2-58 PM19:23/ヴォイド・クローム
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
雄牛もかくやと言わんばかりのアトラスの猛突進をまともに食らい、粉砕されたコンクリートの破片ごと、闇夜の庭園のど真ん中へ落下したヴォイドの瞳の奥で、ちかちかと白い光が、空疎な思考と共に明滅した。
暗夜のギュスターヴ邸。その二階からの落下。しかし、機械化された脳が即座に緊急信号を流し、全身の人工筋肉に搭載された衝撃緩和機能が自動的に働いたおかげで、地面に背中を強く打ち付けたにも関わらず、軽傷で済んだ。問題なのは肉体的ダメージではなく、心にぽっかりと穿たれた空洞を埋める術が、この期に及んでも見つからないことの方だった。
いや、むしろこの期に及んでしまったからこそ、と表現した方が的確かもしれない。
「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す!」
ヴォイドと同様に地面へ落下したアトラスと言えば、花を無惨にも踏みしめ、すでに立ち上がっている。意気揚々と鼻息荒くレイピアを振りかざし、好物を前にした野犬のごとく、じりじりと距離を詰め始める。
攻撃が来る。まだ戦闘は継続している。
生命の危機がすぐそこまで迫っているという自覚の下、ただちに身を起こし、すかさず五本のワイヤーを打擲。だが、それは「戦う」という意思がそうさせたのではなく、長年の血生臭い習慣の末に染みついた「癖」と言うべき反応だった。
戦略も戦術も、何もなかった。ヴォイドはただ、ワイヤーを振るい続けた。明確なビジョンもなく、結果も求めず、熱情もなく、命の鼓動を途切れさせまいとする肉体的な欲求に従属するかたちで、振るい続けた。
「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す! ハ、ハハ、ハハハハハハハ!」
秒にも満たない速度。しなやかな剛脚のステップ。風と一体化したに等しいアトラスが、軽やかに五条のワイヤーを躱し切る。いかな素早き鋼線の連撃であろうと、殺気も気迫も乗っていないのであれば、その軌道を見切ることは蝶と戯れるより容易かった。
戦う。打ち勝つために――それで俺は、どうしたいのだ?
仲間を危難から遠ざける。己に課した切実な約束すら全うできず、リガンドとオーウェルを喪い、今また、新たな危難をパンクたちに迎えさせてしまった。
その呼び水となったのは、他ならない己だ。
奇跡を信じきれない思考が、仲間たちに悪運を拾わせた。
自分と彼らの見ている『現実』の決定的な差異を埋めようと、努力してこなかった。
そのツケが、最悪のかたちで具象化してしまった。
責任は、己にある。
甘ったるい芳香を放つ花々に軽く酩酊しながら、男の虚無は拡大し続ける。
「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す!」
可憐な花々を舞い散らせながら、巨躯の赤武者が、文字通り目にも止まらぬスピードでヴォイドの周囲を駆け巡る。高速の下で放たれる、ほとんど衝撃波に近い斬撃の渦が、棒立ちのヴォイドの全身を、嬲る、嬲る、徹底して嬲る。ジャケットが、キンセンカのプリントされたシャツが、両手首に巻いた金色のバングルが、真っ黒なスキニーパンツが解れ、破れ、裂け、あちこちから血が流れる。
背筋を斬りつけ、太腿の肉を削ぎ、胸板を突き刺す。アトラスの繰り出す剣撃は超人的な軌道を描きつつ、しかし、どれ一つとして致命傷には至らない、ギリギリの塩梅を心得ている。
「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す! ハ、ハハ、ハハハハハハハ!」
おぞましき野太い哄笑。アトラスは明らかに、この状況を楽しんでいた。
自身の愛刀を破壊した憎むべき相手に、どのような最期を迎えさせてやるべきか。理性の蒸発した、野蛮な大脳の襞で、嬲り殺しの味を噛み締めているのだ。
「――――ッ!」
