1-21 絶望、あるいは光明

 ――無言の間。

 ルル・ベルの血のように赤い瞳は隠しきれない動揺を帯びながらも、キュリオスのオッドアイをじっと見つめ返し、そこからどんな言葉が新たに飛び出てくるかを待ち構えている。だが、どれだけそうしていても、稀代の呪学療法士の口は閉ざされた門としてそこに在るだけで、ルル・ベルの望む道を示してはくれない。

 全力は尽くしたが、どうしようもなかった――言葉なき主張をキュリオスの表情から感じ取ってしまった途端、ルル・ベルの硬質な肌が怖気さに粟立った。足下が虚無に包まれたようだった。必死に縋りついていた僅かな希望が水泡に帰したのだ。真っ暗な海の底に沈んでいって、このまま気を失ってしまうのではないかとすら感じられた。

「完治はできなくとも、呪いの進行を遅らせることぐらいは出来るだろう?」

 そこで助け舟を出したのはラスティだった。不治の病に侵された娘の治療法を探ろうとする親のような素振りで。

「推定でしか話せないが、頑張ってもおよそ一ヶ月。それ以上は、いくらあたしでも無理だ」

 手元でパイプを弄り、つまらなそうにぼやきながらも言葉には断定の響きがある。それでいながら、キュリオス自身の心境はどこまでも曇っていた。救いを求めて訪れた少女に、与えざるを得ない回答の残酷性を強く意識しているばかりか、それを自らの口で説明せねばならない現状に口惜しさを抱いているのは確かだった。

「呪戒の解呪は言霊の構造を解体するところから始まる。つまりは、言葉が何から成り立っているかを理解する必要があるということさ。言葉を形成する要素は三つ。すなわち、統語論、意味論、語用論だ。言霊が言葉による呪的行為である以上、この三つは必ず有している。お嬢さんに仕掛けられた呪戒が非常にやっかいだったのは、このうちの意味論セマンティックな部分でね」

「具体的にどうだと言うんだ?」

「意味論ってのは、言葉と事象との関係性を明確にすることで、どのような場合に言葉に含まれる意味が真であるか、偽であるかを確定する論理でね。つまり呪術的に言うなら、呪戒と、その呪戒が作用する被呪対象者とを結びつける言語的関連性を探り、こいつを意味的に破壊してやりさえすればいいんだが、そんなことをすれば、今度はお嬢さんの自我が破壊されちまう」

「わたしが、人間とアンドロイドの中間体だからですか」

「そうだ。存在がどっちつかずのあんたは、実に『曖昧』だ。無理に解呪を施せばアイデンティティーが喪失して廃人になっちまう。ところがカメイラの言霊は、その曖昧なあんたを一つの事象として断定して、意味論的に呪いとがっしり結びつけている。だからこそ呪戒が発動しちまっているわけだが……そもそも、曖昧な事象を特定の意味の下に世界に根付かせる言葉なんて、本来ならありえない。曖昧さを曖昧なままに確定するなんて、矛盾した響きだからね。温度や湿度に左右されない蜃気楼が存在しているのと同じで、まったく現実的じゃない。それをいとも容易く実現させるんだから、まったく、カメイラってのは本当に怪物としか言いようがないよ」

「それなら」

 ラスティはめげずに、体を前のめりにして訊く。

「彼女が早く本物の人間になってしまえば、曖昧な存在ではなくなるわけだ。その状態なら解呪できるはずだ」

「いい線を突くねラスティ。あたしも最初はそう思ったさ。だが調べていくうちに、それも無理だということが分かった」

「なんだと?」

「この呪戒はお嬢さんが人間になった瞬間に、抗体を覚えたウイルスのように意味を変質させ、即時発動するタイプのものでね。当然、今の曖昧な存在状態でも……そう長くはない。言わずもがな、魔導式を行使した場合は、急速に寿命が縮まり、お嬢さんの意識は完全に消滅する。全方位に隙がないんだ」

「つまり、わたしは……」

 そこから先に続けるべき言葉は、しかし少女の胸に沸く恐怖によって圧し潰された。見えない強靭な壁はルル・ベルを四方から取り囲み、選択を迫っていた。たった一つの選択を。それがどれだけの孤独と暗黒に満ちているか、生者は決して知ることはなく、ただ死者だけが知っている。

「呪戒の効果に齟齬を生じさせる呪言を封じ込めて、症状の進行を遅らせることはできる。それでも、もって一ヶ月だ。それ以上は伸ばせない」

「呆れる話だ」

 ラスティが投げやり気味に言った。明らかな苛立ちが込められていた。吐き出した言葉の勢いそのままに椅子に背中を預けると、皮肉の一つを漏らす。

「失望させてくれるな、キュリオス。人蟲の力というのは、どこで何しているか分からない不審者の呪いにすら負けるほど、たいしたことないものなのか?」

 さすがのキュリオスも、その無神経な売り文句は少々しゃくにさわったようだった。チッと舌打ちをして、毒づく。

「被害者意識で言うんじゃないけどね、あたしだって好きで人蟲になったわけじゃない。力があれば誰かを救えるなんて、そんな都合の良い世界じゃないんだよ、ここは。それくらい、あんただって分かっているはずだ」

