2-52 PM19:20/血風録③

 弾丸。そう形容するに相応しい速度に乗った奇襲だった。

 静謐な夜の空間に突如として湧いた殺意を、怪人らの張り詰めた意識がキャッチしないはずがなかった。だが事態に気づいて振り仰いだ時、すでにベルハザードは、甚大な威力を秘めた夕焼け色の手斧を振りかざし、怪人の一体へ――ナックルの巨体へ振り下ろそうと飛び掛かっていた後だった。

 暗闇の一点で、ぱっと火花が散った。すんでのところで振り上げたナックルの太い腕が、斧の一撃を受け止めていた。火花は、科学的に強化されたナックルの筋骨と、ベルハザードの斧刃が衝突したことで発生したのだ。

「ボクとケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!」

 辛くも不意打ちを防いだ流れから攻勢へ転じようと、もう片方の腕を大きく振り、宿敵を握り潰そうと迫る。だがその時には、すでにベルハザードは身を捻らせて両足から地面へ軽やかに着地し、空を切ったナックルの拳へ果敢に突撃していった。

「ボクとケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!」

 ここにきて、ナックルが初めて痛みをこらえるような狂声をあげた。エヴァは一連の出来事を、しかと見届けていた。燃えるような茜色の刃光が弧を描いて、ナックルの右手の小指が、根本から寸断されて地面に転がる様を。

 ある程度の収穫を得て、ベルハザードはいったん距離を取った。ナックルは血の吹き出す自身の拳を、他人事のように虚ろ気な眼差しで見つめていた。傷がついた事実に愕然とするのではなく、なぜ傷を負う羽目になったか、その原因を壊れた理性の奥にある野生の本能で探ろうとしているようだった。反省し、次に繋げようとする態度。終わりの分からない地獄のような戦場を生き抜く過程で培われた、途方もないメンタリティの顕れだった。

 だが、考えて行動しているのは、ベルハザードも同じだ。これだけの防御力を誇る相手に、持久戦は愚策と判断する。腕に内蔵された筋骨の尋常ならざる強度からして、容易に切断できるとは到底思えなかった。なにかしらの痛烈な一撃を加えて瀕死に追い込んでやらねばならない。その一撃へ到達するための一手を間違う訳にはいかなかった。たった一手の間違いが、急速に死を近づけさせることになる。

 分かっているのは、敵の圧倒的なサイズは確かに脅威だが、それがウィークポイントにもなっているという点だった。最初に接敵した際には、その異様な外見に圧倒されてばかりで気づけなかったが、むしろのそのサイズのために、攻撃の軌道が読みやすくなっている。体積が大きい分、肩や肘の関節の動きが露骨なのだ。ナックルの拳の一撃は、実際に喰らわなくとも致死に至らせるだけの説得力をありありと主張していたが、関節の稼働を注視していれば、これを避けるのにさほどの労力はかからない。だが、それはあくまでも一対一の場合である。

 ナックルの巨大な体躯を隠れ蓑に、肉円盤がナックルの後方から飛来してきた。都合八枚。その全てをただの一つも見逃さず、手斧を華麗に振るって叩き落とす。一度地に落ちたとはいえ、円盤はヘイフリックの意志一つで、再び浮遊を可能とする。それを見越し、叩き落とした全ての円盤が視界に入る距離まで、速やかに後退する。

 見事にして、用意周到な手際。だがベルハザードは小さく舌打ちを鳴らした。ヘイフリックの介入が、事態をそう容易ではないものにしていると、直感したからだ。

 果たして、その見立ては正しかった。止むことなく飛び掛かる円盤を撃ち返す際に生じる、若干の動作の硬直。そこを狙ってナックルの拳が飛来する。地面という地面にクレーターを刻み込み、拳打の衝撃により生じた爆炎が蛇のように絡みつかんと襲い掛かる。必然、ベルハザードが距離を取らざるを得なくなったところで、ヘイフリックが毬のように体を弾ませてナックルの隆起した右肩へ飛び乗り、輪切りの肉円盤を射出した。ベルハザードではなく、両脇に林立する林へ向かってだ。

