2-57 PM19:20/銀龍顕現
仲違いを迎えたパンクとヴォイド。
傷心の彼らを取り囲む状況は、混沌のただ中にあった。
切れ味鮮やかな突風を引き連れて乱入してきたアトラス・ザ・ゴッドスピード。面頬が汚れるのを気にも留めず、泡混じりの涎を垂れ流し放題にしている虚ろ目な姿は、理性が蒸発した狂人そのものである。
だが――
「ブッた斬る! ブッた斬る! ブッッッッッッッ滾る!」
怒涛の雄叫びを放つと同時、ひとたびレイピア状の直刃を振るえば、呆けた表情からは想像もつかないほどの冴えを見せる。手負いの獣のような荒々しい気性に溢れた剣気を放出させながら、その剣筋に迷いは微塵もなく、秋水の如き切れ味を誇る。
当然、誰か腕の立つ人物に指南したわけではない。誰にも学ばず、戦場で文字通り血の滲むような毎日に臨んだ末に自然と身に付いた「技術」に過ぎない。
柄の部分に備えられた微細振動装置によって灼刃と化すレイピア。その獰猛な切っ先が、壁を背にして苦々しい表情を浮かべているヴォイドへ、まず真っ先に向けられた。鉄橋での大立ち回りの際に受けた屈辱を晴らそうというのだろうか。
鉄橋と違って開けた空間ではない屋内戦闘のため、長距離間を一息に潰して相手の虚を突くという戦法は効果的ではない。しかし《
そのアトラスの妙技は、生身の人間がやれば、腕に甚大な負荷がかかり、ちぎれ飛ぶのは確実だ。そうならないのは、彼の身に施された機械仕掛けの肉体の成せる業である。
ゆえに、隻腕と化したヴォイドの取るべき迎撃姿勢は一つに限られた。まだ無事なほうの左腕を懸命に振るい続ける。五条のワイヤーのうち二本をけん制の意味を込めてアトラスの首元付近へ定めて細やかに操作し、残る三本で足元を狙う。いくら腕部を加速させようが、足を封じてしまえば刃圏は届かない。そういう算段の下で実行した戦法には、確かにいくらかの効果が見られた。
ワイヤーが蛇のようにのたうち、床を激しく打擲。猛獣の爪痕のような亀裂が走り、黒色の粉じんが僅かに舞う中、すかさず飛び退り、正眼の構えをとるアトラス。素早く上段に振りかざし、腕部の瞬間高速を発揮して刃を振り下ろさんとするが、そこへタイミングよく狙いすましたワイヤーの一撃が首元を襲う。剣を返し、切っ先を鋭く突いてこれを封じ込む。間髪入れず、またもやワイヤーが足下を狙う。再び飛び退るアトラス。徐々に双方の距離が空く。
そこで銃声。コンクリートの壁という壁を反射して乱れ飛ぶ精密無比な跳弾の群れ。五発の弾丸が一つ残らず、全方位からアトラスへ叩き込まれる。ヴォイドと同じく隻腕のハンデを背負うことになったパンクの一撃である。彼は機敏且つ手慣れた仕草で、背負うアタッシュケースの蓋をこじ開けて自動拳銃を左手に持つと、すかさず引き金を引いたのだ。
アトラス、これを見切る。腕部を
別に、助けなければと息巻いた訳ではない。ただ単に、新たな脅威が乱入してきて、それを排除できる絶好の機会だと思ったから、撃った。パンクにとっては、それだけのことだった。戦場で培った戦闘本能に従っただけの判断だ。ひどくクリアで割り切った思考の結論に過ぎないのだ。複雑な感情のもつれが入り込む余地などない――そう、自身に強く言い聞かせながら拳銃をアタッシュケースへ戻し、さらに高威力・高連射性を誇るアサルトライフルを左手に持ち替え、アトラスへ向けて銃口を向ける。
二対一の状況。不意打ちを食らわせて手負いの状況へ追いやったとはいえ、数的な不利は覆せないのか。それとも、二振りの
しかし――決して誤解してはならない。この身長百九十センチの巨漢は、見てくれこそ狂人であるが、かつては誇り高き
確かにアトラスの手数はそれほど多くはない。だがしかし、剣筋に迷いがあるかと聞かれると、それも違うように見える。
もしかするとこの男は、攻撃を躊躇っているのではなく、何者かとの合流を
「アトラス、待たせたな」
奥の部屋の壊れた扉を蹴り飛ばして、不可思議な「銀色の煙」を体表に纏わせた男が一人、まるで会議に少し遅刻したことを詫びるような調子で声をかけながら、姿を現した。その男が表れた瞬間、室内に、甘酸っぱい芳香が微かに漂い始めた。