「だったら、このまま諦めろというのか」

「それを決断するのはお嬢さん次第だろうよ。世話焼きおじさんは引っ込むに限るね」

 静かな睨み合い。そこに当事者たるルル・ベルの立ち入る余地はない。険悪に沈む両者を、ただじっと、何とも言えない目つきで眺めている。その目つきが、それとなくラスティとキュリオスの心に刺さったせいだろうか。不毛な論争に耽っていた二人は、どちらからともなく口を閉ざした。

 ラスティは視線を下げ、キュリオスはそっぽを向き、ルル・ベルの視線は虚空を射止めていた。三者の視線は自ずと交わるのを拒否していた。誰しもが、現実の非情さにどう向き合えば良いか、分かっていなかった。

「解決策がないこともないけどね」

 しかしそのような状況にあって、先に口を開いたのはキュリオスだった。彼女が吐き出した、希望を匂わせるかのような言葉に機敏に反応したのは、意外にもルル・ベルではなく、

「教えろ」

 ラスティだった。

「単純な解決策さ。ひどく単純で、ひどく難易度の高い解決策」

「もったいぶるな」

 食らいついた大物を逃がさない釣糸めいて、ラスティの声は緊迫感に満ちていた。キュリオスは車椅子の角度を少し調節すると、ラスティの視線と己の視線とを交わらせた。

「カイメラを殺す。術者が死ねば、呪戒は消滅する。古今東西、昔からある、力づくのやり方さ」

「……と同時に、俺にぴったりのやり方でもあるな」

 強気な発言ながら、その顔に余裕の色はこれっぽっちもなく、強張りだけがあった。無理も無かった。話に聞くだけで強大極まりないカイメラを自力で殺すという行為が、どれだけ現実離れした考えであるか、ラスティ自身がよく分かっている。

 彼だけではない。呪術の優れた使い手であるキュリオスも、実際にカイメラと対峙したルル・ベルにも、それが『実現不可能な解決策』であることは、悔しい事に、痛いほど分かっていた。

 しかしながら、ルル・ベルが生き延びるための術は、不本意なことに、もうそれしか残されてはいないのだ。

「もしも神様とやらがいるんだとしたら、きっとソイツは、とんでもない嗜虐癖の持ち主なんだろうね」

 キュリオスの愚痴のような独り言を耳にして、ラスティは思わず鼻で笑った。

「言った先から後悔するくらいなら、最初から言わなければいい」

「……そうなんだろうけどさ」

「だが耳にして良かった。光明が見えてきたな」

「……光明が見えただって?」

 キュリオスは、驚きと失望が入り混じった顔でラスティの姿勢を詰った。それから、正気の沙汰の発言とは思えないと暗に仄めかすようにして、大仰に溜息を吐いた。

「どこが。真っ暗だよ。あんたはカイメラの恐ろしさを知らないから、そんな事が言えるんだ」

「遭遇したことがあるんですか?」

「昔に一度ね。でもすぐに逃げたよ……臆病者とは言うまいね。お嬢さん」

「はい。わたしも同じですから」

「立ち向かわなかっただけ利口だよ。ラスティ、よく聞きな。カイメラを殺せる奴なんてこの都市にはいないんだ。このあたしを含めてもね。馬鹿げた考えは――」

 続く言葉は、館の壁越しに響く地雷の炸裂じみた轟音によって、一瞬で掻き消された。

 音の大きさからして此処との距離はそれなりにあるが、断続的に耳に届くそれは、意識の外へ流れかけていた驚異の到来を、まざまざとルル・ベルとラスティに思い知らせてきた。

 ラスティが不意に立ち上がる。ルル・ベルは弾かれたように首元のチョーカーへ手を当てがった。これまでその身を隠し通してきた魔導具(マカロン)は、ついにその効果時間を終えてしまっていた。すでに、こちらの位置が敵方に感知されていると見て間違いない。

「ほうら、ごらんよ」

 窓の外で盛大に吹き上がる炎と光を目撃して、キュリオスは、本当につまらなさそうに言ってみせた。

「どこぞの魔導機械人形マギアロイドも、馬鹿げた考えはよせと忠告してくれているようだ」

 ショーの始まりを知らせるように、キュリオスは右手の指を軽く弾いた。その乾いた音色を合図に、壁に吊るされていた何十体もの呪蘇儡人が一斉に覚醒の時を迎え、まるで掃除機の口に吸い込まれるかのように、天井に穿たれた煙突を通って、次々に館の外へ飛び出していく。

 最後の一体となった保衛魔導官アヴィニヨンを、完膚なきまでに叩き潰すために。それで、救いがもたらされるわけではないと分かっていながら。

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