 即席の丸太が、あっという間に完成。それをナックルがむんずと掴み上げて、やり投げの選手よろしく、獰猛なフォームで投擲。肉円盤が巨木を断ち切った時点で次に来る攻撃を予測していたため、ベルハザードは直ちに横へすっ飛んでこれを避けることができたが、草葉の陰で見守るエヴァにしてみれば、気が気でなかった。

 エヴァの観察するところによると、ヘイフリックの選択は、徹底して絞られていると言えた。彼は手当たり次第に木を斬り倒すのではなく、ベルハザードに反撃の間も与えない刹那のうちに、林立する数多の木々の中から太さや長さを考慮して、ベルハザードに重傷を負わせることが出来そうな得物を見繕っている。一方のナックルは、ヘイフリックと電子的な手段で視界を共有することで、次にどの丸太を投擲すればいいか瞬時に判断がつくようにし、ちょっとした隆起なんて簡単に乗り越えられるオフロードの一輪単車を爆走させ、大気を震撼させながら移動する。

 肉円盤は稠密な繊維に突っかかることなく、楽々と巨木を斬り倒していく。轟々と土煙を上げて躍動するナックルがそれを拾い上げ、思い切り振りかぶり、次々にミサイルじみた勢いで投げ放つ。殺戮の道化師と、無邪気な剛腕戦車。共に鬼血人ヴァンパイア狩りの戦場を駆け巡ってきた両者の、息の合ったコンビネーション殺法が止むことはない。

「ボクとケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!」

「レディゴォォォオオオオオ!! 踊りましょうよ! 踊りましょうよ!」

 原始的ながら計算の行き届いた攻撃を繰り出しながら、丸太が地面に激突する際の轟音に紛れて嬌声を響かせ、舞い上がった土煙の幕の向こうで好戦的に口元を歪める、二人の狩人。その気なら、この人工林一帯の全ての木を使い倒してでも、相手を屠り去ろうとする気概が見て取れる。

 再生機能が追いつかないほどの重傷を怒濤の勢いで浴びせたところで、何かしらのとっておきの策を披露する気でいるのだろう。そこでエヴァの脳裡を過ったのは、遠い記憶の中で蜷局を巻いて眠る、あの身の毛もよだつほどの魔弾。血を溶解し、死体すらも残さない、鬼血人ヴァンパイアにとってこれ以上にない脅威の具現化たる、輝灼弾の存在だった。彼らが秘中の秘として、それを隠し持っている可能性は高いと言える。そうでなければ、こうまで自信に漲った好戦的な態度を見せるだろうか。

 だが彼女が驚嘆したのは、一族を絶滅寸前まで追いやった精鋭部隊の戦闘能力がいまだに衰えておらず、それどころか狂気の沼地に片足を突っ込んでしまって、ますます歯止めの効かない状態で暴走しているということに対してでも、彼らが輝灼弾を撃ち込む機会を虎視眈々と狙っていることでもなかった。その暴走一辺倒な猛攻の数々を、ベルハザードが紙一重のところで躱しきっている事実に対してだった。

 丸太のミサイルは、ベルハザードの手足はおろか、翻るコートにすら掠ってすらいなかった。体のどこかが潰され、損壊し、再生能力で回復した様子はない。これだけの猛攻を受けて、いまだに無傷。最初の接敵時と異なり、アルコールを補充したばかりで調子が上がっているというのもあるのだろうが、それ以上の何かを、エヴァは感じていた。

 跳び、捻り、屈み、逸らし、関節という関節を、筋肉という筋肉を総動員し、旋風の如き体捌きを披露するベルハザード。彼の周囲には、いま、力の奔流が渦巻いている。豪速の勢いで迫り来る丸太の数々がそれだ。わずかに擦れるほどの衝撃を受けてしまえば、回避の姿勢はあっという間に崩れ、寸毫と待たず続く第二撃を、第三撃を、たちどころに食らってしまえば、それが命取りとなってしまう。