アトラスは、どうやらこの男の到来を待っていたらしい。だが彼は、ブロンドの長髪をなびかせる男の声に弾けるように体を緊張させると、とっさに男から距離を取った。男の存在ではなく、彼の周囲で漂う「銀色の煙」を異様に恐れるように。
「(こいつは……この男は……!)」
つい数時間前の鉄橋での一戦が、パンクの脳裏で蘇る。青いスポーツカーを駆っていた、あの男だ。中世の宗教画から飛び出してきたような、彫りの深い顔立ちが、照明の下でよりくっきりと見える。真っ赤なレザージャケットとレザーパンツを着込み、裾から覗く腕も、襟から露出した首筋も、不健康なほどに白い。
「……貴様か。我が偉大なる同志へ、薄汚い鉛を撃ち込んだのは」
男の眼が、パンクの握る漆黒のアサルトライフルを捉える。
「大変なことをしてくれたな」
首筋にナイフをあてがうような男の声音。その声に、普段は強気な姿勢を崩さないはずのパンクが、思わずぞくりと背筋を震わせた。男の、恨みを煮詰めたようなその声には、優秀なサイボーグ・ガン・ファイターの心を、容赦なく抉り取るだけの力があった。
「アトラス」
男がパンクのアサルトライフルへ視線を向けたまま、先ほどとは打って変わって静かに部下へ声をかける。
アトラスの体から、緊張が解けた。ただ自身の名を呼ばれただけ。それだけで、巨漢の赤武者は己が何をすべきかを完全に把握し、それは声をかけた男の意思と完全に合致していた。
「ブッッッッッッッ滾る!」
怒号混じりに瞬間高速を発動。男の存在に気を取られていたヴォイドへ、ぶちかましの要領で突進。時の流れを吹き飛ばして迫る重量百五十キロ超の巨体が、サイボーグ戦士の鋼の肉体を巻き込んだまま、カステラのようにコンクリートの壁を容易に砕く。室内の空気をけたたましく振動させ、アトラスはヴォイドもろとも地表へ落下していった。戦力を分断させ、一対一の状況を作り出すために。
「ヴォイド!」
すでに絆は失われた。そのはずなのに、どうしてか、反射的に引き攣った声が出た。
かつてリーダーと慕った男の安否を確認しようと、足を一歩、大穴へ向けるパンク。それはほとんど、本能的とさえ言って良い行動だった。
だが、二の足は踏めず。
その理由――男の異様な眼差し。
「ぐぅ……!」
前へつんのめりそうになったところを踏ん張り、生唾を飲み込む。
全身を串刺すかのように注がれる男の冷徹な眼力を前に、思わず足が止まってしまう。
「(――ああ、こいつは、駄目だ。ちくしょう)」
鉄橋の戦いでは、じっくりとその姿を視認する暇がなかった。
だが、今になってパンクは「
「(どうしてここで、こんな、こんな奴と出会う羽目になっちまったんだ、俺は……!)」
男の、荒涼とした大地を彷彿とさせる灰色の瞳。ヴォイドの黒目がちな瞳が内包している雰囲気に似ているようで、その根底は決定的に異なる。
かつて経験した数多の戦場にも、こんな眼をした者はいなかった。怯えているか、緊張しているか、怒りに染まっているか、諦観しているか。銃弾と砲弾が飛び交う戦場では、大きく分けてその四種類の眼だけがあった。
目の前に立つ男の眼は、そのどれとも明らかに違っていた。例えて言うなら、昆虫のような眼をしていた。怯えや恐怖とは無縁であり、だからと言って凄絶な覚悟をこれみよがしに溢れさせる眼差しではなかった。春風のように穏やかでいながら、思考の欠片さえも読み取り不可能な、打ち砕くこと困難な氷壁を感じさせる眼。冷静な狂気に彩られた、という表現がしっくりくる瞳の色。
男の存在をより不可解にさせている一因は、瞳だけではなかった。むしろパンクの視線は、別の部分に向いていた。それが、赤いレザージャケットに包まれた男の体に纏わりつくように揺らめく、銀色の煙だった。その煙は、黒い革手袋に覆われた男の両手と、細い腰のあたりの、合わせて三か所から立ち昇って羽衣のように男の体を覆い、陽光煌めくゲレンデに積もった雪のように、ちらちらと白い輝きを放っていた。
アンジーと似たような能力なのか? いや、《