宙をのたうつワイヤーが、木っ端のように吹き飛び、鉛色の飛沫を散らす。それに構わず、ほとんど無意識で左腕を振るう。
機械化された腕の内部に溜められた液体金属。その残量を示す目盛りはとっくに半分を割っている。ジリ貧という言葉では済まされない。一方的なこの状況を打開せねば、近いうちに必ず死が訪れる。
それは、分かっている。
だが分かっているだけで、どうにもならないことだって、この世にはある。
どうにもならない事情。どうにもならない事象。その犠牲となったのは、リガンドであり、オーウェルであり、そして、ジャーナリストの仕事に誇りを持って取り組んでいた、父であった。
痛覚遮蔽システムが働いているのもあって、肉体的な痛みは露ほども感じず、結果として痛覚に思考のリソースが割かれる事態にはない。しかし、その雑味が入る余地のない、本来なら冷静さを最大限に発揮できるはずの澄み切り過ぎた思考こそが、今のヴォイドの精神を負のスパイラルに陥らせる、最たる要因であるのかもしれなかった。
甘んじて白刃の下に自らの肉体を晒せば晒すほど、ヴォイドの空疎な心は、ますますその領域を拡大させていく。アトラスの獰猛なる斬撃に肉体が食い荒らされるのが先か。それとも、心が完全なる虚無に飲まれて崩壊するのが先か。どちらも時間の問題だった。
「(あぁ、なぜだ)」
自身が負うべき罰を、当然のように受け入れるかのような姿勢のまま、動かない。断ち切れ、即座に形状を取り戻すワイヤーの嵐。それを巧みに掻い潜って、縦横無尽に襲い来る白刃の波を止める術も、止める気も、今のヴォイドにはなかった。
「(なぜ、俺はあんなことを……)」
舞い上がり続ける血染めの花弁竜巻。その中心に立ち尽くし、全身に無数の切り傷を負いながら、男の脳裏に到来する数分前の風景。
――お前が俺の人生の、何を知っているというんだ。
「(違うんだパンク。そんなことを言うつもりは……)」
可能なことなら、取り消したかった。だが、悔やんでも遅かった。絆を断ち切るような言葉を先に発したのは、他ならない自分だ。
自分から、繋がりを断った。
そんな薄情者がここで生き残ることに、いったいどんな意味があるのだろう。
「(俺は、世界に対して臆病すぎた)」
他の誰かに与えられた力を思う存分に戦場で発揮し、憎むべき者を惨殺する。その後どうしたいかなど、何も考えなかった。考えようとしてこなかった。
増大し続ける憎しみを、
自分に足りないものとはなんだったのか。
多量の血と油で汚れた地面に視線を落としながら、ぼんやりと疑問が湧く。
だが、それを考えられるだけの余力が湧いてくる予感もなく。
終わりの時は、すぐそこまで近づいている。
「……ブッた斬って刺す」
あまりにも反撃の意思を欠いた攻撃が続くことに興ざめしたのか、それとも、単純に飽きてしまったのか。どちらが理由であるかは定かではないが、唐突に刃の嵐が止んだことだけは、確かだった。
連続的高速移動の衝撃を受けて宙に舞いあげられた花弁が、自然の風に吹かれ、静止した二人の男の頬を吹雪のように殴りつける。
一人は気狂いの眼差しを虚空に向け、だがレイピアの柄を握る手には、ありありとした生気が宿っている。
もう一人は、ボロ雑巾も同然と化した衣服のまま、断頭台に立たされた囚人のごとき気配を匂わせ、自身の血で汚れた地面へ虚ろな視線を落としている。
両者の戦場における立ち位置の差は、決定的であった。
ヴォイドは静かに目を瞑った。己の命を繋ぐことへの執念は、肉体的な欲求だけでは続きようもない。決定的に欠けていたのは、意志の強さだった。そして、その肝心要たる意志を欠いた者が最期に辿り着く場所は、身を投げ出すための断崖の絶壁である。
意識が遠のいていく。どうやら血を流し過ぎたらしい。立っているのもやっとの有様だ。
もう、どうとでもなれ――ぼんやりとした諦観を燃料に拡大し続ける空疎な心に蝕まれて終わるくらいなら、肉体が先に死を迎えてくれたほうが、ずっとマシだと思えた。
しかし――しかしである。
いつになっても「その時」は到来せず、ただ無音のみが場を支配していた。
「(……なんだ?)」
なぜ、ひと思いに斬り殺さないのか。