 そんな状況にあって、ベルハザードは力に対して、力で対応しようとはしなかった。防戦一辺倒に見えるが、自身の周囲で渦巻いている力を恐れて、ただ避けているのではない。敵対する大きな力を前に、自分という存在を慣れさせようとしているように、エヴァには映った。

 さっき彼が口にした通り、環境に適応しようとしているのだ。攻撃という形に圧縮された憎悪と殺意を前に、いささかも気後れすることなく。いまの状況を普遍のものとして、常に「そうある」ものとして、自らを戦闘の渦中に放り出している。それは、ヘイフリックやナックルが「暴力で場を支配」しようと躍起になっているのとは、まるきり正反対だった。むしろベルハザードの場合、自ら進んで、彼らの披露する暴力披露宴の支配下に置かれたがっているようにすら見える。

 なぜなのか。エヴァは疑問に感じた。常に周囲に力がある状態を、当たり前のものとして感覚することに、どんな意味があるのか。その疑問は、次にベルハザードが取った挙動で、たちまちのうちに氷解することになる。

 地面を自在に駆け、まだ斬り倒されていない無事な木々という木々へ跳び渡り、回避行動に徹していたベルハザードが、ここにきて一転、上半身を放り出すような姿勢で、前に出た。

 瞬間、彼の痩せこけた頬を、丸太のささくれ立った樹皮が掠め、わずかに血が滲む。だがそんな軽傷にはお構いなく、過たず狙い定めた一点へ――こちらに向かって速度を維持したまま飛来してくる丸太の一本へ、軽やかに着地してみせた。

「サァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!?」

「踊りましょうよ!? 踊りましょうよ!?」

 まさかの出来事に、二人の怪人は虚ろな目を剥き出しに、仰天の叫びを漏らす。エヴァもまた、感嘆と理解が入り混った称揚の声を上げそうになり、慌てて喉の奥に呑み込んだ。

 呼吸を知ること――それこそ、ベルハザードのデフォルト・モード・ネットワークが可能とする、必勝への一手だった。

 力の渦に囲まれた状況へ己の身体を馴染ませ、それをさも、繰り返される「当たり前の日常」のように感覚するということは、同時に、自身の五体に宿る感覚そのものを、取り囲む力の渦へ浸透させることを意味していた。精神の速度を上げろとベルハザードは口にしたが、それはなにも、単純な加速を意味しているのではなかった。敏捷性を発揮して、誰よりも素早く動くという、物理的な運動の話ではなかった。

 自らの心を、前方一直線ではなく、平面へ薄く広く延ばしていくこと。それこそ、精神の速度を上げることを意味していた。コップから零れた水が、重力に引かれて、床へ薄く広がっていくように、意識を着実に広げていく。相手の支配下に置かれるような状況をあえて作り出すことで、自らの置かれた状況全体を把握できるように、肉体が知覚可能な領域を精神的に広げていく。場を「支配」するのではなく、「制圧」するために。

 そうすることで、初めて周囲の「呼吸」が分かる。そのリズムを精緻に把握できる。その対象は、相対する有機生命体のみにあらず。普段、己が漫然と立つこの世界全ての呼吸だ。花や、空や、光が差し込み、人々の喧噪で満ちるこの世界そのものが発する呼吸。自分が立っている空間の呼吸。そこに存在する全ての生きとし、生けるもの全ての呼吸を掌握する。

 これが、ベルハザードの本気なのか――エヴァの頬を、熱い滴が伝った。

 木の呼吸を知覚し、タイミングを掴み切ったベルハザードが、豪速で飛来してくる丸太から丸太へ軽やかに跳び渡っていく。薄氷を踏むかの如く繊細ながら、その足捌きに迷いは微塵も見られない。

 勇者の戦姿を目の当たりにして、エヴァは感動に打ち震えていた。

 この瞬間、ベルハザードは生物として正しく完璧だった。血管と神経の高密度な相互依存により達成される、自律神経の著しい活性化。代謝、発汗、心肺機能すらも完全にコントロールし、戦場環境に寸分なく対応しきった彼という存在ひとつが、夜の人工林を余すところなく「制圧」している。その信じられない事実に、当の本人を除く、この場の全員が驚嘆していた。

