2-13 AM10:47/そして戦渦は回転する④

 エレベーターの終端まで残り二百メートルと差し迫った時、エヴァの肌が、弾かれるように粟立った。

 直感――ただならぬ存在の到来。

 身に迫る禍々しい気迫に激しく動揺した。思い当たる節があったからだ。否、『思い当たる』など、そんな生易しい表現で誤魔化せるものではない。

 この感覚は、以前に一度味わっている。この、鼻を鋭く突いてくる『血の匂い』についても、はっきりと覚えがある。

 全身の血管が弾かれた弦のように震えた。体中の血が急速に凍結していくかのようだった。肉体を構成する細胞たちが必死の叫びを上げている。そこに意識を傾けるよりも先に、エヴァは反射的に眼下を見下ろしていた。

「お前……!」

 絶句。血騰呪術《アスペルギルム)により生み出された幾何学的な造形の怪魔。その上に悠然と立つ男の姿を視界に捉える。

「ようやく見つけたぞ、黒き冠のエヴァンジェリン」

 男は怨嗟の声を短く吐くと、さらに触手を一息に伸ばして跳躍。エヴァを見下ろす位置を取った。まるで、そうする権利があるとでも強く主張するように。

 かつて同じコロニーに属し、同じ『太母』から生まれ出た兄弟とも呼ぶべき存在。一族が凋落した今、本来ならば互いの無事を喜び合って抱擁の一つでも交わすところだろう。だが、そんな甘い展開になることはない。そう、互いの瞳に宿る感情の渦が物語っていた。

「ベル!? てめぇ、なんでここに!?」

 男の姿かたちが意識に焼き付けられていくにつれ、恐慌と憤怒が沸き起こる。だが何より、エヴァの胸中を占める最大の要素は『驚嘆』であった。パンクとリガンドの存在をすっかり忘れかけそうになるくらいの、予期せぬ乱入であった。

 日差しを徹底して嫌うかのような、フード付きの黒い耐環境ロングコートに黒いブーツ。腰に巻いた銀色のチェーンと、これから凶事に及ぶことを暗示するかのような、黒い皮手袋。闇夜の祝福を受けた亡者のような佇まい。それこそ、ベルハザードがコロニーにおいて強者の列に並ぶことを許されていた証に他ならない。

 フードの下で、青白い唇が、うっそりと開かれた。

「街頭ビジョンですでにこのことは報じられている。階層間エレベーター《第十二番》の襲撃。これだけ派手にやれば、俺は無論のこと、家畜たちも嗅ぎつけるというものだ。すでに地上から、貴様の姿は完璧に捉えられている。その素性も、ただちに明らかにされることだろう。だが……」

 言葉を切ると、ベルハザードは腰に下げ佩いた手斧の柄を左手で静かに撫で上げた。皮手袋越しの太い指先が微かに震えていた。好機を目前にした歓喜に、全身の血肉がわななく。

 夕焼け色の刃を備えた手斧――破壊の力を象ったような原始的武装を駆使してエヴァンジェリンの命を奪う事こそが、ベルハザードに課せられた至上の命題であった。

「貴様の死体が家畜の手に渡り、蹂躙されることはない。なぜなら、太母から賜りしこの武具の一撃を以て、跡形もなく消し去ってやるからだ。それが、大罪を犯した愚劣極まるかつての同胞に対する、俺からの罰であると知れ」

「だから、いい加減にこっちの話を聞けっつってんだろーがよぉ! いつからストーカー紛いの趣味に走る様になったんだテメェは!」

 エヴァを取り囲む六体の赤き守護者たち。その全てが両足を壁に接地させた状態で、武骨にして頑強にも程がある両手の刃を蟷螂のように鋭く掲げる。

 徹底抗戦の意志を示すエヴァに対し、ベルハザードもまた一歩も引くことなく、手斧の柄を左手で硬く握り締めた。

「《ヘパイストス》でも言ってやったが、アタシは『太母殺し』なんてやってねぇ! ベル、テメェが勝手に勘違いしているだけだ! 思い込みで暴走してんじゃねぇぞこのタコ!」