「(ごちゃごちゃと考えてもしょうがねぇ)」
パンクは、無理矢理にでも笑おうとした。今まで経験してきた中で、最も
「(なにを、ビビる必要があるってんだ……!)」
悲劇を
そうだ。いつだってそうしてきた。
ムカつく奴は捻り潰し、邪魔立てする者たちを蜂の巣にしてきた。
それもこれも、すべては「幸福」を得るためだった。
呪われた人生を清算するために、してきたことだ。
悲劇を
「(そうだ。そのために俺は生きてきたんだ……! もう「悲劇」と縁を結ぶような人生を送るのは御免なんだよ……!)」
ここに至って、パンクは初めて「己の願い」を自覚した。チーム全体に利益をもたらす願いではなく、自身のみが幸福へ至る願いを――それこそ、幼少期から渦巻いている悲劇の螺旋を断ち切ることに違いなかった。
一度、己の願いを自覚すれば、押し寄せる恐怖を蹴散らすだけの勇気が湧いてくるのは、彼が根っからの戦闘者であることの証なのか。パンクは、TOP ONE GUN MISTER ONEの称号に相応しく、じつに滑らかに――これまでの人生の中で、もっとも「滑らかに」、アサルトライフルの引き金を引いた。跳弾などというせせこましい技はいらない。真正面からの銃撃の嵐。鉄板を軽やかに穿つ特注の弾丸。必中の一撃。あまりにも正直な軌道ゆえに、逆に回避することが困難なほどの、驟雨めいた烈火の群れ。
しかしながら、そのすべてが無意味に終わったとき、パンクの全身は絶息間際の病人めいて硬直し、怯えと緊張と、怒りと諦めが混ざり合った複雑怪奇な感情に、心を打ち砕かれそうになる。
眼を大きく見開く。膝が震える。指に力が入らない。
何が起こったのか、判断がつかなかった。いや、それは正確な表現ではない。判断はついた。目の前で何が起こったか。自分の放った銃弾がどんな結末を迎えたか。それはちゃんと見届けている。そのうえで、分からない、理解できないと言い切る。
ムルシエラの音波攻撃を阻害したアンジーの指向性を有する薬物煙幕でも、物理的突破力のある弾丸は防げない。
だとすると、彼女の扱う煙とは、また違った特性を有しているのか。
理解不能――その四文字が脳内で踊り狂うのと同時、無言のままの男が、すっと腕を上げた。先ほどまで羽衣のように纏わりついていた煙たちが、その動きに連動し、ゆっくりとかたちを崩して、男の周囲で回転を始める。その速度は段階的に向上していき、あっという間に暴風ともいうべき威力へ急成長。さながら台風めいた勢いで、周囲の壁という壁を削り取る。
「(風……! 風を操る能力なのか……!)」
怒涛の風圧を前に、とっさに目元を腕で覆う。足腰に力を入れるも、じりじりと壁際へ追いやられる。
パンクは、あまりにも不味い状況に陥ったことに歯噛みした。いくら精密無比な銃弾を撃ち込もうが、それはただの銃弾。物理的作用を大きく受ける。風は、銃弾にとっての大敵なのだ。このまま視界を塞がれたまま、死角から致命的な一撃を食らってはひとたまりもない。
しかしながら、パンクの予想とは裏腹に、嵐のような勢いはあっけなく止んだ。長く息を吐き、顔を上げる。
目の前には、またしても信じられない光景が広がっていた。
銀色の龍――そう形容するしかない東洋神話の怪生物が、ゆっくりとその長大な身をくねらせ、男の周囲でとぐろを巻き、大きな顎と鋭い牙をこちらに向けている。全長、およそ五メートル。長いひげに、規則的な鱗の配列。短くも鋭さを感じさせる手足の爪。そのすべてが眩い銀色に染まりきっている。
これこそ、男が《
男の能力が風に由来するものと推測したパンクだったが、それは大外れもいいところだった。男は自らの体内から放出する銀の煙を――その煙を構成する粒子たちを、自在に操作可能な力を持つのである。
拡散、凝集、焼結……粒子という物理の構成単位が備える科学現象を完全に掌握し、思い通りの造形を可能とするのだ。すなわち、この銀色の龍は、男の体内から噴出している煙そのものなのだ。龍の尾っぽの部分が、彼の腰のあたりに備えられた煙の噴射口から伸びていることが、良い証拠である。
