幕間 斜陽の冠

 その王国は、大陸のはるか地底。大迷窟とも称すべき広大な空間に存在していた。

 偉大なる血族の栄華を誇るかのように、ごつごつとした壁や地面の至るところには、精緻な螺鈿細工が施されていた。壁に沿う形で等間隔に置かれた篝火の照り返しを受け、そこら中が淡く虹色に輝いている。まるで、王国を統べる女王の血を彷彿とさせるように。

 いつまでもこの煌びやかな光景は続くものだと、血族に連なる全ての者らが信じ切っていた。

 だが、王国も近いうちに変わる。変わらざるを得ないのだ。

 人類が勝手に起こした、身内同士の殺戮戦争が全ての原因だった。投棄された核廃棄物に、条約を無視して濫用された生物化学兵器。それらの影響は戦争が終結した後も根深く残っている。狂暴化した科学力は、海を侵し、山を腐らせた。王国の拠点たる地下も、決して無関係ではなかった。大地と雲が汚染された結果、降り注ぐ雨水によって地下鉱石の組成が変化し、毒物の塊と化しつつあった。

 王国の女王――太母は地底にそびえ立つ《夜奏宮》をバックに立つと、慇懃に居並ぶ数百の子らへ向け、一族の行く末について宣誓した。それが、昨夜のことだった。

『難業を定められし我が子らよ、ついに地上へ出る時が近づいてきました。しかし、あの天に立つ忌々しき光を懼れる必要はありません。たとえこの地を捨てようとも、我らの生き方に変わりはありません。闇が世界を閉ざしている間に、新たなる王国の礎を築くのです。天の光を遠ざける魔よけの天蓋と、一族に相応しい城を。そして他のコロニーと協力し合い、共生の道を歩むのです』

 コロニーの鬼血人ヴァンパイア達の誰もが、黙って母の言葉に耳を傾けていた。地底に響き渡る太母の声は静かなる熱意を纏っており、実に堂々としたものだった。長年に渡って築き上げてきた王国を捨て去ることへの無念の想い以上に、これから苦難の歴史を歩むことになる一族を勇敢づけようとする慈愛に満ちていた。

 一族を統べる者として、それは正しい姿勢だった。

『我々が地上に出ることで、人類と接触する機会は更に増えることでしょう。しかし、それがなんだと言うのでしょうか。我々の世界を彼らに明け渡してはなりません。夜のゆりかごが奏でる旋律を、彼らの野蛮極まる銃砲で乱されるわけにはいかないのですから』

「人間たちと戦争になるかもしれないって、ことだよな」

 昨晩の女王の発言を脳裡で反芻しながら、黒き冠のエヴァは観覧席から遠ざかるように、地べたにあぐらを掻いて、嗜好品の干し肉を齧っていた。

 女王の宣誓。それが招く歴史の転換点が、一族にとっての新たなる繁栄の起点となるよう願いを込めて、今宵の地底は血肉と協奏の宴と化している。

 淀みない原始的プリミティブな空間としての品位を保つため、たとえばDNAコンピュータであったり遺伝子編集装置といった、鬼血人ヴァンパイアが誇る洗練的シヴィライズな技術の申し子たちは、今晩に限って、穴倉の奥へ追いやられていた。

 動物の皮や骨で造られた様々な楽器を奏でる楽団員らが、一心不乱に弦をはじき、笛を吹き、皮張りの太鼓を叩いている。勇壮にして神秘なる古代の香りを漂わせる音色。その深淵なる旋律に合わせるかのように、土で固められた巨大な土俵の上では、半裸の戦士たちが己の肉体をぶつかり合わせ、競い合っていた。

 篝火の熱にほだされたかのように戦士たちの顔は紅潮し、入れ替わり立ち替わり、儀式的な闘争に明け暮れる。土俵の上で決着がつく度に、観覧に耽る鬼血人ヴァンパイアたちが地響きめいた歓声を上げた。

