1-30 Starlight Destiny

 痛みの代わりに精神的なダメージがあった。ラスティはますますの恐慌に陥った。

 知性宿す怪物でありながら、不用意にも喰らってしまったことに戦慄する。強靭無比な後肢から繰り出された、剛槍のような一撃。そこには、眼前の魔馬が持つ、野生動物に特有の冷たさがあるのを、ラスティは感じずにはいられなかった。

 込み入った事情など皆無な、ただ『邪魔だから排除する』という至極単純な生存理念が、魔馬の蹴撃には込められていた。人間にも、そういった虚無めいた理念の下で行動する者が、この都市には多くいる。問題なのは、それを人間が放つか、人知を超えた異形が放つかだけの違いにあった。

 起き上がろうとした時、腰の辺りに、鉄槌の一撃を喰らったような重い衝撃が走った。またもやいつの間にか、カイメラがラスティの側面へ、あたりの空気を置き去りにして一瞬のうちに移動し、畏敬の念さえ覚えかねないほどに美しく緑色に光る鋭利な一角を、脇腹へ突き立てていた。

 縮地法――呪的作用により距離を詰める稀代の呪技。カイメラの不可解な瞬間移動の種はそれだった。だがラスティはその原理に気づかず、逆に思い知らされていた。脇腹から血と火花を散らして露出する、断線したケーブルたちが告げていた。このままでは、無様に死体を野に晒すだけだという、残酷な未来を告げていた。

 そうあってはならなかった。絶対に何があっても。

 ルル・ベルのためにも。

 そう思えばこそ、熱情が滾り、反撃を試みようと意識するよりも先に、まだ無事な方の右手が武装展開していた。混じり気のない、それは本能的な行動だった。

 高周波振動ブレードの赤熱する刃を、手刀の要領で一角へ振り下ろす。だがラスティの出方を予想していたかのように、魔馬は、そうすることが最も必然な攻撃手段であるとでも伝えるように、ラスティの脇腹にめり込ませたままの一角を、力任せに真上へ振り上げた。

 豪速の放り上げ――高く高く――巨木から無数に生える細い枝葉を怒濤の速度で叩き折るかたちになった。金属の肌が枝葉を次々に擦る不快な感触と同時に、視界が塞がる。

 たまらず右手で目元をガードするも、他に成す術はない。そうしてついに、無様な滞空の頂点が、立ち並ぶ木々の先端を越えた。

 ラスティを放り出した位置よりもより高い位置に、カイメラが踊り出ていた。前肢を折り曲げて掴みかかるようにして、燃える悪魔の火の眼で睨みを効かす。

 有無を言わさない重力の引き寄せがラスティを襲う。高高度からの自由落下に伴う音無き恐怖が内蔵をひっくり返す。一気に血流が脳へ集まったせいで赤く染まりかける視界の中で、ラスティは歯を食いしばり、文字通り跳ね馬と化した魔馬の姿に戦慄した。

 追撃のための、あり得ないほどの跳躍――尋常の馬には決して出来ない芸当。一トン近いその超体躯を、さながら新体操の選手のように空中でいともたやすく回転。魔馬は、痛恨の一撃を放たんとした。

 鈍く銀色に光る、重量感ある斧を彷彿とさせる左の後肢。それが、かかと下ろしの要領で振り下ろされる。ラスティの眼前に、超速の勢いで偉大なる蹄が迫る。

 地面に叩きつけられる予感。刹那の間に、ラスティの脳裡で様々な思惑が逡巡した。今まさに己の身を粉々に打ち砕かんとする必死の一撃を前に、途方もなく絶望しかけた。

 だがその一方では、魂を叱咤する別の感情もあった。その証拠に、今まさに己の命を砕かんと迫る魔馬の左後肢から、断じて目を逸らすことをしなかった。

 怖じ気に震えている時ではなかった。

 圧倒的な恐怖のドミノ倒しは、本来なら対峙する者の心を完膚無きまでにへし折るはずだ。だがラスティの意識の火は、まだこの時になってもしぶとく消えなかった。

 諦めと抵抗が、ラスティの中で激しく摩擦して拮抗し合い、それは高密度のせめぎ合いの果てに散り、新たなる境地へ彼を押し上げた。

 意識が恐怖の臨界点を越えたという自覚もなしに、彼はこの流れ・・・・を理解し始めていた。研ぎ澄まされた意識の先端が、捉えるべきものを捉えていた。

 未だ暗く閉ざされた空――空気が磨き抜かれているように感覚された。自分でも不思議に思えるほど、長い時間が経過していると錯覚した。

 恐怖の限界を超えた先に通じる、幻惑のような臨死体験がもたらしたのがそれだった。スローモーションで迫る魔馬の蹴撃を、どう防ぐかではなく、どう打ち砕くかに、全神経が集中していた。