気がかりを得たヴォイドが不意に目を開けたのと、何か、重い金属の塊が地面に落ちる音がしたのは、ほとんど同時だった。
「……ブッた……ブッ……ブッた……斬っ……!!」
信じられない光景があった。
先ほどまで無双の力を見せつけていたはずのアトラスが、自らの肉体の一部と断言できるほどの一体感を伴っていたレイピアをむざむざと落とし、片膝をついていた。そればかりか、首元を抑えて激しく咳き込み、吐瀉物をまき散らし、悶え苦しんでいる。
敵が見せた突然の変調に、しかしヴォイドには覚えがあった。いや、覚えがある、どころの話ではない。これまでの数十年、『彼ら』と共に数々の依頼をこなしていく中で、ああした風に命を削り取られていく者たちを、彼は大勢見てきた。
毒の霧。多種多様な有機化合物を体内で調合し、いかなる精密機器でも同定すること困難極まる複雑怪奇な、無味無臭にして空気と一体化してしまうほどに透明なその霧は、指向性という名の『殺意』を上乗せすることで、その本領を開花する。
その仕手の名を、朦朧とした意識に侵された視界が、ぼんやりと輪郭を捉えた。
麗しく長い黒髪に黒ワンピース姿。その上に、ダウンジャケットを着こんだ女。
自然と、乾き切った喉の奥で、喘ぐようにしてその名を口にする。
「ア、 ンジー……」
こんなどうしようもない男に、健気な想いを寄せてくれていた女性。未だ目にしたことのない奇跡の少女とやらの手を引いて、一足先にヘリポートへと向かったはずの彼女の姿を、アトラスの肩越しに捉えたその刹那、ヴォイドの胸中で広がり続ける虚無の領域を押しとどめるほどの、激烈な衝撃が沸き上がった。
「どうして……君がここに」
すでに命の灯が尽きかけ、満足な声量も伴わない、そのほとんど呟きとさえ言っていい疑念の声に、屋敷の壁の向こうから姿を現したアンジェラ・ミキサーは、大粒の涙を蓄えると、拳をぎゅっと握り締めて、
「あのまま放っておけるわけないじゃない!」
奔流の如き感情を懸命の咆哮に上乗せし、まっすぐにアトラスの巨大な背中を見据え続けた。いま、彼女の全身からオーラのようにうねり狂う毒霧の成分は、大戦中に使用された神経ガスをさらにより強力にしたもので、巨象を十秒と経たず昏倒せしめるほどの筋肉痙攣を引き起こす代物だった。
しかして、アンジーは瞠目せざるを得なかった。巨象と比較すればはるかに小さく、だが尋常なる人と見比べれば巨躯と断じて良い体躯を誇るアトラスが、震える四肢に気力を込めて立ち上がり、鍛え上げた肉体へ無礼にも不意打ちを仕掛けてきた、愚かなる女の方を振り向く。
「うそ……そんな……!」
「アンジー……!」
「ブッ……滾るッッゥゥゥゥゥウウウウウッッッッツ!!」
ただでさえ虚ろ気な瞳が、ガスの作用で収縮を繰り返し、哀れにも鼻水を垂らしまくるというみっともない姿になろうとも、それでも、この偉丈夫の戦闘の灯が、消えたわけではない。
自身の力に絶対的な自信を持つ者の意地。その点だけを見れば、ここはアトラスに軍配が上がったとみていいだろう。もしも彼に『誇り』なるものがあるのなら、それは人外の怪物を狩り続けてきたというその異常な戦闘経験に基づくものというよりかは、ボルケイノへ向ける信奉の力ゆえと言えるかもしれない。
自分のためではなく、誰かの為を想い、死に物狂いに事を為さんとする者。
もしもそれを、世界における『強者の姿』の正道と定めるのであれば、
ここにはもう一人、その可能性を秘めた者がいた。
「――――ッ! ァァアアアアアアアアアアアアアアアッッ! アガアアアッッッ!!」
赤武者が右手を大きく振りかぶり、今まさに自らを高速し、アンジーの頭蓋を木っ端微塵に殴撃せんとする所作を見せた、その刹那、庭園中へ轟く
死に際の境地に立たされた今、これまでの人生において、最高の速度と最高の威力を生みす鋼線のうねり。減衰とは無縁の彼方にあって、アトラスの四肢と首元に、それぞれ一本ずつ確かに巻き付いてみせた。それが本人でも気づいていない、アトラスの異能を封じ込める最大の攻撃であった。