 渦巻く熱気の中で、エヴァは身に疼く疎外感を隠し通すように、じっと睨みつけるように儀式を鑑賞していた。

「あいかわらず腐った顔をしているな、エヴァ。せっかくの《大角殿クシュット》だぞ。もっと愛想よく振る舞ってみたらどうなんだ」

 軽くたしなめるような声が降ってきたかと思いきや、声の主が汗の匂いを漂わせながら隣に腰を下ろしたのを、エヴァは肌で感じた。そちらへ視線を寄こすべきかどうか、エヴァは一瞬迷った。こんな自分に進んで話しかける酔狂者など、太母を除けば一人しかいないと分かりきっていたからだ。

 それでも、内に抱え込んでいた孤独感を紛らわせようとする意識が働いたのか、軽く睨み返すような感じで、おせっかいな隣人の姿を見やった。

 精悍な印象を与える雄の鬼血人ヴァンパイアだった。分厚い鋼めいた褐色の上半身には珠のように汗が浮かび、闇夜を切り取ったような黒い短髪も、ほのかに湿り気を帯びていた。その様子を見て、ついさっきまで建造班の一員としてコロニーの新たな拠点造りに邁進していたのだろうと、エヴァは察した。

 新拠点はチベット山脈の奥深いところに建造中であるから、人の目に晒される危険性は薄い。なにより、戦後処理にあたふたしている今となっては、人間達も外の世界へ目を向けている余裕などないのだ。

 一つ仕事をやりきったというようなベルハザードの爽やかな表情から察するに、どうやら建造計画は滞りなく進んでいるらしい。この調子だと、あと十数回の夜を越えた頃には新拠点も形になっている頃合いだろう。

日向を歩む者デイライト・ウォーカーの顔が腐るわけないだろ。なに馬鹿なこと言ってんだ、ベル」

「ほぉ。そんな生真面目な返しを寄こしてくるとは意外だな。冗談の一つくらい理解してくれるものだと思ったが」

 ベルハザードが愉快そうに小さく笑った。そんな風にエヴァに屈託のない笑みを向けるのは、数多くの同胞たちの中にあって、彼くらいのものだった。

「今の、冗談のつもりだったのか?」

「半分は本気だぞ。今は《大角殿クシュット》を大いに楽しめ。何の為に、俺たちがこういう恰好でいるのか考えてもみろ」

 そう言ってベルハザードが指差したのは、自身の腰巻だった。沈みゆく太陽と上る月が天然の岩絵具でデザインされた紐模様のそれは、こういった『血の祭り』における正装で、皆が同じ格好をしていた。

 当然エヴァも、白い肌とふくよかな胸元を剥き出しにして、ベルハザードと同じデザインの腰巻を身に着けていた。それに加えて彼女の場合は、首元に黄金のチョーカーも嵌めていた。それが、忌むべき太陽に祝福された鬼血人ヴァンパイアであることの、なによりの証だった。天の魔光を先天的に乗り越えた者としての、ゆるがぬ事実がそこにある。

 太母はエヴァの特異性に目をかけてこのような装身具を用意したのだろうが、当の本人にしてみれば『異端者』というレッテルを張られた気分で、居心地は決して良くなかった。現にいまこうしている時も、観覧席に漂う、悪意と嫌悪と侮蔑と嘲笑の込められた数多の視線・・が首元のチョーカーに刺さり、エヴァの肌にチクチクとした物理的な痛みをもたらしていた。

 物理的な痛みを感覚することのない特別な体構造を有する鬼血人ヴァンパイアだが、同族内からこういった類の視線を受けると、なぜか痛みが生じるのだ。検分士いわく、眼力のもたらす効果が精神的な面に影響を及ぼした結果、ある種の防御反応を脳が『痛み』として捉えているだけらしいのだが、エヴァにとって不快であることに変わりはない。