「この期に及んで……まだ戯言を抜かすか!」

 エヴァの言い訳めいた台詞を怒声の一撃で断ち切ると、ベルハザードは真っ白な犬歯を剥き出しに吠えた。手斧の柄が悲鳴を上げそうなくらいに、握る手にますますの力が入る。

 ベルハザードの瞳はエヴァと同じく爛々とした赤色に満ちていたが、体の内側から迸る憎悪の炎は隠しようもない。

「俺は確かにこの目で見たのだ! 貴様が《夜奏宮》の最奥で……血にまみれた太母の側にいた姿を! その身に太母の源たる蜺血げいけつを浴びていたことも! 弁解する素振りも見せず、卑劣にも逃げ去ったその背中……俺が忘れたとでも思ったか」

「あん時は頭がどうにかなって訳が分からなかったんだ! それなのに、テメェがこっちの言い分も聞かずにいきなり襲い掛かってきたから、逃げるしかなかったんじゃねーか!」

「ああそうだ。話など聞くまでもない。俺の耳は、裏切り者の詭弁に傾けるためにあるのではないからな」

 怒りに任せた声音を鎮めると、静かに、底冷えするほどの恨み節を吐き出した。

「太母は、貴様が『新しきしるべ』になる存在だと仰られていた。だがそうではなかった。貴様は太母のご期待を最悪の形で裏切り、コロニーの歴史に屈辱的な汚点を残した、一族の恥ずべき忌み子だ。お前はやはり、穢れている」

 忌み子――穢れた存在――お前は何者にもなれない

「言うんじゃねぇ! それだけは言うんじゃねぇぞ! ベル!」

 罵声の矢じりに心臓を貫かれ、たまらずエヴァは絶叫した。現実から逃れるように瞼を固く閉じる。その拍子に、溢れ出した熱い滴が目元を伝って宙へ流れ、凍てつく突風に砕かれた。

「それだけは……それだけは、言うな」

 絞り出したのは、嗄れ声。極寒の中に身ぐるみを剥がされて放り出されたかのように、全身から血の気が引いていく。唇は小さくわななき、奥歯が自然と小刻みに震えてしかたない。気をしっかり保たねば、壁を握り掴む指先から力が逃げてしまいそうになる。それはなにも、殺されるかもしれないと、死ぬかもしれないと、待ち構えているであろう己の運命を激しく悲観したせいではない。

 忌み子――穢れた存在――とっくに聞き慣れて受け流していたはずの悪評を、まさかベルハザードの声で聞かされる日がくるとは。それを味わうことになれば、自身の精神にどれだけの痛みが刻まれるか。想像だにしたことのなかった出来事が、いま、現実のものとなってエヴァの心を砕き始めていた。

「安心しろ。その首を刎ね、心臓を一突きし、引きずり出して十秒と外気に触れさせれば、嫌でも無音の世界へ誘われる。一族の調和ハーモニーを乱した、黒き冠のエヴァンジェリンという名の『雑音ノイズ』は、完全にこの世から消滅する。だが、その前に一つ教えてやろう。《ヘパイストス》の時には明かせなかった、俺の身体にまつわる秘密を」

 戦意の喪失しかけたエヴァを侮蔑の籠った眼差しで見下ろしつつ、ベルハザードは空いた右手をフードにかけ、日の下にも関わらず被りを払った。太陽が君臨する中で素肌を曝す。鬼血人ヴァンパイアにとって自殺行為にも過ぎる挙措に、エヴァは思わず声を上げかけた。しかしながら、彼の素顔を実に五年振りに目の当たりにしたエヴァは、喉元を通りかけた声の塊をすぐさま飲み込んだ。

「その目にしかと焼き付けろ。貴様に罰を下すために俺がどれだけの労苦を噛み締めたか。この顔貌に刻まれた証こそ、俺と太母の恨みそのものと思え」

 直射日光に晒されても、ベルハザードの肌が焼け爛れることはなかった。その相貌に、昔の面影は欠片たりとも残っていなかった。

 肌は透き通るように白かった。こけた頬も、彫刻のように整った鼻も顎も、何もかもが白かった。元から短く切り揃えていた短髪は灰色に染まり切り、ところどころが虫食いのように抜け落ちている。変わり果てた風貌も相まって、肌白くも石膏めいた美しさからはほど遠く、見る者になんとも例え難い痛々しさを与えてくる。

