スーザン・ジョンソン『マイ・プレシャス・リスト』
賢い、とはどういうことなのだろう? 個人的な事柄、映画と関係ない事柄をマクラにして恐縮だが、三年前に「発達障害を考える会(仮)」というオフライン・ミーティングでIQ156を誇る女性と出会う機会があった。東大生の平均IQが120だそうだから、これは驚異的な数値ではないだろうか。天才、と言っても過言ではあるまい。
その女性と、会ってお話しさせてもらう機会を得た。私よりもひと回り歳下にあたる女性なのだけれど、話しながらこちらがカウンセリング/セラピーを施してもらっているような、そんな気分にさせられたことを思い出す。私の中で言い淀んでいること、言葉になりにくいことを素早くキャッチして、それを分析してみせる。そして、ハキハキした言葉で「それはこういうことですね?」と答えとして提示する。なるほど、賢いとはそういう整理能力のことであり言語化出来るスキルのことなのかなと思わされた。私の駄文とは大違いだ。
スーザン・ジョンソンという監督を私は知らない。それどころか、主演している女優ベル・パウリーについてもなんの知識もなかった。私がこの映画を観ようと思ったのはポスターと軽い内容紹介に触れてのことだった。IQ185の、二年飛び級でハーバード大学を出た19歳の女性(いや、「女子」か? この言葉は差別的なニュアンスを含むので出来るだけ使いたくないのだが)の成長と変化を描いた映画。ドラマティックなことはなにも起こらない、ハートウォーミングな映画……そういう映画は好きなので、観てみようと思ったのだった。
果たして、観終えたあと私は複雑なものを感じざるを得なかった。結論から言えば、私はスーザン・ジョンソンの次回作を期待したく感じたのだった。要チェックな人物である、と。だから駄作ではない。だが、傑作だとも思わない。小粒でピリッと辛い、なかなかクセのある侮れない映画だなと思ったのだった。そう感じられるだけの、歯応えのある映画だな、と。プロットは簡単だ。ハーバード大学を出たは良いものの、無職で読書しか興味のない、社交性ゼロのキャリーという女性が居る。彼女がどんな人物かは先に書いた。彼女に、セラピストはリストを手渡す。これを実践しなさい、と。そのリストが彼女を少しずつ変えていく……これがプロットである。
ところで、あなたはJ・D・サリンジャーはお好きだろうか? 私はこの映画を観ていて、サリンジャーの匂いを感じた。それはなにもキャリーの愛読書が『フラニーとゾーイー』であるから、だけではない。登場人物の造形やストーリー展開がサリンジャーの小説にそっくりだと感じたからだ。この映画の造り手たちはサリンジャーの愛読者なのではないだろうか(「ハルキスト」のように)。そこで、サリンジャーをあまり好まない私は試されているような、そんな気分にさせられたのだった。
サリンジャーの小説は、『ライ麦畑でつかまえて』(あいにく新訳は読んでいないので、敢えてこちらのタイトルを紹介する)と『ナイン・ストーリーズ』、そして『フラニーとゾーイー』しか読んだことがないのだが、どれも似ているように思う。登場人物は頭でっかちで理屈っぽい変人であり、内面がかなりこじれている。そのこじらせた、面倒臭い内面を言葉としてそのまま吐露し(ホールデン・コールフィールドのあの鬱陶しい喋りを思い出そう)、自分の内側のイノセンスを守り抜こうとする。そして、大人たちはそのイノセンスを見守るのだ。かくして、彼らはイノセントなまま大人になる。
この映画のキャリーもそんな、ホールデンやフラニー、ゾーイーやシーモアといったサリンジャー・ワールドの一員であると言える。知性派ではある。そして、内面に傷を抱えており、しかしそれを素直に吐露しない。自分だけの世界を頑なに守り抜こうとし、変化することを怖がる。そのくせ、彼らは助けを必要とする。彼らは変わりたいのだ。だから助けを求める。だが、助けようとすると「あなたになにが分かるの?」と拒絶する。そして自分の世界を守る。これがループするわけだ。どうだろう、かなり面倒臭い人物たちであり、そうであるが故に尊いと言えないだろうか。
そして、この映画の大人たちを見てみよう。浮気相手を目的として出会い系の広告で出会った男も、読書会の主催者である男も、父親もセラピストも、みんな彼女に対して温かい。彼女のこじらせた面倒臭い内面を批判することなく(するとしたら「大人になれ」という程度のものだ)、よしよしとおだててイノセンスを保たせたまま成長させる。だからこの映画では、キャリーは深刻な葛藤を経ないで、大事なものを捨てないで、「私はこれで良いんだ」と居直ることになる。そう考えるとこの映画のタイトルがまんま『キャリー・ピルビー』というタイトルであることも得心が行く。名字を名乗ること、ミドルネームがないことを誇るのだ。
だから、どうも私のような大人になる過程で大事なものを捨てざるを得なかった私、ダーティな俗物である私はこの映画を素直に肯定出来ない。キャリーの苦しみとは、せいぜいこの程度の甘っちょろいものだったのかとまで考えさせる。だが、サリンジャーを補助線として引くと、そんな「甘っちょろい」という解釈こそが私の破廉恥さを暴露しているかのように思われるのだ。この映画、なかなか手強い。
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