 恐らく観覧席の中に、本気で心の底からエヴァを恨んで殺してやろうなどと考えている者は皆無だろう。それでも、心に沸く悪意を制御しきれずに睨むような仕草をすれば、血眼フレンジィは無意識の領域で軽い暴走状態に入る。

 言わば血眼フレンジィとは、古代の高名な呪術師たちが会得せんとしていた邪眼イビルアイに他ならない。ひと睨みするだけで対象者に害悪をもたらす、最も基礎的にして最も人間臭い呪術を、人類の亜種である鬼血人ヴァンパイアは己の特性として生まれた時から宿している。その、呪的存在と化している血ゆえにだ。

 古代の呪術者、あるいは魔術師といった輩がこのことを知ったら、泡を吹いて卒倒するだろう。まったく鬼血人ヴァンパイアとは、なんとも厄介な宿業を背負ってきたものだと、エヴァは刺さる視線を意に介さず嘆息した。

「あのさ、ベル」

 味が抜けきり、噛み飽きた干し肉を手元の壷の中に吐き出すと、エヴァは迷惑そうな態度で言った。本心とは裏腹に。そうすることで自分を守ろうとしていた。殻に籠るように。

「アタシに構うの、もういい加減にやめろって」

「なぜだ」

「お前なぁ、自分の立場ってものを考えろよ。勲等一級保持者のベルハザードが異端者に肩入れしているなんて大っぴらになったら、悪評が立つだろうが」

「ふぅむ。つまりお前は、俺の身を案じてくれているというわけだ」

「い、いや、そんなんじゃねーから」

「自己の存在が、俺という他者の価値を不当に貶めているのではないかと、他ならぬお前自身が危惧している訳だな?」

「や、だから……本当にちげーから」

「まぁ、そうムキになるな」

 エヴァの意固地な態度をするりと躱すように、ベルハザードは柔和な笑みを一つ浮かべると、次にがらりと表情を変えた。精悍な顔に獰悪なる印象を与える鋭い目つきになると、観覧席を舐め回すように睨みつけた。

 畏怖アーサム血眼フレンジィ――見つめた相手の心に巣食う敵愾心、あるいはそれに準じる思念を鎮めるそれは、個人や集団を相手取る際において絶大な効力を発揮する。

 ベルハザードの血眼フレンジィは戦闘だけでなく、不穏な気配に包まれた場の空気を宥めるのにも十全に役立つ。事実、彼の睨みを食らった観覧席の同胞たちは、気まずそうにそそくさと視線を逸らすと、すっかり意気消沈してしまい、石像のようにおとなしくなった。

 エヴァの肌から、ささくれ立った痛みが嘘のように消えた。痛覚が刺激されなくなったぶん、心の隙間に空白が生じたようだった。

「だから、そういうのをやめろって言ってんじゃねーかよ」

 感謝の言葉。そのための枠組みとして使おうとしていた心の空白だったが、先に滑り込んできたのは照れ隠しだった。

 そっぽを向くエヴァに向かって、それでもベルハザードは語りかけた。誰かに強要されているのではなく、本人がそれを望んでいた。

「エヴァ。断っておくが、俺は恩を売ろうとしてお前に近づいているわけではないぞ」

「大方予想はついているんだ。どうせ太母に命じられたからだろ。アタシを一人にするなってな具合に」

「具体的には、お前の力になって欲しいと、あの方は仰られていた。残念なことに、俺の矮小な頭では太母の聡明なご高察の全ては理解しきれない。だが、こんな俺にも分かることがある。お前はこの一族に、いつか光をもたらしてくれる存在に違いないとな」

「なんだよそれ。どうしてそう言い切れる」

「決まっているだろうが」

 ベルハザードは、真摯な顔でエヴァに向き直ると、確信しているとばかりに言い切った。

「お前が、我が同胞の一人に他ならないからだ。一族の調和ハーモニーを支える要は、太母とお前だ。俺はそう信じている」

 エヴァが動揺も露わに、目を見張りながら振り返った。そんな言葉を投げかけられたことなど、ただの一度だって無かった。だから、咄嗟にどう反応してよいものか分からなかった。