 なぜ打ち砕かなくてはならないのか。なぜ勝たなければならないのか。己の存在理由を意識とは無関係のところで脳裡が弾きだし、それはすべて『誰かのため』という一点に帰結した。

 即答――生まれて初めて手に入れた無償の奉仕精神を実現させるために他ならない。

 全ては、ルル・ベルを解放するために。

 その一念の下に、恐怖を越えた精神の頂きに立って、

「おおおおおおおおおおおおおおおっっっ!」

 生まれて初めて放つ、何者にも打ち砕かれない勇壮な雄叫びと共に、現実を捻じ曲げる。

 ――歪視ワーピング

 大気を激しく攪拌する異能の牙が、それまで他を寄せ付けずにいた呪的物理障壁の一点を噛み砕き、銀色の死光を放つカイメラの左後肢を存分に引き裂いた。偶然という名の川底から拾い上げた、それは必然という名の一手だった。

 魔馬の逞しい膝から下が、血と肉と骨の破片となって空中に飛び散り、困惑と憤怒をない交ぜにした獣の咆哮が夜天に轟いた。

 一矢報いた。あの無敵とも思える呪いの障壁を、ついに破壊した。

 事実を内心で噛み締め、図らずとも喜色に打ち震えながら、ラスティはすでに次の行動へ移っていた。近くの巨木へ右手のブレードを叩き刺し、落ち往く体にブレーキをかけ、この勝負の流れを殺さまいと、次に自分がやるべき手段を選択し始めた。 

 だがその一方で、カイメラの真に恐ろしい面が、獰猛な唸りを上げていた。それは破れかぶれの悪あがきではなかった。あらゆる生物系統の頂点に立つ者としての、狂暴な傲慢さがもたらした行動だった。

 宙でバランスをとりつつ、地表を砕かんと直行する隕石めいて迫る。カイメラの決死の突進降下。その象徴=灼熱に燃える太陽のように真っ赤に遷移した一本の角。

 己の全存在を攻撃に転化したかのような、その生ける魔槍の一撃が、壮絶な気配を察知して振り返ろうとしたラスティの鋼鉄の背中を、凄まじい速度でぶち抜いた。

「がっ……はっ……!?」

 不快な呼気が塊となって喉をせり上がってきた。背面からの決定的な串刺し。

 重力に引かれて宙を駆け降りる魔馬の力と、それが生み出す強烈な空気抵抗に圧されるがまま、地面に叩きつけられるラスティ。

 だがカイメラは追撃をしなかった。それほどまでに、歪視ワーピングの威力を恐れていた・・・・・。深々と突き刺さった角をずるりと引き抜くと、一時的に獲得した有利性を放棄するかのように、残る三本の足で大地を蹴って後退した。

 足を一本失くした程度では倒れぬと言わんばかりの態度だった。激突の際に負ったダメージで視界がぼやけるが、ラスティの感覚はクリアで、正しく自分の身に起こった状況も相手の状態も観察できていた。だがそれでも、あまりの光景に愕然となった。足を一本奪ったところで、大したダメージがない事実に圧倒されかけた。

〈まつろう民が、やってくれるではないか〉

 血と体液で粘ついた赤で上塗りされた一本角を得意げに振り回しながら、しかし、魔獣の息は荒れていた。狂犬病に罹ったかのように緑色の瞳をギラギラと光らせ、口の端から重い涎を垂らす様は、確かにダメージが効いていることの証だった。