パンクの激烈な銃撃の嵐を防いだのも、この粒子操作によるものだった。銀の煙を、それこそ古の騎士が構える大盾のように真正面に展開し、凝集させることで稠密性を高め、見事に弾き返して見せた。その凝集現象はあまりにも滑らかで自然であったため、パンクからしてみれば、銀の煙がきらきらと不規則に輝いている程度にしか認識できなかった。銀龍を展開する際に室内を荒らしまわった暴風の正体は、煙の拡散性を最大限に高めた結果だ。
気体を操作するという点だけ取り出せば、アンジーのサイボーグ能力と似てはいる。だが、彼女が操る気体に、ここまでの具現化および操作機能は備わっていない。指向性があるとは言っても、せいぜいが体内から放出した薬物煙幕を一定の方向へ流す程度のものだ。同系統の力だが、そこには絶対的な隔たりがあった。
パンクにしてみれば、訳が分からないの一点張りに違いない。銃弾が弾かれ、すさまじい風圧に襲われ、銀色の龍が舞う。体験した三つの超常現象を、煙というキーワードで繋げようとしても、そこに論理性を見出すこと叶わず、ならば彼がやるべきことは、ただ一つだけだった。
銃撃――結局のところ、最後にパンクが選択したのは、己が己の為に培った技術だった。戦場を生き抜き、磨き上げてきた技術のすべてを以て、この異常現象に対応しようとしたのだ。
たとえ――自らの敗北絵図が脳裏をよぎったとしても。
「殺す」
男が静かな呟きを落とした。襲い掛かる銃撃の全てを、銀煙の大盾があっけなく弾き返す様をつまらなそうに見届けながら、右手を前方へ振るう。連動。銀龍の巨大な顎が、信じられない速度でパンクの胴体へ食らいつき、煌びやかな弧を描き、煙とは思えない強烈な万力でパンクの全身を持ち上げて天井へ叩きつけた。
それでもパンクは、銃だけは手放さず、どころか、文字通り死に物狂いになって、男へ向けて引き金を引いていった。だが意味はなかった。凝集した煙の大盾は、依然として高い硬度を保ったまま、パンクの決死の一撃を完全に無力化してみせた。
二度と這い上がれない絶望の淵に落とされたパンク。銀龍の牙は依然として離れず、暴れ回る彼の胴体部に、火花を散らしながらメリメリと食い込む。痛覚遮蔽システムが働いているゆえに痛みはなかった。だが、銀龍の牙は確実にパンクの人工皮膚を引き裂き、血とオイルが混じった、ぬらぬらとした体液を床に滴らせ、電子部品の破片をあたりに飛び散らせた。
パンクの表情から血の気が失せていった。単なる失血によるものだけではなかった。そのうち、奇妙な咳音を零しはじめた。それは不規則な、大量のゴミが詰まった下水道を流れる水音に酷似した音だった。激しい運動に長時間耐えられるように改造したはずの人工心肺や気管支、喉部に埋め込まれた音響探査機器が、著しいダメージを被っていることの証だった。
その原因は、銀龍の物理的攻撃にあるのではなく、銀龍を構成する粒子の化学的性質にあった。
だが、恐るべきことにボルケイノは、戦場において
錆びつきはじめた彼の肉体を、ついに銀龍の牙が断ち割った。絶叫を上げる間もなく、実にあっさりとしたものだった。
空中で真っ二つに割れて爆ぜ、白い煙と火花をまき散らして寸断されたパンクの体。生命機能を停止してハイライトが消えた瞳。だが死してなお、その手にはぴたりと吸い付いたように、一艇のアサルトライフルが握られたままだった。
「……ナックルとヘイフリックがやられたか」
視覚野に同志たちのバイタルデータを投影しながら、ボルケイノは寂しそうに声を落としながら、パンクの遺骸へ近づいた。
「仇は取るぞ……だが、許せ。鬼共に落とし前をつけさせるのは、少女を捕らえてからだ」
自らに言い聞かせるように呟きながら、上半身だけとなったサイボーグ・ガン・ファイターの遺体を不躾に踏みつけ、禿頭に手をかける。
「一人殺して二人を死なすか。愚かな男め」
手元に銀煙を凝集させ、形態を取らせる。本物と違わないほどの切れ味を誇る肉切り包丁。それが魔法のように、ボルケイノの手元に現れた。
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