「この場にいるのは年代にばらつきがあるとは言え、みなが血を分け合った兄弟だ。兄弟を信じなくて、なにが鬼血人ヴァンパイアなものか。そうだろう?」

「ベル」

「心配するな、エヴァ」

 励ますように、ベルハザードが言い切った。

「お前を一族の調和ハーモニーを乱す雑音ノイズだと決めつけて毛嫌いしている奴らはな、ただ嫉妬しているだけだ。お前が太母のお眼鏡に適って、護衛士に任ぜられたことが気に食わないのさ」

「ベル。あの、アタシ」

 しゃくるように、喉の奥で言葉がつっかえる。

 気づけば、地べたに置かれたベルハザードの右手の甲に、自身の左手を重ねていた。そうすることで、また心に新しい空白が生じていくようだった。エヴァの仕草は、人込みの中で母親と逸れるのを恐れる子供が服の裾をぎゅっと掴むような、そんな行為に近いものがあった。

「アタシ、怖いんだよ」

 心の空白に詰め込まれてかたちを成したのは、必死の訴えだった。意識の奥に潜む『何か』の正体を掴めないまま、理由なき不安に怯え、遠くへ追いやろうと足掻いていた。

「たまに、自分で自分が分からなくなる。皆がアタシのことを穢れた血だって言うけど、でもそれは、たぶん、当たってる。アタシだって、みんなの輪に入りたい。それなのに、自分の居場所がここにはないって思う時がある。周りの奴らみんな、ただの他人みたいに感じる。だから全部破壊して、何もかもどうにかしてやりたいって……そう思ってばかりだ。太母のことを、仲間のことを、大事に想っているはずなのに」

 コロニーのために生きようと努力してみても、その意義が見い出せない。他の同胞にこんなことを吐露すれば、太母に対する不敬も甚だしいと罵声を食らい、吊し上げにされることだろう。鬼血人ヴァンパイアの怨敵たる太陽に見初められし者は、やはり一族に反旗を翻さえかねない存在だったと、鬼の首を取ったように騒ぐに違いない。

 ベルハザードは違った。彼はエヴァを決して否定しなかった。不快感に眉を顰めることすらしなかった。考えすぎだと一笑に付したりもしなかった。

鬼血人ヴァンパイアとして生まれたことに、誇りを持てないということか?」

 エヴァの告白を聞き届けたベルハザードは、たった一言そう尋ねた。問い詰めるというのではなく、単にそう疑問に感じたから口にした、という調子だった。

 エヴァは首を縦に振るべきか横に振るべきか迷い、最終的にそのどちらも選択することはしなかった。暗い道をひとり俯いて歩くかのように、思い詰めたような表情で顔を伏せた。

 すっと、ベルハザードが腰を上げた。てっきり何か慰みの言葉をかけてくるのではと思っていたから、反射的にエヴァは顔を上げた。

「お前はまだ、自分の力をコントロール出来ていないのだろうな」

 ベルハザードは逞しい肉体を見せつけるようにエヴァの前に立ちはだかると、神妙な顔つきで口にした。

「コントロール……?」

「俺は日向を歩む者デイライト・ウォーカーじゃない。だからお前の悩みの全てを理解できるわけではない。それでも話を聞いていると、お前が抱え込んでいる悩みというのは、お前自身の心の律動をどう制御するかに関係しているように思う。己の心の手綱は、己自身が握るほかないのだ。それが出来るようになれば、お前の居場所は見つかるだろうな」