 デフォルト・モード・ネットワーク。それは、自己を取り囲む世界そのものに対して、生まれ持った肉体を晒し、真摯に向き合わなくては会得できない、至高の精神知覚武術。尋常の人は無論、人ならざる怪物であっても、ましてや人の身に過ぎた機械化手術を受け、回路を奔るパルスの僅かなノイズに日常的に晒されているサイボーグなどでは、到底到達することの叶わない異次元の闘術。

 勝負の天秤がどちらに傾くかは、日の目を見るよりも明らかだ。

「レディゴォォォオオオオオ!! レディゴォォォオオオオオ!!」

 こんなバカな事があってたまるか――狩人としての矜持か、あるいは、初めて感じる真の命の危機を前にしてか、ヘイフリックが危急に苛む雄叫びを上げ、怒濤の肉円盤を三枚射出。彼我の距離が縮まる最中での、不意打ち気味に放たれた必中の飛び道具。その軌道には寸分の誤差もない。うち二枚が鬼血人ヴァンパイアの両肩を抉り、残る一枚が頚部を寸断するはずであった。

 しかし、殺戮道化師の残虐な狙いは、三度鳴り響く打撃音と、鼓膜を震わせる仲間の悲鳴によって、木っ端微塵に撃ち砕かれた。

「ボクとケッコンしてくだサァアアアアアアイイイイイイイイイイ!!??」

 金剛の立像もかくやと言わんばかりの剛体を誇るナックルの両肩と、赤いジャケットに包まれた腹部に、それぞれ肉円盤が深くめり込み、機械化された回路ごと肉体の深くを傷つけていた。狩人の放つ「武器の呼吸」すらも把握したベルハザードが繰る、滑らかな斧刃の連撃を以てすれば、近距離から放たれた迅速の飛び道具を叩き落とすどころか、その勢いを殺すことなく、どころか速度を倍化させるように打ち返すことなど、造作もないことであったのだ。

 何層もの強化筋骨に防護された自慢の腹部は例外として、両肩からは、夥しいほどの血が流れている。ナックルが耐え難い屈辱と激痛に激しく身悶えした拍子に、唖然としたヘイフリックは後方へ振り落とされた。が、最後の丸太を蹴って宙へ高く飛び上がったベルハザードの野獣めいた眼光は、尻餅をついた道化師へは向けられず、眼前でのたうつ剛腕の人型戦車へ静かに注がれている。

 距離を正確に推し量りながら、コートの袖に包まれた右手の五指を、かぎ爪のように鋭く曲げて、そっと前方へ翳してみせる。殺気に過敏な者が注視すれば、その掌の中央から、壮烈な闘気が漏れ出ているのが分かったはずだ。言わずもがな、鬼血人ヴァンパイアが生まれながらに太母から授けられた、この世ならざる呪血の具象。その発現予兆に他ならない。

僥倖なる命の運び手ヴルート・ヴラスト》――ベルハザードに授けられし、その奇怪なる血騰呪術アスペルギルムが生み出す正多面体の血の魔術は、いついかなる時も、仕手の掌を起点として展開する。出現箇所が、前方一メートルのみに限定されるという条件付きで。

 だが、それは戦時において常に敵対者との距離を考慮する必要があるといった、自らの弱点になりうる条件ではなかった。一メートル先にしか展開できないというのは、言い方を変えるなら、一メートル先ならそこに何があろう・・・・・・・・、自在に血の魔術を具象化可能ということだ。

 ナックルの拳は確かに脅威である。だが、それも平時であればの話。激痛に気を取られて隙を見せた彼は、いまや巨大も巨大な木偶の坊も同然だった。必定、血に濡れた彼の大きな右肩へ瞬時に飛び移ることなど、ベルハザードにとっては朝飯前の話だった。

 そうして、死蝋のごとく蒼白い鬼人の手が、ついに標的の右肩へ触れた。

 途端、瞬時に蠢き出すは、魔の幾何学。

 ――第三励起段階ドライ

 右肩に積まれた筋骨を、神経回路を、電子部品を次々に押しのけて、たちまちのうちに内部から占有を開始する赤黒い正八面体。その各面から、ひといきに同色の触手が解き放たれ、ナックルの隆々とした右肩を盛大に食い破った。

