1-25 軋む希望
遡行――十数分前のこと。
館は何度見回しても広々としていて、そのせいで空虚感が一層強まっている。沈黙は長いこと滞留を続け、重々しさを増すばかりだった。今のラスティとルル・ベルの心境を顕すかのごとく。
事態をどう転がして観察してみても、有効な手立てはやはり、一つしか残されていない。
――カイメラを殺す。
随分と現実離れした選択だとラスティは思った。キュリオスに向かって強気な発言をしたは良いものの、改めて思うに、まるで不可能な話だ。
カイメラを殺す――そのフレーズを脳裡で繰り返せば繰り返すほど、地に足がついていない感覚に陥る。おとぎ話に出てくる怪物を倒そうとしているようなものだった。
「ラスティさん」
ガラスのテーブルを挟んで向かい合う二人のうち、一人が暗い面差しのまま口を開いた。
「いま、何を考えてるの?」
「逆に訊くが、君はどうなんだ」
ラスティの切り返しに、ルル・ベルは俯いたまま、呟くように答えた。
「馬鹿なことしたなって。それだけ」
「……馬鹿なこと、か」
「……はい」
花が萎れるように、ルル・ベルは小さく背中を丸めた。それまで、どこか事態を楽観視していた彼女も、さすがに堪えて意気消沈としている。心なしか、青ざめているようですらある。
ラスティは、ルル・ベルの姿をじっと眺めた。そうしているうちに、だんだんと彼女が『何か』を背負い込んでいるように見えてきた。その『何か』の正体は、これまで彼女自身が選び取ってきた道の一つ一つに違いなかった。
カイメラの出現を観測した時に、咄嗟に尻尾を巻いて逃げなかったことを悔いているのか。
子供の論理――すべてがその一言で集約できた。
相手を喜ばせたいという一方通行の感情が、当の本人をとてつもなく苦しめていた。そして、よりにもよって最悪なことに、自らの命を繋ぎ止める為に残された最後の手段が、命を賭けても掴めるかどうか、確証がなかった。
「あ」
ふと、大事な約束事を思い出して、ルル・ベルが顔を上げた。視線が合う。逃げるようにルル・ベルは少し睫毛を下げ、それから再び顔を上げた。
「ラスティさん、これ、受け取ってよ」
ルル・ベルは薄手の耐環境コートのポケットから、長方形型の金属プレートを取り出した。すみに、
光沢にきらめく表面をルル・ベルの白い手が撫でると、重い電子音と同時に入力画面の
「上限は一億ゼニルまでだけど、好きな金額を入力していいから。ラスティさんの口座番号も記してね。サインを書いてから二十四時間以内に、わたしの個人口座から自動的に支払われるようになってるから」
「どういうことだ?」
ラスティが眉根を寄せ、少しの怖さを孕んだ声で尋ねた。迫力にやや気圧される。それでもルル・ベルは、困惑を覚えながらも、素直に気持ちを吐き出した。
「どういうことって……なんで? そのままの意味だよ。依頼は、私を呪学療法士のところへ連れて行ってほしいって内容だったでしょ。ラスティさんは、しっかり仕事を果たしてくれた。だから報酬を支払わせてもらう。ただそれだけだよ」
最後の方は、笑みを浮かべていた。どう見ても愛想笑いであった。だが、強がるのは止めろとは言えなかった。何かを口にするべきなのに、何も言えなかった。いま、どのような言葉を口にしても、ルル・ベルの弱った心を傷つけてしまいそうで。彼女に対して、臆病な自分をラスティは自覚した。
「色々と、お世話になりました」
律儀にも
ここで、わたしとあなたの縁は終わりであると。ここから先はわたしの問題で、だからあなたを巻き込むわけにはいかないと。
ラスティは沈黙を貫いた。その目はルル・ベルの、年相応に細い肩へ注がれていた。わずかではあるが、小さく震えているのを見逃さなかった。
その震えを認めた瞬間、彼の中で心は決まった。
ラスティは、残された右手で小切手を手に取った。
そして、興味を失くした玩具を捨てるかの如く、後ろへ放り投げた。躊躇なく。迅速に。
床を乱暴に叩く金属プレートの音を耳にして、驚きもあらわにルル・ベルが顔を上げた。
「ラスティさん!? なにを――」
「駄目だ」
厳しい顔つきのまま首を横に振る。
「一億じゃ、足りなかった?」
整った眉をハの字に寄せて、泣きそうな顔で勘違いを口にするルル・ベルに向かって、ラスティは至極真面目な調子で言った。
「金の問題じゃない。納得できるかどうか。それだけだ」
「納得って……だって、お金がないと手術、受けられないんじゃ……」
それは、確かにその通りだった。金を蓄えて手術を受け、過去の記憶を消去する。それがラスティの願いの全てだった。小切手を手にした段階で、今までの彼ならまず真っ先に電卓を脳裡で叩いていただろう。
だが、それは昔の彼だったらの話だ。これまでのたったの数時間で、ラスティの心は変革を遂げていた。優先順位がガラリと変わっている。自分でも驚くべきことに。
喪ったものを、取り戻してあげたい――かつてはラスティ自身も、心のどこかでそれを願っていた。それを一時の気の迷いとして処理し、勇気ある一歩を踏み出せなかった自分と違って、ルル・ベルはどこまでも正直だった。己の心に対して。
そんなひたむきな姿勢を目にした今、このまま終わっていいはずがなかった。手を打つことを諦めて無理矢理に幕を下ろし、ルル・ベルの魂が消失するような事態になるのだけは嫌だった。納得できようはずもなかった。
「とにかく、この金は受け取れない。何とかして君の呪いを解かない限りは」
「でも……」
「カイメラを倒す。実現不可能に思えるが……キュリオスの奴からもっと情報を引き出せば、勝ち目は見えてくるはずだ」
居ても立ってもいられず、ラスティは椅子から腰を浮かした。キュリオスはあれだけ大見えを切っていたにも関わらず、まだ戦闘を終えてはいないようだった。
「あいつ……何を手こずっているんだ?」
右手で顎をなぞりながら、苛々とした響きを言葉に乗せた。
「……あ」
ルル・ベルが、何かに気づいたように大きく目を見開いた。おもむろに立ち上がり、導かれるように視線を窓の外に向ける。
呪蘇儡人の軍団がさっきからずっと館の守りを固めているせいで、外界の様子は伺い知れない。だが確かに、ルル・ベルは感じ取っていた。
「僭主様……」
「なに?」
「僭主様がすぐそこに来てる! わかるの!」
言葉の勢いそのままに、ルル・ベルはドアを開けて外へ飛び出していった。
「おい! 待て!」
慌ててラスティも後を追った。
走り出した先で二人が目にしたもの。それは、力なく地面にうつ伏せ気味に横たわったキュリオスと、勝ち誇るように仁王立ちの姿勢でいるオレイアスだった。その白い陶器めいた指先からは、記憶を抽出するための、あの赤い糸のようなものがぶら下がっていた。
「ッ……キュリオス!?」
事態を瞬間的に把握したラスティが、右腕を展開して刃を現出させる。
まさかキュリオスが敗北するとは。彼の中では計算外のことだったが、こうなった以上、やるしかないと肚をくくった。その時だった。
「駄目! ラスティさん!」
ルル・ベルが必死に叫びつつ、両手を広げてラスティとオレイアスの間に割って入った。
「何をするんだ!」
「ただの
「なに!?」
怪訝な表情を浮かべるラスティを無視して、ルル・ベルはオレイアスへ向き直ると、片膝をついてうやうやしく頭を垂れた。常勝無敗の将軍を前にした一兵卒のように。
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