「口で言うのは簡単だ」

「そうだ。だから、俺がひとまず手本を見せてやろう。よくよく観察しておくことだな。コントロールとは、こうやるのだと」

 にっと白い歯を覗かせて笑うと、ベルハザードは胸を張って土俵に上がっていった。

 一族の行く末に多幸あれと祈る《大角殿クシュット》は戦闘様式に習った儀式ではあるが、これといった番付などは用意されていない。一対一を基本としつつ、一対多の状況に縺れ込むこともあるが、それらのハプニングも儀式を盛り上げるためのスパイスとして容認されていた。

 ベルハザードが土俵の中央に上がった時、偶然にも場は空いていて、すでにあらかたの同胞たちが、その身に宿した純粋な肉体に依る力を互いにぶつけ合い、消費した後だった。

「諸君、どうか御覧じて頂きたい。この戦律の・・・ベルハザード、僭越ながら、ただいまより血と名誉の神殿にその名を刻もうと思うが、誰か、胸を貸してくれる者はいないか」

 ここ近年の《斜陽の冠》の中でも一番の有望株が儀式に名乗りを上げたことで、観客席から地鳴りのような歓声が沸いた。楽隊がめいめいに音を奏で、まだ祭りはこれからだと言わんばかりに盛り立てた。

 ベルハザードの呼びかけに応じるように、観客席から一人の同胞が手を上げつつ、ようやく出番が来たとばかりに立ち上がった。ベルハザードやエヴァよりも一世代前に生まれたその同胞は、身長が二メートルとベルハザードよりも少し背が高く、体は樽のように横幅があった。灰と油で戦闘の化粧を顔面に施し、針金のように尖った体毛を、意気揚々と震わせている。

「おう、貴君が名乗り出るか。唸り手のアマデウス」

 土俵に上がってきた、その山のような迫力を滾らせる同胞を前に、ベルハザードは楽しそうに笑った。共に乱獲士として前線で戦う仲の二人ではあったが、《大角殿クシュット》で顔を突き合わせるのは、これが初めてだった。

「お手柔らかに頼むよ、望外の幸を届けし戦士よ」

「その言い方はやめてくれ。お前が特にそうだが、俺のことを買い被り過ぎてやしないか?」

「事実を言ったまでさ。そう謙遜することもあるまい?」

 重石が転がるような声と共に好戦的な笑みを浮かべると、アマデウスは土俵の端へ移動し、大木めいた両足を交互に力強く踏み鳴らした。

 ほっそりとした目つきの奥に、はっきりと殺意の眼差しがある。それでいて血眼フレンジィを無自覚に発動しないよう制御しているあたり、アマデウスも歴戦の猛者に相応しいオスだった。

 一方で、土俵の反対側に移動したベルハザードも、同じように地面を踏み鳴らすと、腰を深く落として両手を大きく広げる構えを取った。 

 離れたところから、エヴァはじっとベルハザードの佇まいを観察することに徹した。正確には、彼の懐の深さを体現したかのような構えではなく、その虚無を見つめているかのような目つきを観察していた。

「やっぱり、とんでもねぇな、ベルは」

 彼が脳の活動状態を瞬時にデフォルト・モード・ネットワークへ切り替えたのだと分かって、思わず舌を巻いた。それは、エヴァがどれだけ努力しても未だに獲得できない、鬼血人ヴァンパイアにとって究極とも呼ぶべき戦闘姿勢だった。

 生命機能の根幹を支える血管と神経を相互依存ワイヤリング化させ、互いにシグナルを絶え間なく伝搬させることで自律神経を活発化させる。それにより体内の恒常性を保とうとするのは人間の生命活動にも言えることだが、鬼血人ヴァンパイアは血液の特殊性ゆえに、このワイヤリング化を信じられないほどの高密度で行う。

 代謝や発汗を意識的に完璧にコントロールできるだけでなく、感覚神経や運動神経にも膨大なシグナルを送り続ける血管の力ゆえに、あらゆる環境下での戦闘活動を実現させるのだ。鬼血人ヴァンパイアの膂力と戦闘継続能力の高さは、ひとえに、この尋常ならざる血管と神経のワイヤリング機能の賜物だった。