「ゲッゴッギャザァアッ! ギャギャアアアガァアアアアアッッ!!??」

 林中に迸る大絶叫――限界まで膨らませたゴム風船を割るかのような勢いで、勢いよく抉れて弾け飛ぶナックルの雄々しい右肩。そのグロテスク極まる断裂面から、触手の群れが天高く伸び上がり、シールド処理された人工神経や、鉛色に光る高密度の金属繊維が、吹き上がる大量の血肉や臓物と混じって辺りにぶちまけられる。

 着陸所で一戦交えた時点で、ある程度の推測は得ていた。おそらく、この童顔巨人の腹には、強化された筋骨の束しか存在しない。でなければ、あれだけの防御力を説明できない。重要な臓器は、背中か肩に移植されているのではないか。先ほどの円盤返しの際に出た血の量から、その推測は確信へと至った。

 しかし、右肩へ繰り出した痛烈な内部破壊の一撃は、ベルハザードの想定を超えて、致死の威力をナックルへ与えていた。地面に散らばった肉片の一つ一つをつぶさに観察すれば、甚大なダメージを与えるに至ったその理由が分かる。てらてらと赤黒く濡れ光る臓物の欠片たち……都市の発展と共に成長を続ける、最先端の再生医療技術がもたらした逸品。それ一つで、循環器、呼吸器、消化器系の全ての機能を賄う、統合臓器と呼ばれる新造臓腑の残骸に他ならない。今のナックルは、たったの一撃で、尋常の人で言うところの心臓、肺、大腸を同時に引き裂かれたに等しかった。

 人体のうち、最も面積の広い胸部から腹部にかけてを、徹底して科学的に強化する。その代償として既存の臓器を取り払い、統合臓器を両肩に移植させ、生命活動を維持する。そのような改造方針を打ち立てたナックルの執刀医たちの見識は、個人の戦力向上という名目を鑑みるに、正統のものであったのだろう。ただ、ひとつ誤算があったとするなら、闇の眷属の中でも、一際の手練れを相手取ってしまったという悲劇に見舞われたことだ。

 理性の蒸発した瞳から、辛うじて残っていた本能の光すらも消え去った。《天嵐テンペスト》が誇りし切り込み隊長、ナックル・ザ・ビッグスタンプは、ついにその拳で獲物を圧殺すること叶わず、仁王立ちのまま無念のうちに全身を烈しく震わせた。

 直後、一際大きな痙攣が巨体を波立たせた。ナックルの意志が最期に奏でた、それは生命の叫びだった。体中の血液から急速に熱が奪われ、やがてその巨体が完全な静止の世界に入り込んだ時、ナックルは、見た目にそぐわない小さな口から瀉血を零して大胸筋を赤く染め上げると、力無く背中から地面へ倒れた。

「ギ、ギ、ギギギ……」

 ナックルが絶命する寸前に地面へ着地してみせたベルハザードの耳に、金属を鋸の刃で擦るような異音が届く。振り返ってみれば、起き上がった肥満の殺戮者たるヘイフリックが、硬化プラスチックに総入れ替えした歯を食いしばっている。その瞳には、さきほどまで虚無しかなかったはずが、今は憤怒と憎悪の炎が、メラメラと燃え上がっている。

 その瞳が、刹那、宿敵を前に命を散らした同士の骸へと注がれた。憐憫と辛苦の色を湛えて……しかしそれも、再びベルハザードへと向き直った時には、元の醜悪な悪意に染まりきっていた。