 それはまた、ラスティも同じだった。土手っ腹に開けられた深い傷口からは、血が溢れ、ときおり火花が散り、人工大腸が断線したケーブルのように露出していた。

 だが痛覚を完全に閉じた状態であるからか、自分でも恐ろしいほどに、死に片足を踏み込んだ状況を客観視できていた。それが命の終焉を前にした人間として正しい振る舞いなのかどうかは分からない。ただ、今はそうする必要があった。たかが腹に穴を開けられた程度で、気を失う訳にはいかない。

 重要なのは、恐怖を抱いてはならないということだった。恐怖を意識してはならなかった。カイメラへ抱く恐怖心そのものが、あの強靭な呪的シールドの二層目を構成する要素に他ならない。死線の断崖で交わした凄絶な闘いから、そのことを学び取っていた。

 人が抱く恐怖を自らに伝染させて、呪いの力を増す。感染呪術ヴァイラスの一種。それこそが、カイメラをカイメラたらしめる根源に相違ない。

 怒りの蹄が、死闘の坩堝と化した楽園の大地を踏みしめる。異形の口の端から、熱っぽい吐息が漏れた。その何気ない動物的所作が意味するところを、立ち上がりざまにラスティは見逃さなかった。次に相手が打ってくるであろう攻撃の手段を、極限の集中力の下で確信していた。

 魔馬の口から、秘奥の極致にまで凝縮された致死級の呪詛の言霊が、音の連なりとなって吐き出される。そのコンマ数秒前に、ラスティはそれを、ぽんと投擲していた。腰に巻いた軍用パックから、いつの間にか滑らかに取り出したる、円筒型のアルミ容器を。

 音響閃光爆弾――スタン・グレネード。

 大陸間戦争時に使われていたタイプを非圧力式に改造したそれは、いわゆる小型の気化爆弾だった。点火により内部から散開するアルミニウム粒子が、まるで大型の鳥が飛翔のための羽を広げるかのように、辺りに灰色の膜を張り、空気中の酸素と結合した。たちどころに発火・燃焼を引き起こし、凄まじい勢いで音響パルスと閃光を生み出し、視界の全てを白輝に染め上げた。

 言霊は不発に終わった。音響パルスで空気を激しく攪拌されてしまっては、言葉の意味は無効化される。音の伝導原理。それに則った作戦がいま、好機を生み出していた。

 カイメラが、ここに来て一番の甲高いいななきを上げた。

 重傷の体を駆動させ、ラスティは屹然と目を開くと、助走をつけて突っ込んだ。そして、走り幅跳びの選手がごとく、距離を正確に見計らって跳躍した。

 揺るぎない意志の下に構えられた右腕の高周波振動ブレードが、目に見えない呪的物理障壁の一点を再び突き破った時には、すでに時の流れは五秒を消費し、音の乱れは沈静化していた。

 カイメラの巨大な頭部にへばりつきつつ、ラスティの右腕は、確かな手ごたえを感じていた。

 魔馬の右眼。悪魔の火に燃える緑色の眼球を、赤熱するブレードが深々と貫いた。水晶体が蒸発し、眼底骨が砕け、その切っ先は遂に頭蓋を破断し、脳にまで達しようとしていた。

 そのまま押し込もうと力を込めた時――予期せぬことが起こった。

 カイメラの口が動いたのだ。赤黒い歯茎を歪に歪ませて、それは確かに動いた。

 と次の瞬間には、ラスティの人工の心臓が凍りついたように脈動を止め、全身の力が根こそぎ奪われていった。機械仕掛けの体が明らかな変調をきたしていた。

 泡を吹く代わりに、たまらず盛大に吐いた。胃の内容物――数時間前にルル・ベルと食べたステーキ・セットが――魔馬の凶悪な面を汚し、酸っぱい匂いが辺りに漂った。

 勝ち誇るように、魔馬が低いいななきを上げた。

 防御を捨てて攻撃に打って出たのは、なにもラスティだけではない。相手も同じだった。眼球を貫かれ、頭部に致命的な損傷を受けて、だからこそカイメラは激しい苦悶の声を漏らすのを耐えに耐え、攻撃を放った。言霊という名の攻撃を。