 そのワイヤリングすら十分に行えないエヴァにとって、いまベルハザードが披露している生体コントロール技法は、まさに雲の手を掴むようなものだった。

 きっと、他の同胞たちにとってもそうなのだろう。みな固唾を呑んで、ベルハザードの一挙手一投足に注目していた。楽隊の演奏も、いつの間にか止んでいた。

 ベルハザードの瞳が、ますます虚ろさを増していく。瞑想状態に陥ったかのように焦点が合っていない。だが、決して気を抜いているという訳ではない。ワイヤリング機能の応用と発展の真っ只中にいるのだ。

 神経細胞を意識的に操作して数千種類もの化学物質を脳内へ分泌し、極限のリラックス状態たるデフォルト・モード・ネットワークへ昇華させたいま、ベルハザードの感覚領域は肉体の外側へ拡張していると言っても過言ではない。さながら、見えないトラップを張り巡らしているようなものだった。

 互いに戦闘の準備が整い、審判役を務める同胞が儀式開始の銅鑼を鳴らしても、両者ともに一歩も動かなかった。一分、二分と経過して、先に動いたのはアマデウスだった。だが彼は、その巨体に似合わないほどの、臆病ともとれる動作しかできなかった。じりじりと足を擦って間合いを詰めつつ、ベルハザードの制空圏を図っている。

 後の先を制する。それがベルハザードの手法だ。あらゆる方向へ感覚のトラップを張り巡らせ、それに相手が掛かった瞬間に精緻に動く。 そのやり口を知っているアマデウスだからこそ、迂闊な距離の詰め方は危険だと判断したのだ。

 だが、理性ではそう決めていても、戦闘に臨む鬼血人ヴァンパイアの本能が、均衡しつつあるこの状況に耐えられなかったのだろう。アマデウスは制空圏ギリギリのところまで距離を詰めたところで、生肉を前にした飢虎さながらに突進した。

 あっと観客が声を上げた時には、すでに勝敗の明暗はあきらかだった。

 掴みかからんと一直線に飛び込んでくるアマデウスの巨体。まともに受ければひとたまりもないであろう鉄塊と化した彼の動きを見切ると、ベルハザードは腰を落とした姿勢のまま右へ軽やかに飛び、これを躱した。

 両者の体が土俵の上で交差する。刹那、脇に腕を差し入れようと斜め頭上から迫るアマデウスの掌。だが、ベルハザードはこれを頭突きの一発で弾き返すと、すかさず左手の人差し指と小指をアマデウスの腰巻に引っ掛けた。そのまま、手首、肘、肩、腰の動きを一糸の乱れもなく連動させ、左手が美しい弧を描いた。さながら、引力に導かれて林檎が木の枝から落ちるような、それは必然の成り行きとも言えるものだった。

 成す術もなく土俵に叩きつけられて目を白黒させるアマデウスを後目に、ベルハザードは土俵の中央へ悠々と歩み出ると、自らの存在を知らしめるように右の拳を高らかに突き上げた。爪が手の平に食い込む。流れ出した血が褐色の皮膚を伝って、土俵に決定的な証を残した。

 わっと、観客席が激しく波打った。鮮やかに力の差を見せつけるような戦いっぷりに、誰も彼もが興奮しきっていた。アマデウスも、やれやれと立ち上がり、羨望の眼差しをベルハザードへ送りつつ、自らの敗北を潔く認めると拍手を浴びせた。

 喝采と称賛の声を一身に浴びるも、それらにはまるで目もくれず、ベルハザードはじっと視線をある一点へ向けていた。

 これが『力をコントロールすることだ』と、その眼で訴えた。お前にも、いつか必ずそれができるとの期待を込めるかのように。

 エヴァが照れ隠しをするように、ぷいっと横を向いた。

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