 その一番の要因となっていたのは、彼の右のこめかみ付近に、あばたのように広がる大小の眼であった。眼には瞼もあり、涙腺もあった。全部で八つの眼だ。黄濁した白目が、微睡の中に落ちかけているように、ゆっくりと瞬きを繰り返している。

 それこそ、後天的に太陽克服の特性を獲得するために、禁忌の邪法へ手を染めたことの何よりの証だ。エヴァを討伐するために、なりふり構ってはいられなかったのだろう。

 だが、そんなベルハザードの自己犠牲的な選択を拒絶するかのように、気付けばエヴァは、悲鳴にも似た大声を上げていた。

「お前、屍腐獣ボルボスの肉を食ったのか!?」

「そうだ」

 だからなんだと言いたげに、ベルハザードは平然と応えた。

「俺は確かに邪法に手を染めた。だがな、体は蝕まれようとも、鬼血人ヴァンパイアとしての心まで明け渡したわけではないのだ」

 それで伝えるべきことは全て伝えたと言うように、ベルハザードは左手に持つ夕焼け色に染まる手斧を左肩ぎりぎりまで引き付けると、深く腰を落として構えをとった。決して広くはない正八面体の上だというのに、体幹が少しも揺らがない。歴戦の強者らしい、恐ろしいほどのバランス感覚だった。

 次にベルハザードがどのようなかたちで打って出てくるか、エヴァには自ずと分かった。彼の血騰呪術アスペルギルム――《僥倖なる命の運び手ブルート・ヴラスト》と太母によって銘打たれた三角柱の触手を、決して甘く見てはならない。

 攻撃にも移動にも応用可能なそれを、こちらの動きを封じるように四方八方へ伸ばした後に、足場代わりにして接近する算段なのは目に見えている。

「くっそ……!」

 壁を掴む手足に意識を集中させながら、何か手はないかと、エヴァは周囲を確認した。

 展開している六体の赤影体は、依然として鉄壁の守りを維持している。ベルハザードがすぐ行動に移ろうとしないのは、赤影体の自爆を警戒してのことだろう。

 百メートルほど下を見やれば、先ほどまで交戦していた襲撃者が二名。すっかり蚊帳の外に置かれたというのに、どうしたことかその場から動こうとしない。再び視線を頭上へ向ければ、三十メートルほど先で討伐の意志を燃え滾らせるベルハザードの姿が嫌でも目に入る。

 停滞しかけていた戦闘の渦が、新たに投入された不安要素によって、ますます混沌としたうねりを見せる。そのうねりに呑み込まれないよう必死に頭を回転させて、進むべき道を打開する。少しでもその努力を怠れば、ここで命が散るのは必定。

 脳細胞たちが鼠花火のように閃光を散らし、エヴァの思考が加速の波に乗る。その作業を中断させるかのように、何の前触れもなく、すぐ耳元で削岩機めいた爆音が弾けた。

 やや遅れて、それがローラー音と機関砲の威嚇射撃が合わさったものだと、過去に経験した類似の記憶を引っ張り出して照合を済ませた時には、すでに、

【全員、その場を動くな】

 おそらくは、下界から様子を見守っていた都民の通報を受けて上空より飛来してきたのだろう。市警の紋章を尾翼に雄々しくプリントした三機の有人式重警備ドローン――《ガルグイユ》に、エヴァたちは取り囲まれていた。

【ただちに武器を捨て、破壊活動を停止せよ。投降を拒否すれば、全員ここで射殺する】

 警笛音を甲高く鳴らしつつ、ドライバーの威圧的な警告音声が、拡声器を通じて大気を振動させた。ドローンの流線的なボディ。その対角線上に備えられた四つのローターはホバリングのための低速回転へ移行。機体下部に取り付けられたガンポッド――二門の機関砲が、無機的な視線を投げかけている。

 予想だにしない流れを形成しはじめた戦闘の渦に翻弄される彼らの反応は様々だった。ギュスターヴという権力者の根回しがあるとはいえ、さすがにこの展開はまずいと感じたか、パンクとリガンドのどちらも、緊張に引き攣った表情になった。その瞳に憤怒を燃やすベルハザードまでもが――これだけの騒ぎになった以上、市警の介入があるだろうと予感していたにも関わらず――寸毫、わずかに、ドローンの登場に気を取られた。

