まなうらのひかり

浅羽

第1話

 モガ・モボ、流行りの洋食、カフェー、時は大正、日清、日露、二度の戦勝を経て、欧州と倭の文化が混じり合い、短いながらも最も華やかな時代、そう後の人々は語る。

 日本が大きな戦争へ突き進む前の、ほんのひととき、わたくしたちは夢を見た。

 融ける前の淡雪のような、刹那の夢を。

 瑠璃のように、玻璃のように、くるりくるりと回る、万華鏡のように華やかな、鮮やかで、いとおしいロマンの夢を……。



 わたくしの名は、瑠璃子。齢、数えで十四。

 井上男爵家のひとり娘だ。

 父はいわゆる成り上がりで、製糸工場で財を成し、築いた資産で男爵の位と、若く美しい母を手に入れた。

 男爵家の娘を金で買ったと揶揄されても、親子ほど年の差がある夫婦であった故に、父は母を深窓の令嬢として溺愛し、その妻が産んだひとり娘のわたくしも、蝶よ花よと何不自由なく育てられた。

 母はお湯を沸かすことさえ、自らの手でした事がなかっただろう。

 わたくしの傍には、いつも乳母がついていて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれ、父に一言、欲しいと言えば何でも与えられた。お人形も、甘い菓子も、うっとりするような肌触りの絹の着物も、ままごと遊びの友達さえも。

 六つの年に、弟を身ごもった母が、産後の肥立ちが悪く、医師らの手厚い看病も空しく、儚くなってからは余計だった。

 生まれた赤子は、母の乳房を吸う事さえできず、息絶えた。

 母を姫君の如く、崇めていた父は深く嘆き悲しみ、ただひとり残された娘のわたくしへの執着を、ますます強くした。

 るりこ。わたしのるりこ。瑠璃子。

 父がそうなったのは、おそらく、目の見せぬわたくしを、不憫に思っての事でもあるのだろう。

 わたくしは、目が見えない。

 両の眼は、ただぼんやりとした光を映すのみだ。

 物心つく頃には、まだ、ぼんやりと物の形がわかった気がするのだが、成長するにつれて、それも難しくなった。

 そんな背景があってか、父は戦時に財を成したひとであり、本来は豪胆な気性で知られた人であったのに、わたくしのこととなると、ひどく心配性で臆病なところがあった。


 ――瑠璃子。わたしの瑠璃子、お前は母に似て美しい、良からぬ輩に攫われたりしないか、心配で仕方ない。かわいいお前の身に何かあれば、あれに申し訳が立たぬよ。


 いっそ異様とも言える程に、父は過保護であった。

 十を数えるまで、わたくしは魚に骨があることも、物を買うのにお金を必要なことさえも、碌に知りはしなかったのだから。

 わたくしは女中に手を引かれて、屋敷の中を移動し、外に広い世界があることさえ知らなかった。籠の鳥。でも、それを不幸と思ったことはない。そこに、疑問を持つことさえなかった。わたくしにとって、その屋敷の中、父が与えてくれるものこそが、世界のすべてであったからだ。

 朝起きたら女中が着物を選んで着付け、髪を結い、食事の膳が用意される。

 退屈したら、女中が本や新聞の読み聞かせをしてくれて、小腹がすいたら、売り出したばかりのキャラメルとやらを摘まむ。

 休みの日に外に出掛けた女中からは、街で人気のミルクホールや、海老茶の袴とブーツで颯爽と自転車を乗り回す女学生、憧れのフルーツパラーの話を聞く。

 ライスカレー、ポークカツレツ、オムレツライス、ビフテキ、流行りの洋食は我が家の料理番も作ってはくれるが、食堂で食べるそれは何とも美味しそうだ。

 像を結ばないまなこを持つわたくしとは違い、同じ年頃の女中たちは活動的で、わたくしに説明する声は弾んでおり、頬は薔薇色、瞳はきらきらとしている事だろうと想像できた。

