。

 そんな疑問ばかりがぐるぐる渦巻いて。

 決定打になったのは、第一位が訪ねてきた時だった。

 フランツが誘うままに、立ち聞きをしていた。彼が本性を表すところを突き止めてやろうと、半ば意地だった。

 第一位は胸糞むなくそ悪いことばかりのたまって、しかも事もあろうに新人に自分達の過去を暴露してきた。絶対に知られたくなかった、誰もが怯えて忌避する過去ばかりをだ。

 これで、もう完全に終わった。

 そう、思ったのに。



〝……っ、言った、だろ……っ。第十三位を侮辱する奴らは、俺が! 許さない……っ!〟



 何故、まだ自分達を庇うのか。



 殴られて痛かっただろうに。もう演技をする必要も無いだろうに。

 彼は、怒っていた。激しく、第一位を非難していた。

 もう何が真実なのかエディには分からなかった。何を信じて良いのか分からなくなった。

 自分がいけないのか。彼を、信じなかったから。

 だから。



〝……もしかしたら、本当に俺が言ったんじゃないかもって。そう思ってもらえる様に、頑張るよ〟



 ――あんな、悲しい台詞を。言わせてしまったのか。



 ここまで歩み寄ろうとしてくれているのに、エディはまだ彼を信頼出来ない。

 だって、裏切られるのが恐い。今までの新人の中にも、自分達を庇ってから平然と裏切る者はいたのだ。

 味方のフリをして、みんな、みんな、最後は裏切っていった。

 だから、また、信じて裏切られたら。

 彼を信じて、あの笑顔が醜いあざけりに変わったら。



 今度こそ、エディはもう、心から笑うことが出来なくなる。



 裏切られることが分かっているのなら、もう信じなければ良い。彼を信じなければ、楽になれる。何を言ってきても、もう決めた。

 そう、思っていたのに。



〝……だから、今は信じてもらえなくても良いよ。……ごめん。嫌な思いさせて〟



 ――こんなに、余計苦しくなるなんて。思いも寄らなかった。



 リオーネも、苦しんでいる。だから、眠れぬ夜を過ごしている。

 向かい合ったまま、黙り込む。しん、と静寂が痛いほど耳を突いてきた。

 動けないまま、口を開くこともままならないまま。

 エディが、リオーネと言葉も無く向かい合っていると。



「――うさぎ追いし、かの山」

「――――――――」



 歌声が、聞こえてきた。

 リオーネが顔を上げる。エディも、つられる様に声を追いかけた。



小鮒こぶな釣りし、かの川」



 声の主など、決まっている。この三週間、毎日聞いてきた。

 中庭だろうか。ここまで通る様な声なのかと、エディは不思議な気持ちになった。それとも静かな夜だったからだろうか。

 けれど、理由なんてどうでも良い。


 誘われるまま、背を押される様に。


 エディも、リオーネも。歌声を追いかける様に、食堂から一歩を踏み出した。


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