 しかし、その中でエヴァだけはいち早く、自身が取るべき最善の振る舞いを導き出していた。高速回転する状況に呑まれて蒸発しかけた思考を頭蓋の縁に必死で圧し留める。気後れすることがなかったのは、ひとえにニコラの存在があったからだ。奇跡を起こす彼女を絶対に手放してなるものかという、鉄のように硬い意地のおかげだった。

「おおおおおおおおおおおっ!」

 裂帛の叫びを置き去りに、飛翔――表層意識が気づいた時にはすでに、一機のドローンのフロント部めがけてエレベーターの壁を勢い良く蹴って反動をつけ、刃のように逆巻く豪風のただ中を突っ切っていた後だった。

 エヴァの動きとタイミングを揃えるように、それまで鉄壁の陣を敷いていた赤影体たちが、ようやく牙を剥いた。頭上のベルハザードへ四体、眼下のリガンドとパンクへ二体。「ギャギャギャギャ!」と空恐ろしい叫喚を上げながら飛び掛かり、刹那の後に盛大に爆ぜた。

「ぐっ……もういいだろ。とっとズラかるぞ、リガンド」

「ええ。情報・・もそれなりに手に入りましたしね」

 パンクとリガンドは連なる閃光と衝撃から逃れるように、それぞれのサイボーグとしての特性を生かして、来た時と同じような手段でエレベーターの壁を颯爽と駆け上っていった。

 逃げ去る二人の背中へ、一機のドローンが警告音を放ちながら、機関砲の照準を向けかけた。だがその瞬間、宙空で盛大に吹き荒れていた爆炎の一端が、舐めるようにドローンのエンジンタンクへ引火。轟――と、鼓膜が破れそうになるほどの爆音を遺し、打ち上げ花火のように部品を撒き散らしつつ、暗黒色の煙を垂らして無惨にも墜落していく。

 ドライバーが骨の髄まで燃え尽きたのは明白だ。きっと断末魔すら上げる事も叶わなかったに違いない。だが、この場においてはむしろ、それで幸せだったと言えるだろう。少なくとも、エヴァの標的にされたドローンのドライバーは、彼女の持つ悪魔的能力に翻弄されることになるのだから。

【ひ、ひぃぃいいいぃぃぃいいん!?】

 愚かにも、エヴァがフロント部にへばりつくのを難なく許してしまったドライバーが、半狂乱になって操縦桿の射撃ボタンを全力で押し込んだ。

 だが無論のこと、エヴァには一発たりとて命中せず、機関砲が放つ低致死性ロー・リーサルの硬化ゴム弾は、ちょうど反対側へ――爆炎を払いのけている最中のベルハザードの動きを、図らずとも牽制することになった。

「(従え――――!)」

 血染めの魔眼。魅了チャーム血眼フレンジィを惜しみなく発揮するエヴァ。目を合わせたドライバーはヘルメットバイザーを被っていたが、夜を支配していた種族の力は、それっぽっちでは防げない。

 コンマ数秒の後にエヴァの忠実な傀儡と化したドライバーはスロットルを入れ替え、ホバリング態勢を解除。操縦桿を操作する。ローターが急速に唸りを上げつつ、機関砲からゴム弾をめちゃくちゃにばら撒きながら垂直に上昇。

 がりがりとドローンのフロント部に爪を立てるエヴァ。全身にかかる凄まじい空圧に潰されてなるものかと、鬼のような形相で耐え抜こうと全身に力を込める。そんな彼女の命がけの心意気に応えるかのように、ドローンは上昇を続ける。みるみるうちに、戦闘の渦から離脱していく。

「エヴァンジェリイイイイイイイイイイイイイン!!!」

 そうはさせないと、血を吐き出さんかという勢いで轟くベルハザードの怒号。殴りつけるように右手を突き出すと、連動して足元の正八面体のうち一面がたちどこに形状を変化。三角柱型の触手が凄まじい速度で大気を突き破り、エレベーターを粉砕して直進。