 この、生まれながらにして呪われた魔馬が最も得意とし、最も磨き上げてきたその呪詛攻撃は、ただしくラスティの命を、即死の呪言で葬り去るはずだった。

 そのはずだった。

 一度は力の抜けたラスティの右腕。それに備え付けられた赤熱の刃が、今度は左の目を穿ち抜くまでは、そうカイメラは確信していた。

〈ひぎゃあああああああああっっっ!?〉

 緩み切った心に突き刺さった分、激痛は壮絶さを増し、無条件で脊髄が反射した。

 動物には似つかわしくない、実に人間らしい壮絶な雄叫びだった。それでいて、劣化して伸びきったゴムのような、長い長い悲業の轟きだった。

 重みのある涎をでたらめに撒き散らしながら、叫びは魔馬の太い喉奥から絶え間なく迸った。振り解こうと、滅茶苦茶に三本の剛脚と巨大な体躯を暴れさせたが、西部劇の逞しいカウボーイよろしく、ラスティの右手は決して、いまの位置から動こうとはしなかった。

〈何故だ!? 何故死なない!? 貴様、何故!?〉

 恐慌――それまで経験したことない体肢の震え。言霊という名の絶対の矛が破られた事実と、生まれて初めて経験する盲目がもたらす真の暗闇を前にして、怯えが全身の神経を蟲のように這いずり回り、魔馬の理性を慄然とさせた。

 しかし、訳が分からないのはラスティも同じだった。吐瀉物を撒き散らした直後、確かに視界が暗転する感覚はあった。だが気づいた時には、こうして再び活力を取り戻し、痛打を放っている。

 パキン――と、ラスティの胸の辺りで、決定的な何かが破断した感触があった。

 目を向けるまでもなかった。途端に懐かしさを覚えると同時に、こみ上げてくる郷愁の念を感じすにはいられなかった。もう二度と取り戻せない事実を噛み締め、そして感謝した。心の底から。

 God Bless You――あなたに幸あれ――それが全てだった。

 母からの最初で最後の贈り物。それは何時だって、彼を

 薬物に溺れながらも、それでも息子を愛していたことの証拠だった。文字通りの意味がそこに内包されていた。母の愛情が、ネックレスに刻んだ刻印が、長く暗い時を隔てて、言葉に宿した通りの意味を現実に及ぼしていた。

 母の愛が言霊となって、ラスティを魔馬の言霊から守ったのだ。

 死と生の境目に立つ今のラスティにとって、それは本当に、決定的な精神の更新点だった。役に立たないと思っていた過去の体験が、別の輝かしい体験へ意味を変転させたのだ。

 それが、ラスティの覚悟の火を、炎とも呼ぶべき猛然たる勢いへ育て上げ、それが結果的に、混乱に呑まれながらも再び言霊を吐こうとするカイメラの巨大な口へ、折り曲げた右膝を蹴り込むだけの勇敢さを生んだ。

 太いエナメル質の塊が衝撃で何本か折れ散った。歯茎からどす黒い血を滴らせ、くぐもった声を漏らしながら、魔馬が構わず上顎と下顎に万力を込める。鋼の甲装に少しずつ刻まれていく亀裂。

 だが、右足の外皮硬度が限界を迎える前に、ラスティは自身が持ちうる最大の飛び道具を――己の意志を発射した。

 爆音が、楽園の片隅を切り裂いた。

 外装埋込式M330擲弾てきだん――ブレス・ショットの決死的発射=圧倒的破壊力の顕現。灼熱の予感を抱かせながら、右膝から飛び出した鋼鉄の榴弾。圧倒的な焼熱ブレスのパワーが、カイメラの口腔内を、頚椎を、心臓を、背骨を、大腿骨を、それらを覆い尽くす筋肉という筋肉を、内側から一瞬で吹き飛ばした。