アトラス・ザ・ゴッドスピード。その名の通り、初速を必要とせずいきなり最高速度の移動能力を獲得する『神速』の男。だが言い換えれば、それだけしかできないのだ。あくまで自身と、自身の意思で手にした武器のみを高速の対象とする彼の異能は、その途中に『障害物』があれば、たちまちのうちに進路を妨害される。剣を手にしていた時なら障害を排除することもできるが、今のアトラスは丸腰同然。そのうえ、四肢と首をワイヤーで固定されている。もしこの状態で高速しようものなら、あっという間に首の骨は折れ、腕も足もものの見事に切断してしまうのは確実。
ゆえに、アトラスが取った、否、取らざるを得ない行動とは、異能に頼らず、自力でヴォイドのワイヤーを引きちぎらんとすることだった。
「い、かせる、か……!」
ヴォイドが
痛覚遮蔽システムの
積み重ねられた数多の傷は、その一つ一つは重傷へ至らずとも、しかし流した血の量は夥しく、すでに致死の段階へ差し掛かっていた。だが激痛に気をやることなく、こうして意識を保っていられるのこともまた、不思議でしょうがなかった。
自分の命に対しては無頓着でいたのに、親身になってくれた誰かが危険を前にしたら、自然と体が動いてしまう――結局のところ、最後の最後にそのような行動に出たことが、この鋼を抱いた虚無なる獣の本質を、まざまざと物語っていたのやもしれない。
「ふっ……うぅ……ぐぅぅう……ッ!」
左手に万力を込め、奥歯に力を入れる。綱引きの要領で足腰をふんばり、暴れ狂うアトラスの動きを封じ込める。アンジーも攻撃の手を緩めず、獣同然と化した赤武者目掛けて透明の霧を放ち続けた。
「ヒュー……ヒュー……ヒュー……」
筋肉の異常な痙攣。神経信号の阻害。これらが合わさり、すでに体の一部は麻痺し、舌が震え、喉が収縮して満足に声も出せない状態で、しかしアトラスは四肢の力だけは決して抜かなかった。小手や脛当てに亀裂が走り、腕や足にワイヤーが深く食い込もうと、強化筋骨が断たれる恐れがあろうと、じりじりじりと前を往く足を止めはしない。
「見習うべきところがあるって、思わない?」
両手の拳を握り締め、全身に猛毒の汗をかくアンジーが、視線をアトラスへ向けたまま、慕う男へ訴えかける。
「敵だけど、どんなに傷を負っても前に進もうっていう心根だけは、見習うところがあると思う」
「……」
「ヴォイド、聞いて。私の友達、テディは、将来なりたい夢の話を、よくしてくれたわ。星空を見上げながら、戦争が終わったら、ああいうことをしたい、こういうことをしたいって、話してくれた。それはささやかな、それでも彼女にとっては大事な『希望』だった」
「……希望」
「ヴォイド!」
ますますの汗をかき、揮発させる。次第に、アトラスの呼吸音が、か細いものになっていく。常人ならば、とっくに絶命してもおかしくないほどの猛毒霧を吸引して、それでもなお、ゆっくりと歩みを進めていく。
「私には夢なんてなかった! でも、それでよかった! だって、オーウェルやリガンドやパンクと……なにより、貴方に出会えて、同じテーブルを囲んで生活できたことが、何よりも嬉しかったの! 居心地が良かったのよ! 貴方にはちゃんと価値があるのよ! だから、そんなに自分を卑下しないで!」
――お前が俺の人生の、何を知っているというんだ。
脳裏を過る言葉。しかし虚無が再び拡大を開始する前に、アンジーの必死の叫びが鼓膜を震わす。
「あなたと私の見ている現実は、違うのかもしれない。でも、重なっている部分だってあるはずよ! だって、今まで一緒にやってこれたんですもの! 見ている風景が違くても、どこかで重なる部分があるなら、それがほんのわずかであっても、私はとても嬉しい! 奇跡がどうしても信じられないなら、それで構わない。別にいい。そんなこと、別にいいのよ! 奇跡が信じられないからって、それで貴方の全てが否定された訳じゃないでしょう!?」
大粒の涙を、我慢しきれず零しながら、それを拭う暇は彼女にはなく。
ただ想いの丈を、精一杯にぶつけ続けることに全力を傾けた。
「大丈夫だよ、ヴォイド」
「……あ……」
「大丈夫だよ。希望とか奇跡とか、そういうのは、見たい気分になったら見ればいいんだよ。それでさ……もしこの先、希望が見たい気分になったら、いつでも私に言ってよ」
