エミール・クストリッツァ『オン・ザ・ミルキー・ロード』

エミール・クストリッツァの映画も、大して観て来たわけではない。大昔に『アンダーグラウンド』を観て、その後レンタルで『ライフ・イズ・ミラクル』を観た程度だ。だから、これといった的確なことを書けるというわけではない。だが何処までこの映画を語れるか、兎も角もやってみよう。


さて、「奇蹟」をどう捉えるだろうか? この映画は三つの実話が基になっているが、全体的にはクストリッツァらしく寓意を含んだストーリーとして成り立っている。そして、この映画ではあり得ない「奇蹟」が起こる。もっと言えば「夢」にも似た作品のように映るのだ。そして、多くの「夢」がそうであるようにこの映画も現実を忘れさせ、そしてご多分に漏れずこの映画も「夢」が終わったあとのような切ない余韻をあとに残す(ちなみに、この映画はオープニングは主人公の「夢」から始まる)。


「奇蹟」は、例えば蛇がミルクを飲むという形で現れる。あるいは主人公たちが住む村の時計が常軌を逸してグルグル回りまくるところにも現れている(こうしたアメコミさながらの誇張した表現が、全編に言いようのない面白味を与えている)。もしくは単に、主人公たちが戦時下だというのに銃弾が飛び交う中呑気に暮しているところにもこの映画の「奇蹟」を見出すことが出来る。もっと言えばこの映画の最大の「奇蹟」は、終わらないと思われていた戦争が呆気なく終わってしまうことにあるのかもしれない。


「奇蹟」は、チェスタトンを引くまでもなく起こりそうにないから「奇蹟」なのではない。起こってしまうから「奇蹟」なのだ。この映画では何度も起こる「奇蹟」が、あり得なさそうな「奇蹟」が物語になかなか侮れない旨味を与えている。普通、「奇蹟」で物語を進行させるのは――つまり、あり得ない事柄を頻出させるのは――現実味/リアリティを生み出さないこととして禁じられる運命にある。起こらないことが平気で起きてしまうという、「お約束」を逸脱することは私たちが無意識の内にタブーとしていることである。


「お約束」を逸脱して平気で、例えばヒーローとヒロインが宙を舞ったり井戸に落ちたり、あるいは千切れた耳を平然と縫い物のように縫合させたりという展開に至ってしまうことは、ややもすれば「荒唐無稽」「夢物語」として映るだろう。悪い意味での「ファンタジー」でもあり得るだろう。「なんでもあり」……この「なんでもあり」は、例えばアヴァンギャルド/ポストモダンと自称する芸術の殆どがそうであるようにしばしばつまらない「おフザケ」の域を出ない。


だが、クストリッツァの作品は単なる「おフザケ」に留まらない。それは結局は繰り返しになるが、そういう「おフザケ」とも思われるものがこちらを良い意味で夢見心地にさせてくれるからだろう。例えば吾妻ひでおの作品、もしくは高橋源一郎や筒井康隆の作品、あるいはそれ以上にエイフェックス・ツインの作品を思い起こせば良い。彼らの作品に通じる、ユーモアとそのあとに漂うなんとも言えないペーソス……この映画もそういうペーソスを孕んだものとして成り立っている。流石はクストリッツァ、と呼ぶべきだろうか。


この映画は、「奇蹟」が起こることで悪く言えば相当にご都合主義的に進行する。それをこの映画では「寓話」と味つけ/こじつけて提示している。ユーゴスラビアを、あるいは東欧の複雑な政治事情をこの上なく分かりやすく提示してみせるクストリッツァでしか出来ない芸当だろう。あと一歩のところをヒーローとヒロインは平気で助かる。ストーリー的には単純なヒーローとヒロインの逃避行でしかないこの映画が、しかし中弛みを感じさせることなく、時間を忘れて夢中に(まさに「夢」の「中に」居るように!)させてくれるのはその味つけの職人芸が光っているからだ。


ネタを割ることは慎みたいが、この映画は結局バッドエンドで終わる。いや、リアリティに着地して終わる、と言った方が良いかもしれない。このあたり、私は意外とテリー・ギリアムの感性に近いものがあるのではないか、とも思ってしまった。例えば『未来世紀ブラジル』の隣にこの映画を置いてみてはどうだろうか? と。『未来世紀ブラジル』もまたヒーロー(気取り)とヒロインの逃避行であり、全体主義的な社会をブラック・ユーモアを交えてスパイスを効かせて描き切った作品だからだ。ふたりが対話を行えばどうなるのか、なかなか興味深い。


ストーリーの整理や構造の分析だけで字数が尽きようとしているが、言うまでもなくこの映画の「奇蹟」を増強しているのは動物たちの生み出すダイナミズムだ。蛇、鳥たち、テントウ虫、ミツバチ、羊、熊、蝶……言うまでもなく彼/彼女たちは私たち人間がコントロール出来ない存在であり、彼らが映画にそぐう形で動き回るのは(それはむろん躾の産物であったりCGであったりするだろうが、それを忘れさせるほど自然に動くのは)「奇蹟」的な産物なのだ。特にこの映画の蝶の撮られ方はうっとりとさせられてしまった。


この映画、悪く言えばいつものクストリッツァの域を出ないかな、というきらいがある。大御所となってしまったクストリッツァにこれ以上斬新なものを求めるのは酷かな、とも思われる……と書いて、いや、とも思うのだ。クストリッツァは確実に私たちのスピードに合わせて(もしくはスピードを私たちに向けて落として)動いているのではないか? そう考えるとそのスピードの調整加減こそが「奇蹟」のようにも思われるのだ。

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