 同時に、ラスティの身にのしかかる超重の反動。カイメラの歯に上下方向からプレスされたままの右大腿部が、衝撃に引きずられるがまま、膝下から破断した。

 ラスティは無様にもその辺を転がることになった挙句、近くの巨木に背中から激突した。鈍い衝撃で視界がちかちかと明滅するも、なんとか視線を凝らして結果を確認。

 そうして、安堵したように溜息をついた。

 後に残ったのは、重く広がる血肉の塊と、根元から爆ぜ折れた、魔馬の死に絶えた首が横たわっていた。

 終わったのだ、という実感が夢遊病のように心に降ってきた。

 起き上がる気力はどこにも残されていなかった。

 結果として、奇蹟的に勝ちを拾えたが散々な有様だ。帰還のための禹歩発動に必須となる左腕は原型を留めないほどにひしゃげ、右腕のブレードはぽっきりと折れている。

 右膝から下は断線した神経や炭素鋼材製の骨が露出し、下腹に開けられた大穴から滴るそれと足下で合わさり、血と油の水溜まりをつくっていた。

 ただの人間なら、あの一本角で串刺しにされた時点で確実に死んでいる。全身義体者であるからこそ、こうしてなんとか意識を保っていられるだけ、幸福だと彼は思った。

「……帰ら……ないと」

 言って、気力を振り絞るために調息を試みるも、上手くいかない。ひゅうひゅうと声にならない息が続いた。

 それでも頑張って胸に力を込めようとした時、怒濤の勢いで吐血した。

 げぇげぇと逆流する胃液もろとも吐き出した。胸元の鋼が、真っ赤に染まった。

「ああ……ちくしょう……」

 視界が霞む。痛みを感じないぶん、命の灯がいつ消えるのか分からない。

 しかし不思議と恐怖はなかった。自分はやり遂げたんだという、黄金の微睡のような達成感だけが、彼の心を満たしていた。

「やったぞ……俺は……ルル・ベル……」


 約束をちゃんと果たしたんだから、しっかり生きろ。


 祈りを脳裡で唱えて、ふと上を仰ぎ見る。

 上層域の地盤に取り付けられた人工月球が放つ無機質な光も、今では痛いくらいに目に刺さる。

 しかし、少しだけ視線を横にずらしてみたとき。ラスティの曇りゆく眼に映り込むのは、また違う輝きを持つ何かだった。

 煌めく白い何かがあった。遥か天空。闇に覆われているはずの世界のはずなのに。

「……あぁ、そうか」

 呟くと同時に、すとんと納得する。

 ここは中層域で、だから少しだけ、本物の空が見えるのか。

 貴重な機会だ。もっとこの目に焼き付けようと、体を少しだけずらす。だが思うような筋肉操作ができず、そのまま横に倒れた。首だけを辛くも動かすと、上層の地盤が途切れた向こう側に、ようやく本物の闇が見えた。そこにきらきらと輝く、何点かの本物の白い輝きも。

 ラスティは、眩しそうに目を細めた。


 あれが、星か。


 子供の頃に見た写真のそれではない本物の星を前にして、ラスティは胸の高鳴りよりも、ちっぽけな自分の有様を意識せざるを得なかった。

 都市は巨大だ。人ひとりがその仕組みを完全に理解するには、あまりにも複雑すぎる。誰が利を得て誰が損をしているか。都市の全容を詳細に把握できる者など、いないんじゃないのか? あのディエゴとかいう老人ですらも、知っているのはごく一部の事だけなような気がする。

 でも、仮に都市の全てを知っている者がいるとして、だからどうだと言うんだろうか。こうして夜空に浮かぶ星々を眺めていると、そういった事すらも、とてもちっぽけなことに思えてくるから、ラスティにしてみれば不思議だった。

 自分がそれまで、どれだけ視野の狭い世界で生きていたか。まざまざと痛感された。けれども、去来するのはやるせなさではなかった。

「あれって、何万年も前に死んだ……惑星の光なんだよなぁ……」

 死んでからも、ああして力強く輝ける存在になりたいと、いまなら思えた。

 全員にとってのではない。自分が心の底から守りたいと想う、ただ一人のために。

 その子のために、送るべき言葉があった。

 自分が母から貰った言葉を、今度はその子に届けるのだ。

 いつの日か。どんな形でもいいから。

「あ……」

 夜天を泳ぐ一筋の白い軌跡を認めた時、思わずか細い声が漏れた。

 子供の頃に、父が買ってくれた天体図鑑に、それが書いてあったのを思い出した。

 蒼白い火をまといながら、果敢にも太陽に挑むようにして飛ぶ、彗星の矛についての記述を。

「流星……願い事……」

 何にしようかと考え、まぁ、ゆっくり決めればいいかと思案しながら。

 ラスティの意識は眠るように、永遠の微睡の中に没した。

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