ミシェル・アザナヴィシウス『グッバイ・ゴダール!』

愛を感じた。この映画からは、力強いジャン・リュック・ゴダールへの愛を、あるいは畏敬の念を感じたのだ。それはこの映画が必ずしもあの巨匠であるゴダールと、その妻として交際していたアンヌ・ヴィアゼムスキーの若き日の関係を活き活きと描いた映画であるから、というだけの理由ではないだろう。


私はゴダールを知らない。いや、最近になって(今年だったか?)『気狂いピエロ』『勝手にしやがれ』『女は女である』といった「ヌーヴェル・ヴァーグ」の時期の映画を観た程度で、だからアマちゃんである。そういった映画について私は語る術を持たないが、難解と評判の悪い映画にしては面白かったなと思っている。


なるほどゴダールは難解かもしれない(ここから『グッバイ・ゴダール!』と関係ない話が続くが辛抱してもらいたい)。だが、それは個人個人の好みの問題もあるのではないだろうか。私もまだ映画を知らなかった時期に『気狂いピエロ』を観て爆睡した過去があるのだが、映画を観まくったあとに『気狂いピエロ』を観ると面白く感じられて自分自身の変化に驚かされた記憶がある。要はゴダールは映画を心底愛したマニアであり、そんな男が撮った映画はある程度こちらも擦れっ枯らしになって映画に慣れていないと分からない、と思うのだ。もっとも村上春樹のように、ゴダールは若い頃に観ておいた方が良いと語る人も居るので、自分を信頼して観れば良いと思う。


さて、『グッバイ・ゴダール!』である。『中国女』を撮った時期のゴダールの姿と彼とつき合うことになったアンヌの姿を描くことからこの映画は始まる。私は『中国女』を観ていないのでなんとも言えないが、この勉強不足がこの映画を観るにあたって響くかというと微妙なものがあると思う。私の乏しいゴダールの知識を総動員させて観たこの映画は、ゴダールへの愛を感じさせる出来映えであるように思われたからである。それ故に、こちらもゴダールを知っていないと難しい映画であるとも思われるのだ。


いや、と私の中の私が言う。ゴダールなんか知らなくったって、この映画を手掛かりにゴダールを味わえば良いのではないか、とも考える。このあたりで判断を迷う。具体的に言えばこの映画はゴダールが愛したジャンプカットや、カメラ目線での観客への語り掛け(俗に言う「第四の壁」の破壊)、カラフルな色使いのセンスの良さ、本のタイトルの引用の多用、『気狂いピエロ』を思わせる海辺の風景への目配りの効かせ方などの凝り方において秀でていると感じさせられた。この映画で興味を持った向きはいきなり『気狂いピエロ』に挑んでも良いのではないか、と。


ミシェル・アザナヴィシウスは『アーティスト』の監督で、私は『アーティスト』を観ていない。芝山幹郎の批評で興味を持ったのだが、食わず嫌いだった。反省している。『グッバイ・ゴダール!』のこのゴダールへの偏愛は見事であると感じられた。メガネを何度となく割らせる「天丼」的ギャグの使い方、俳優に映画を語らせる場面でヌードが話題になっている時に俳優陣たちも裸体を晒すというメタな構成もゴダールを思わせる。これは、仕掛けに満ちた作品でアカデミー賞を多数獲得した『アーティスト』も観てみなければと思わせられたのである。


ただ、逆に言えばゴダールへの目配せが優先させられるところが鼻につくとも感じられる。平たく言えば、肝腎のストーリーに膨らみが備わっているかと言えば疑問に感じるのだ。この映画はアンヌ・ヴィアゼムスキーの著書がベースになって構成されたものなのだけれど、ノンフィクション/ドキュメンタリー映画ではないのだからもっと映画的に(なんならエンターテイメント的に、と言っても良い)面白く出来なかったものか。いや、ゴダールの偏屈さというか天才性は面白いと言えば言えるのだけれど、それとて「変人」の大人しい枠組みから出られていないように思う。


この映画で好ましく感じられたのは、アンヌ(ステイシー・マーティンという女優が演じている)の美しさである。それこそゴダールの映画のアンナ・カリーナのようにコケティッシュで美しく、それでいてこちらの下心/下半身に訴え掛けるようなエロさがない。裸身を晒していてもその姿は上品で、この監督の視線は(カメラマンの功績ももちろん大きいのだろうが)信頼出来ると思われた次第だ。いわゆる四月革命の騒乱の中を生きる彼女とゴダールの姿は、極端な/強烈なカリスマ性こそないものの魅せる。


だからこそ、ストーリー展開において「もっとドラマティックに!」とないものねだりを感じられたりもしたのだった。このあたり評価が難しい。そんな風に劇的にしてしまえば、肝腎のこの映画におけるゴダール的ギャグ/トリックがロマンスの中に埋没してしまうだろうし、かといってゴダール的なギャグ/トリックを活かそうとするならどうしたって登場人物は――ゴダールの映画におけるキャラがそうであるように――単純な一筆書きのキャラとして収まるしかない。この難しさの前でこの映画は立ち往生したまま終わってしまったようにも感じられた。手放しで傑作と褒め称えることはするまい。だが、見逃すには惜しい作品とも思われる。観衆としての資質を試す映画だ。

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