 伸長するに合わせて表面を彩る赤と黒の光の紋様が奇妙に歪み、触手の先端が槍の穂先めいて先鋭化し、すでにエレベーターの終端間際まで上昇しているドローンのローターのうち、一つを破砕した。

 制御を失いかけるドローンだったが、火花を散らすだけで墜落には至らず。どころか、スロットルを全開にして離脱に徹する。空前絶後の震動にあってもエヴァの三半規管はなおも機能を保ちつつ、また彼女自身の死に物狂いの根性もあって、振り落とされることはなかった。

 ドローンは急速にスピードを上げると、めちゃくちゃな軌道を描いて中層の土台たる巨大な岩盤の影へ逃れた。それはつまり、触手の射程距離外へ逃がしてしまったことを意味していた。

「(墜落したか……いや、違うな。煙が見えない)」

 取り逃がしたところで、しかしベルハザードの心が搔き乱されることはない。すぐに次の動きに出る準備を、復讐鬼はすでに整えていた。

 後ろを振り返れば、その準備がかたちを成したものがあった。絡みつく四本の触手で動きを封じ込まれた、哀れなる残り一機のドローンがそれだった。

 ドライバーは恐怖に顔を引きつらせ、自分の命があと何秒後に潰えるかを数えるのに必死な様子だった。

 赤黒く明滅する触手は、ベルハザードの意志一つで自在にその硬度を変える。今こうしている時も、ローターや機関砲の可動部に巻き付きついて機能を無力化しつつ、しかし決して、機体それ自体をひどく損傷しない程度には、力を抑え込んでいた。

 ベルハザードは跳躍すると、ドロップキックの要領でドアを一発で蹴破り、せまい一人乗りの操縦席へ巨躯を滑り込ませた。当然、ドライバーの生きる権利などないとばかりに、流れるように左手を振るう。軽やかな手刀の一撃。血飛沫が計器盤にかかり、ドライバーの首から上がすっ飛んでコックピットの天井にぶち当たり、足下に転がった。

 目指す先は、仇が逃げ込んだと思しき中層。そう決めると、ベルハザードは体力の回復も兼ねて、噴水のように血を飛び散らすドライバーの亡骸に牙を突き刺してジュース感覚で血を飲みつつ、眼だけはしっかりとフロントガラスを捉え、操縦桿を握った。

 この手のドローンの操縦は初めてだったが、技術レベル的にコロニーが保有していた飛空艇とそう違いはない。すぐに感覚を掴むと、血騰呪術アスペルギルムを解除。自らの意志で霧のように消えていく触手を後目に、スロットルを入れ変えようとした矢先だった。

 無線に、一定の調子で繰り返される定型アナウンスが入った。操縦桿を動かそうにも、びくともしない。ベルハザードは吸血行為を一旦止めると、アナウンスが繰り返す不穏な人工音声に聞き入った。

「オートドライブへの移行……? なるほど。都市の管制センターが異常を検知し、セキュリティが働いたということか」

 階層間エレベーターに関する一連の事態を遠隔監視していたのだろう。航空交通管理センターのアナウンスは、このドローンがセンターからのナビに従い、マニュアルから自動操縦モードへ切り替わったこと。このまま中層の東に位置する第一緊急着陸所に緊急着陸することを告げていた。

 さらに、航空交通法に関する重大な嫌疑が掛けられていると告げると、ちょうどベルハザードの座っている操縦席を取り囲むように、上下から鉄格子ががっしりと生えてきた。移動式の牢屋の完成である。操縦者が叛心の赴くがままに、都市から脱出せんとするのを法的に且つ物理的に不可能とするための仕組みがそれだった。

「家畜らしいな。小癪な策だ」

 檻の中に囚われて、それでもベルハザードは取り乱さない。死体と化したドライバーの腕や肩の骨が、鉄格子を無理やり通るたびにおかしな方向へ折れるのも気に留めず手元に引きずり寄せると、ベルハザードは一時生じた暇を潰すように、吸血行為を再開した。そうして、今後のことに思考を巡らせた。

「(優先するべきはエヴァンジェリンだ。奴が何を企んで中層へ昇っているのか。それは問題ではない。重要なのは、奴がこの都市に、中層にいるということだ。それだけ分かっていればいい)」