「ユ、ゆるさ、ねぇ……」

「ほぉ」

 興味深いとでも言いたげに、ベルハザードが片眉を上げる。理性を失くしたただの怪物が、ここに至って、たどたどしいながらも言語を取り戻したことに、純粋に驚いたらしい。

「貴様ハ群れの一部ヲ奪った。なラば俺も奪ウ。貴様の全テを、根こそギ」

「恨みはない。だが殺す」

「ほざくナよ……! そノ臭い口に、俺ノを突っ込まセテ、舌を切リ刻んでヤる……ッ!」

 粗暴な口調ながら、物言いは筋が通っている。とうに砕け散ったはずの理性が、ここに来てヘイフリックの中で再びの統合を見せているのは確かだ。これまで何百と相対してきた鬼血人ヴァンパイアの中でも、とりわけ優れた戦士に出会ったことに対する興奮が、戦士としての政調さを回復するきっかけとなったのか。それとも、同じ釜の飯を食ってきた同胞の死に様を間近で目撃したことによる恐怖心が警告音となって、沈黙しきりの理性を呼び戻したのか。あるいは、そのどれとも異なるのか……仮説の類はいくらでも唱えられるが、言語野の機能が一時の回復を見せたところで、この決定的な力量差は覆らない。それを承知の上で、ヘイフリックは決して逃げの姿勢をみせなかった。言葉を己の手に取り戻したことに対する感慨深さすら微塵もない。ただ、戦に臨む男の顔だけがあった。その両肩に、栄光の部隊の名を冠しているという自負のみが、今のヘイフリックを生かしていた。

「ソの血で贖エ、人外ッ!」

 決死の咆哮より僅かに先んじて、地面に散らばっていた色とりどりの円盤という円盤が息を吹き返す。ベルハザードが足元へ打ち落とすなり、茂みの向こうへ弾き逸らすなどしていった凶刃の群体が浮遊し、仇を討たんと錐揉みしながら殺到する。その数、およそ三十はくだらない。

 巣を攻撃されて怒り狂うスズメバチたちのように、一塊となって狂猛の牙を剥くヘイフリックの七色肉円盤群。その切れ味鋭い刃圏が届く前に、ベルハザードは空いた右手の拳を後ろに回して腰の辺りにぴたりとつけると、再び魔性の正八面体を展開。各面から勢いよく伸長した八本の触手が如来像の光背めいて花開くと、ベルハザードの頭上を、肩の近くを、腰のそばを、股の間を、すぐ足下を素早く駆け抜け、高速回転する円盤という円盤を迎え撃つ。

 ヘイフリックと肉円盤の関係性と同じく、ベルハザードと魔性の幾何学図形も、緻密にリンクし合っている。いわばそれは、おぞましい造形をした身体の延長であり、人体にはない柔軟な可変性を持つ、この上ない武具であった。先端部のみに限られるが、ベルハザードの意志ひとつで、触手は剛槍めいた刺突力も、秋水の刃の如き破断力も獲得できるのだ。

 だが、この時のベルハザードが触手へ意識的に命じた変形は、槍でも剣でもなかった。それは「口」であった。鋸歯のような細かな刃を上下に生やした、趣味の悪い怪奇映画に登場しかねないクリーチャーめいた造形。だが見た目の安っぽさはともかくとして、それは実に効果的な形状と言える代物だった。

 高速回転する円盤のモーメントを崩すには、一方向からの攻撃では足らない。それを踏まえたうえで、上と下の刃歯、合わせて二方向からの双撃で円盤の威力を削ごうというベルハザードの算段は、最良の一手と言える。

 事実、襲い掛かる肉円盤はただの一つも例外なく、その「呼吸」をベルハザードに見抜かれている。切断力を存分に発揮する前に、触手の大口にキャッチされ、傷や摩耗を知らぬ硬度を誇るはずが、菓子のごとく噛み砕かれていった。

 ぺっと地面へ吐き出された肉円盤が浮遊する様子はなかった。どうやら一定の割合で破損すると、ヘイフリックとのリンクが切れてしまうらしい。

 ヘイフリックにしてみれば、悪夢を突き付けられているようなものだろう。ましてや下手に理性が回復してしまったぶん、感覚する恐怖のリアリズムは、ここにきて臨界点を迎えそうになっている。だが、ヘイフリックは知っていた。戦士が真の敗北を喫する時。それは肉体を損傷した時ではなく、精神が損耗した時であると。