「……え?」
「私が、貴方に希望を見せてあげるから」
泣き腫らした目に、穏やかな笑みを浮かべて、アンジーが慈しむように口にする。
「希望も奇跡も、全部、全部私が、見せてあげる。そのために、これからも全力で頑張る……! どんな傷を負っても、前に進むから……! だからぁ……!」
それが、決して叶わない『夢』であることは、重々自覚している。
砕け散った骨が、再び接合することは不可能だ。
だが、それでも女は口にした。愛する男へ向けて、自分が男の希望になると。
奇跡を見たくなったら、いつでも頼って欲しい――耳にした者が鼻で笑い飛ばしそうな、ともすれば大法螺にも聞こえるその台詞を、だが信じたくなったのは何故だろう。
必定――その台詞を口にしたのが、仲間であるからに他ならない。
たったそれだけの、簡単な理由。
「……すまない」
心からの謝罪の言葉を一つ。そして意識を、前に向ける。
突破する。この苦境を。
アンジーを、生かすために。
「ありがとう。アンジー」
自分は、父のようにはなれなかった。父のような、武器を持たない、本物の英雄にはなれなかった。
しかし、血臭と骸の山で築かれた風景を、いまさら捨てることなどできない。
なぜなら、それは自身が選択した現実の風景だからに他ならない。
己の意志で選択した現実。その延長線上に、いま、この状況があるのだとしたら。
ならば。
「どうにでも、コントロールしてやるッ!」
アンジーを生かす。そのことだけに全神経を集中。腕部に溜まる、残り僅かな液体金属を完全放出。左腕の電磁制御機構を稼働し、先に絡んだ五線を援護するかたちで、新たに絡む五線と五線。都合十五本のワイヤーたちが、溢れる液体金属の瑞々しい補強を受けて、さながら鋼鞭を彷彿とさせるほどの威力を獲得。
「俺は……俺の現実に……」
太腿に力を入れ、伸ばしていた左腕を、思い切り腰のあたりまで引いた瞬間、
「決着をつけるッ!」
ヴォイドの指先に灯る、奪魂の感触。
肉と骨を完璧に断ち割る鈍い音がしたかと思えば、どす黒い血と油の雨が降り注ぎ、もがれた四肢が宙を舞い、大口を開けて白目を剥いたアトラスの生首が、兜ごと花園の真ん中に落下した。
死闘は終わった。気力も体力も、何もかも使い果たした。
ヴォイドの全身から、ふっと力が抜けた。両膝から地面へ崩れ落ちる。ちょっとした血の池が、足下に広がって花々を赤く犯している。
「ヴォ、ヴォイド……」
「……来るなッ!」
涙声で近づこうとするアンジーの気配を悟った瞬間、ヴォイドは最期の気力を絞って顔を上げた。
「まだ……屋敷内に恐ろしい奴がいる……おそらく、クリムゾンのリーダーだ……パンクが、まだ戦っている……」
「じゃあ援護に……」
「いくな。行っちゃだめだ」
「――ッ! でもっ……」
「はやく、はやくヘリポートへ……」
「…………ヴォイド……」
「見せてくれるんだろ、俺に。奇跡って奴を」
「……ッ!」
「アンジー、俺にお前を信じさせてくれて、感謝するよ。そして、本当に申し訳なかった」
そう口にする男の目を見て、女ははっとした。
その黒目がちの瞳の奥には陰りはなく、荒れ果てた景色は消え去り。
凪を迎えた海原のような、地平の果てまで続くかのような、穏やかさを感じた。
「……忘れないから、貴方のこと」
唇を噛み締め、零れる涙を袖口で拭い、後ろ髪をひかれる思いで女はその場を駆け出し、ヘリポートのある屋敷の裏手へと走っていった。
「………ぁ」
アンジーが角を曲がり、視界から消えるそのわずかな瞬間。
ヴォイドは、己の掠れ行く目が今しがた捉えたのが、幻覚な何かではないかと錯覚した。
それくらい、アンジーの手を握って走る
「なるほど、な……アンジー、お前の言うとおりだ」
いつの間にか全身を蝕む痛みは去り、不思議なほどに静かだった。
「あれは……確かにサンタクロース……そっくりだ」
自身の運命を呪い続けた男。
最期の最期に『奇跡』を目撃した彼の瞳が開かれることは、二度となかった。
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