 ちらりと、眼下に遠ざかる階層間エレベーター《十二番》を見やる。激しい戦闘に巻き込まれて、電装盤がどこもかしこも焼き切れたのだろう。本格的な火災が柱のいたるところで発生し、黒煙がたなびいていた。

 都市経済を支える階層間エレベーターの一つをここまで破壊したのだ。騒ぎにならないはずがない。当然、それに絡んでいる存在についても……すなわち、都市に絶滅したはずの鬼血人ヴァンパイアが潜伏していることも、遠からず都民に知られるに違いない。

 どれだけ都市上層部が緘口令を敷こうとも、目撃者の口に戸は立てられない。鬼血人ヴァンパイアと言えども、人間社会に関するその程度の知識は持ち合わせている。

「(奴はかなり消耗していた。あのままいけば、血の補給に躍起になるのは間違いない。きっとまた騒ぎを起こすはずだ。そこに乗じて、奴を討てれば……)」

 考察の果てに思考が呼び寄せたのは、あの二人組のサイボーグのことだった。

「(あの二人、見た目からして傭兵か何かの類。エヴァンジェリンと対立していたのは明らか。どんな因縁がある? とにかく、奴らに先を越えられるのはまずい。エヴァンジェリンを殺すのは俺の役目だ。どんな苦労を重ねてここまで――)」

 瞬間、思考が途切れる。吸血しかけていた血を思わず吐き出す。心臓に直接杭を打たれたような激痛・・に喘ぎ、苦悶の表情を浮かべる。

 コート越しの左胸を右手で強く掴み、必死になって抑え込む。歯に力が入らない。口の端から血の混じった涎が、糸を引いて零れ落ちる。額に脂汗を滲ませつつ、深呼吸を繰り返す。何度も何度も。

 そうしているうちに、少しずつ痛みが引いていった。

 ゆっくりと、胸から手を離した。それでもまだ、力は入らなかった。太陽を後天的に克服した副作用。発作の周期が短くなってきていることを、嫌でも自覚させる肉体的感覚だった。

 だが、そんな日がいずれやってくることは覚悟していた。選択したのは、他ならぬ彼自身。言い訳などベルハザードには無用であった。

 それどころか、命の灯が消えかける破滅の予感を肉体が感じ取るたびに、湯水のごとく復讐心が溢れてくるから、たまらなかった。

 生きていると、心の底から実感できた。

「(何としても、エヴァンジェリンをこの手で殺す。太母の仇を討たねば、黄泉の門を前にどんな顔で立てばいいというのだ。エヴァンジェリンを殺すのだ。奴を『殺した』という『結果』だけが手に入るのならば、他には何も望まない)」

 鬼血人ヴァンパイアとしての矜持。それだけが、今のベルハザードを生かしていた。

 種族としての誇りさえ失わなければ、外見がどれだけ醜悪になろうとも、どれだけの障害を背負うことになっても、自分は自分のままでいられると、心の底から信じ切っていた。

 鉄格子に手を触れて、ベルハザードは考えた。こうして動きを制限するような処置をとってきた以上、都市上層部はすでにこちらの素性に関して確かな見地を持っている可能性が高い。

 そうなると、ドローンの終着点である第一緊急着陸所と呼ばれる場所に、一体何が待ち構えているというのか。想像するに難くなかった。

 希望的な観測として、武装した警官が相手なら大した問題にはならないだろう。

「(だが、そうではなかったとしたら)」

 五年前、鬼禍殲滅作戦オウガ・バニッシュの実行に際して中核を担った、恐るべき家畜の精鋭。まごうことなき『戦士』たる彼らの姿を、ベルハザードは今でも忘れていなかった。

 彼らが、今もなおこの都市の奥深くで、己の生産性を証明する時を待ち続け、そしてその時がついに訪れたと知ったなら、行動に出ない筈がない。

「(あの《緋色の十字軍クリムゾン・バタリアン》と、再び矛を交えることになるかもしれない。だが問題はない。そうだ、問題はない。どこにも、問題などありはしない)」

 滾る憎悪と悲壮な決意を胸に秘める復讐鬼を乗せたドローンは、闘争の渦に巻き込まれたプロメテウスの象徴的建造物を後にして、中層へと昇っていった。

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