ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
二度目の鑑賞になる。一度目に観た時は唸らされた。ここにはインドのリアルが詰まっている、生々しい映画だと。悪く言えば脂っこい、あるいは汗臭い映画であると思ったのだ。それを辛うじて救っているのがスタイリッシュな細切れの映像の転換/視覚的刺激ではないか、と。だが、二度目の今回はこの映画を手放しで礼賛する気にはなれなくなってしまった。ストーリーのキモに触れるので未見の方は留意されたい。
スジは複雑だ。携帯電話のコールセンターで「お茶くみ」として雇われているとある青年が『クイズ$ミリオネア』に現れる。スラム街出身で、当然のことながら大学はおろかまともに学校で勉強したこともない無学な青年ジャマール。だが、彼は司会者が問う問題に正解を返し続ける。これは「チート」に違いないと睨まれ、ジャマールは警察官に拷問される。彼が白状したのは世にも奇妙な彼の半生だった。それは、正解を知るべくして知った数奇なものだ……これがプロットである。
拷問される場面から映画はスタートし、ジャマールの不正を疑わない警察官は電気ショックを使ってまで拷問を重ねる。だが、ジャマールはそれに対して正直に自分の過去を吐露する。それは、自分と兄のサリームが子どもだった頃にインドの宗教を巡る内紛で母を殺され、ディアスポラさながら流浪の人生を歩み始めてストリートで逞しく育つ。その過程で、ラティカという憧れの女の子/女性と出会う。幾度となくジャマールはラティカを追い、彼女のために全てを差し出し愛を獲得しようと奮闘する……。
この映画を観て、私はあまりジャマールに感情移入出来なかった。何故ラティカを(自分の命を賭けてまで!)愛するのか、それがさっぱり描かれていないからだ。ラティカが自分の母親に似ていたからなのだろうか、と考えるとそれを裏づける材料もないではないが、やはり説得力に乏しい。もう少し彼女への思い入れを「ブラザー」であるサリームに語らせるなり、手はあったのではないか。このあたりの脚本の拙さが私には耐えられなかったのだ。ラストについては語ると興を削ぐので語らないが、如何なる形であれカタルシスを与えてくれる類のものだとは私は受け取れなかった。
だが、別の角度から捉えればこの映画はラヴ・ストーリーではないのかもしれないな、とも思うのだ。実はジャマールの成長を描いた作品、と受け取るべきなのかもしれない、と。ジャマールは最初は無抵抗で大人しく拷問に耐え、真相を吐露する。だが、ここでラティカを貶した警官に対して「キレる」瞬間があることを見逃してはならない。朴訥とした雰囲気の、人畜無害な風貌のジャマールだからこそこの「キレる」場面は観逃せない。
整理すれば、映画の進行とシンクロする形でジャマールは少年から大人になる。その過程でブラフ/ハッタリをかます度胸を身につけ、「ブラザー」(「兄貴」と言い換えても良いだろう)のサリームの弟でしかなかった自分を捨てて、対等に渡り合える立場に立つ。この映画にカタルシスを感じられるとするなら、むしろそういう部分においてではないか。そのタフネスを身につける切っ掛けとして機能したのが先述した母親を殺された内乱であり、渡世術を教えてくれたサリームであり、あるいは彼自身の聡明さ、であると。ジャマールの内面にあった賢さが次第に浮き彫りにされていくのだ。
だからこそ、と思う。この映画は悪く解釈するならご都合主義的に過ぎる。波乱万丈のジャマールの人生は偶然に大きく左右される。ストリートにおける盲目の歌い手(孤児を引き取ったマフィアの下で一緒に育った少年)との出会いという偶然、あるいは説明抜きでいきなりコールセンターの社員として働いているという――それとも、無学な、しかし恐ろしく地頭の良いスラム街の青年を雇える懐の深さがコールセンターにはあるのだろうか――偶然、別れ別れになるサリームが声を聴くだけでジャマールを発見する偶然、そのサリームがラティカとマフィアのボスのところで同居しているという事実が暴かれる偶然……これらが重なるのだ。
いや、ドラマとはそういうものではないか、と言われるかもしれない。なんなら「じゃ『ノルウェイの森』の直子と主人公が東京で再会するのだって偶然で、それの何処が悪い? そもそも『ボーイ・ミーツ・ガール』な作品はそれだけで偶然の産物じゃない?」と。偶然という言い方が悪いなら、奇蹟と呼び替えても良いだろう。偶然は、それを起こらしめるだけの説得力を備えている。奇蹟はその説得力が備わっていない。難しいことを延々と書いてしまったが、つまりこの映画は数多くの奇蹟の積み重ねで出来上がっており、「数奇」そのものなのだ。
そして、その「数奇」な物語は確かに面白い。『クイズ$ミリオネア』は知られるように四択問題であり、問題を知らない人間も四つある選択肢をどれか選べばそれこそ奇蹟のように正解出来てしまうという可能性を秘めている。司会者は(日本版を想起すれば容易く分かるように)ジャマールの心理を揺さぶる。その揺さぶりに、ジャマールは己の内のタフネスを駆使して互角に渡り合う。だから、私はこの映画が「ジャマールとラティカをめぐる奇蹟」の物語なのか、「ジャマールがラティカを見つける成長」の物語なのか、それが分からなかったのだ。三度目の鑑賞でこの感想がどう変わるか、興味深く思う。
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