 いま、嘔吐感のように湧き上がりそうになる恐慌に呑まれた挙句、精神を疲弊させるわけにはいかなかった。ヘイフリックは持ち前の胆力で必死に震撼する精神を制御しながら、円盤の投擲に集中する。肉体を再生させた端から次々に円盤を射出していく、その鬼気迫る顔のはだえに、乾燥されていく樹皮のような、深い皺がじわじわと刻まれていった。

 終わりを知らない無限掃射じみた円盤投擲術ディスクランチャーに見えても、その内実は、相当な負担を肉体に掛けている。不死細胞アンデッド・セルなどと大層な名がつけられているとはいえ、制限なく細胞分裂を続ければ著しい老化を招くことは明白。細胞自身のエネルギーが底をつく前に、何としても決着をつけねばならない。

 しかしながら、文字通り命を賭した猛撃にも関わらず、全環境の呼吸を手中に収めたベルハザードの表情は、冷や汗まみれのヘイフリックと比較して、実に涼しいものだった。その身をなますにせんと襲い来る凶刃の全て・・を眇めて、牙を備えた触手へ無言の指示を送り、噛み砕いていく。

 攻めあぐねている場合ではない。依然として状況の好転が望めないのなら、必中の手段を取るしかない……ヘイフリックは覚悟を決めると、太ましい両手を跳ね上がらせ、真紅色の仕込み杖の先をベルハザードへ突き刺すように向けた。

 両手の人差し指がステッキの柄の先端部を押し込むのと、ベルハザードが触手の展開を打ち切って真上へ高く跳躍したのは、ほとんど同時だった。

「(カカった――!)」

 やはり、輝灼弾の直撃を恐れて宙へ逃げた。この弾を前にしては、血騰呪術アスペルギルムでさえも無力。最初からこうしておけば良かったと軽く悔やむ一方で、ヘイフリックは内心でほくそ笑んでいた。

 滞空姿勢を取るベルハザードへ目がけて、ただちに肉円盤の群れに角度をつけて追撃させる。その目的は攻撃ではなく、敵の動きを封じ込めることにあった。

  群体となって上昇する肉円盤は、花火が打ち上がるような勢いで広く散開すると、急速にその距離を縮め、ベルハザードのすぐ近くを、一枚一枚が最適な距離感を保って浮遊。もしも腕や脚の関節を少しでも動かせば、コートごと肉体を抉り飛ばされかねない、絶妙な位置取りだ。

 再生能力を有する鬼血人ヴァンパイアにしてみれば、多少の傷を被ることなどどうってことはないだろう。だからと言って、彼らが己の身を省みない特攻習性を持つ生命体でないことを、先の鬼禍殲滅作戦オウガ・バニッシュに従事したヘイフリックは、経験で知っていた。

 己の身に危害を加える存在を知覚したなら、それを避けようとするなり、防護するなり意識するのが知的生命体の常である。ましてやこの状況、獰猛なトラップ兼フェイントとして宙に漂う肉円盤たちを前に、どうにか空中で姿勢を整えて抜け出すべきか、それとも肉体が傷つくのを承知で手斧を振るい、叩き落とすか――要求される瞬時の判断は、精神の硬直そのものに直結する。

 その数ミリ秒の空白の隙間に、ねじ込まれる起死回生の一手。ヘイフリックは喜々として口元を歪めながら、瞬時に右手に持ったステッキを滞空状態のベルハザードへ構えた。標的との間を阻む物は何もない。あれだけ大量の円盤を飛ばしたにも関わらず、その一つとして射線を塞ぐことはなく、その全てがベルハザードの周囲をギリギリの距離で取り囲んでいる。恐るべきは、標的がいかような回避行動、迎撃姿勢を見せようとも、瞬時に射線の微調整がつくように、トラップおよびフェイントとしてだけでなく、遊撃用の肉円盤までも配置していることである。

 これぞ必殺の追い込み術。円盤を手足の外延として操作することで相手の身動きを封じ込め、狙いすました銃声一発で以て命を絶つ。これまで幾百もの怪物を葬り去ってきた絶対の戦法に傲然とした自信を覗かせながら、仕込み杖がついに火を吹いた。

