ダルデンヌ兄弟『ロルナの祈り』
どういう映画から映画を観始めるか、は結構重要なのではないか。山を降りる時、頂上から降りようとして分かれ道がそこにあるとする。その分かれ方は些細な分岐かもしれない。だが、降りる内にその分岐は重要な意味を帯びることになる。何処に降りるかが決定的に変わってしまうからだ。
私は映画を観始めて間もない頃に、ケン・ローチとこのダルデンヌ兄弟の映画を薦められた。ゴダールでもキューブリックでも、トリュフォーでもヒッチコックでもなく、黒澤や小津でもなく。それで、ケン・ローチに関して言えば『ケス』『SWEET SIXTEEN』を観てその豪胆さに唸らされたし、このダルデンヌ兄弟に関しても『ある子供』を観始めて(何故かど田舎のレンタルDVDのお店にはこの一枚しかなかったのだ)、やはり唸ってしまった。その唸りはしかし、ダルデンヌ兄弟に関しては「傑作を観た」という畏敬の念ではない。むしろ「自分は試されている」という試練を感じたのだ。
『ある子供』がファースト・コンタクトだったからか、ダルデンヌ兄弟の映画はそれ以降も観て来て色々考えたつもりなのだけれど、この『ロルナの祈り』も『ある子供』に相通じるものを感じてしまった。このあたり、乏しい映画的知識から語っている身なのでご寛恕願いたい。ストーリーは敢えて粗略してはいけないだろう。どんな前知識も有しないで、むしろ素直に観た方が良い。「一体この人物は誰なんだろう」「一体この台詞にはどんな意味があるのだろう」と、突発的なストーリー展開に「?」を抱きながら観れば良いかなと思うのだ。
裏返せば、「?」こそダルデンヌ兄弟の持ち味、ということになる。説明を省き、無駄を排して絞りに絞った言葉で状況を立ち上がらせる。それはヘミングウェイの小説にも似た――尤も、私は彼の小説は苦手なので短編しか読んでいないが――感触を抱かせる。氷山の一角を見せることで敢えてこちらに想像の余地を残すこと、解釈の余裕を持たせること、観衆としての想像力や知識を試すことに腐心していると思われるのだ。私自身ベルギーに対する(広く括ればEUだろう)知識はまるでなかったので、ド素人なりにこの映画が炙り出そうとしている貧困や女性の孤独、ドラッグと裏社会の生々しさに唸らされた。
ドキュメンタリー・タッチ、という言葉がある。ダルデンヌ兄弟の映画を表現するにあたって、この言葉こそが相応しい。それは『午後8時の訪問者』や『サンドラの週末』、『少年と自転車』といった作品群でも変わることはない。そこで起きていることを、そこで起きているがままに描く。ラース・フォン・トリアーの手法を連想させられた。いや、広く括れば「ドグマ95」の手法ということになろうかと思うのだが、そこまで私は映画について詳しくないし、トリアーのような悲劇の余韻もこれ見よがしなカメラワークも期待してはいけない映画なので、ここでまた私の頓珍漢が露呈してしまう。
例えば、この映画では女性がビンタされる。柱に頭をぶつける。暖炉に火を熾す。屋外で放尿する。そういったものを、下品になることなく、しかし上品になることなく……いずれにしても劇的に――敢えて言えばここがトリアーとの相違か?――なることなく、撮られる。そこにあるものを映して差し出す……これはなかなか勇気の要ることだ。ナマの食材を渡して、食材それ自体のフレッシュな味を堪能して欲しいと願うのだから。調理すれば幾らでも美味しく出来る材料/素材をポンと差し出す。それがダルデンヌ兄弟の果敢さだろう。
だが、それは何処まで成功しているものか、とも思わされた。幾らなんでも、この劇的さや派手さのなさは素直に肯定して良いものかどうか、と考えあぐねたのだ。先に書いたことと矛盾するが、ストーリーを書くとドラッグでジャンキーになった夫と離婚して慰謝料を得ようとする――夫も同意の上で!――女性の話なのだけれど、回想シーンが挟まれない。だから彼らはどんな生活を歩んで来たのか分からない。そして、今どんな生活をしているのかも一筆書きでサラリと描かれるだけだ。裏社会との住人のつき合いに関しても、女性(ロルナという名のヒロイン)の魅力に関しても、すっぴんをそのまま見せられているようで、確かに素顔の魅力は認めるにしても限度があるのではないか、と。
要するに、美人はすっぴんをそのまま晒しても美人になる、というわけではないと私は考えてしまうのだ。自分の魅力を知り(それは即ち、欠点を知ることでもあるだろう)、その魅力を魅せるためにどうするか。その創意工夫を、それとは感じさせず、つまりあざとくなく魅せるのが例えばケン・ローチのやり方ではないだろうか、と思わせるのだ。ケン・ローチの作品がなんだかんだ言って面白いのも、やはり音楽に頼らず回想シーンも用いないが、その分人物同士の交流を丁寧に描いていて、ポンとキャラを立てることに成功しているからだ。
そう考えると、あまりダルデンヌ兄弟の映画は私と肌が合わないということでファイナル・アンサーということになってしまう。だが、この監督の次作も私は観るだろう。ここまで果敢に社会を「すっぴん」のまま描く監督は、良かれ悪しかれなかなか居ないからだ。彼の映画の凄味を知るためには、もっと私も勉強すべきかもしれない。
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