 だがしかし、轟く火線は虚空の闇へと消え去った。

「(バカなッ!?)」

 信じられなかった。必殺の一手が空振りに終わった事実に驚愕し、その要因を作り出したベルハザードの行動が、あまりにも予想外のこと過ぎて我が目を疑いかけた。

 避けようとするでもなく、手斧で打ち落とそうとするのでもなかった。ベルハザードは、フィギュアスケーターが氷盤の上で軽やかにステップを踏むかのごとく、浮遊する足元の緑色に光る肉円盤へ、とんと片足を乗せていた。その勢いのまま、体重を片足にかけて前傾姿勢を取り、飛来する輝灼弾を頭上数ミリのところでやり過ごしたのである。

 浮遊しているとはいえ、依然として肉円盤の高速回転は維持されたままだ。通常なら、足を乗せた時点で膝がおかしな方向へ捻じれてしまうところだが、デフォルト・モード・ネットワークを展開するベルハザードに、そんな恐れはなかった。

 武器の呼吸――肉円盤の回転が、ほんの僅かに鈍る瞬間を彼は掴んでいた。奇しくも、ヘイフリックが見せた傲岸な精神の昂りがリンクして円盤に干渉し、回転に微細な変化を生み出していたのだ。本人でも気づかないその揺れを、すなわち「呼吸の乱れ」を、ベルハザードは完全に掴み切っていた。

 死神めいた相貌の鬼血人ヴァンパイアが飛翔する。次々に回転する円盤を足場代わりにして軽捷に渡り飛び、一秒と経たずに間を詰めながら特攻。その手に振り被る手斧の、血のように赤い夕焼け色の刃を捉える殺戮道化師の瞳が慄きに震える。気付けば、いつの間にか逆転している立ち位置。ついに臨界点へ差し掛かった恐怖心が理性を飛び越えて本能を叩き起こし、異能力の恩恵がヘイフリックの全身を包み込む。

 人体跳躍手術ゲノム・ドライブによりその身に授かった特異能力――肉体硬化を咄嗟の判断で最大稼働。ダイヤモンドよりも硬く、鉄鋼よりも頑強な図体と化して、斧の一撃を弾き返さんと待ち構える。

 だが、太母から賜りし眷属の宝具を前にしては、近代科学で強化された肉体は、無力に過ぎた。その証拠に、ヘイフリックは確かに全身で感覚したのだ。ベルハザードの「呼吸」を……彼の体を通じて、斧刃が瀑布の如く放射する、この世のありとあらゆるものを引き裂かんとする、長く鋭い「叫び」を。

 それが、ヘイフリックがこの世で耳にすることのできた、最期の「音」だった。

 重力加速に全身を預けて、下段へ振り下ろされたベルハザードの手斧。それは、大木を斬り倒すヘイフリックの肉円盤よりも、ずっと滑らかに、ずっと軽やかに、闇に輝く紅刃一閃と化して、狩人の硬化肥満体を寸毫のうちに断ち割った。

 ホースで水でも撒くかのように吹き上がった血肉と機械混じりの返り血でコートを汚しながら、勝利の余韻に浸ることなく、ベルハザードは厳しい眼差しのまま、長く調息を繰り返した。デフォルト・モード・ネットワークの解除に従い、鼓膜を揺らす音の種類が、一つ、また一つと遠ざかっていくのを感覚しながら。

「終わったんだよな……?」

 戦闘の行方を草葉の陰から見守っていたエヴァが、ひょっこりと顔を出す。

「無駄口を叩いている暇はない。追手が掛かる前に屋敷へ急ぐぞ」

「お、おい、置いてくなよ!」

 エヴァの瞳の奥に、羨望とも尊敬ともつかぬ輝きを感じ取りながら、それをむず痒く思ったのか、ベルハザードはそそくさと顔を逸らすと、エヴァの呼び止める声も聞かずに林を後にする。

 少しばかり濁り始めたその赤い目に、寒風に晒される二つの骸が映る事は、二度となかった。

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