 わたくしはその話を聞きながら、うつらうつらと微睡みの中、穏やかな時間を過ごす。

 変化のない、ともすれば退屈な日々。

 そんなわたくしの慰めは、一匹の雄の黒猫だった。

 名を玻璃という。

 わたくしが名付けた。

 瑠璃と玻璃。

 もともとは家に迷い込んできた野良猫が、屋敷に住み着いたのだ。

 嵐の翌朝、屋敷の軒下で女中に見つけられた時には、まだ掌にのるぐらいに小さくて、ぶるぶる震えていたという。

 あまりにみっともない様子だったので、父は最初、屋敷で飼うのを嫌がったらしい。

 瑠璃子には、もっと毛並みの良い三毛猫や、お前が望めば、異国の珍しい犬の朕でも取り寄せる、その方が相応しいのにのにと言われた。

 それを拒んだのは、他ならぬ、わたくしだった。

 みゃあみゃあ、すがるように鳴く黒猫が、妙にいとおしく、哀れな存在に思えたのだ。

 像を結ばぬ瞳を持つわたくしにとって、獣といえども、庇護すべき命を預かったのは、初めてであった。

 黒猫が屋敷の住人となったのは、齢七つの春の宵の事である。

 その日から片時も離れる事なく、玻璃はわたくしのそばにいる。

 退屈を慰め、女中に手を引かれるわたくしの背中を追いかけ、そうかと思えば、よく陽のあたる縁側で、みゃあと満足げに鳴くと、膝の上でまどろんだ。

 子猫の体はあたたく、目の見えないわたくしにとって、それはとても安堵するものであった。

 朝がきて、夜がきて、また朝がきて、

 水に広がる波紋のように、そんな日常に変化が訪れたのは、書生の守夫が屋敷にやってきてからだ。

 守夫は、父の親類の紹介で屋敷にやってきた。

 物静かで、穏やかな空気を纏ったかの人は、雪深い山奥の地から来たのだという。

 わたくしには、外の世界の事はわからぬのだけれど、お上の為にお役に立てるほどの秀才だそうだ。けれども、裕福とはいえぬ家庭と、幼い弟妹のために、我が家に書生として入る事になったそうだ。

「初めまして、瑠璃子お嬢さま。雪村守夫といいます」

 凛としていて、されど、どこかあたたかさも感じる声を、わたくしは心地よいと感じた。

 温厚な性格の守夫は、姦しい女中たちにも気に入られて、すぐに屋敷に馴染んだ。

「守夫、守夫……何処にいるの?」

 わたくしがつい不安になって、さしたる用もないのに、名前を呼ぶと、守夫はいつも穏やかな声で応じてくれた。

 いつも変わらぬそれに、心が安らぐ。

「此処におりますよ、瑠璃子お嬢さま。お側に」

 その声を頼りに、わたくしは守夫の袖を、離すまいと強く握った。

 守夫は、ふ、吐息めいた苦笑をもらすと、そのように必死に掴まずとも、離れはしませんよと、頑是ない幼子を諭すようにいふ。守夫はわたくしの教師であり、実父を除けば、ほぼ初めてまともに接する殿方であった。

 女中たちからは、殿方というのは頼もしいが、ときに荒々しいところもあると聞いていたけれど、守夫はわたくしの我儘にも寛容で、使用人にさえ声を荒げる事など一度もなかった。

 それは、しんから凍える冬の朝のこと。

 かじかむ手をこすりながら、爆ぜる火鉢を部屋においてくれた女中が、窓枠に雪が降り積もっていると教えてくれた。

 前夜から降り続いた雪で、一面が真っ白な銀世界だと。

 帝都の屋根は全て、白く染まっているらしい。

 おりんという名の女中は、私の故郷も雪がたんと降るけども、帝都でこんなにか積もっているのはめずらしいですね、とどこか郷愁を感じさせる声で言う。

 雪。

 わたくしは、見た事がないので、空より降るそれが、どのようなものなのかわからない。

 ましろく美しいそれは、時に吹雪いて、命を奪うこともあるのだと、雪国の女中は教えてくれた。されど、盥に入れられたそれは、指先に触れると冷たく、はらりと融けてしまう、儚いものだと思う。

 瑠璃子お嬢様、雪が降りつもっている時はね、音がしないんですよ。

 雫したたる窓に手をかざして、守夫は語った。わたくしには見ることが叶わないけれども、窓の外には白い、銀景色が広がっているらしい。

 まっしろ。

「守夫、わたくしには見えないけれど……雪はどのようなものかしら?」

 わたくしの漠然とした問い掛けに、しばし黙ると、守夫は穏やかな声音で、言葉を選ぶようにしながら、訥々と語った。

「雪とは、光のようなものです」

 自分の田舎は雪国で、冬は雪に覆われるのですよ、と守夫は続けた。はらはらと降り始めた雪が、夜の間に積もって、障子を開けたら、庭先も木々も全部、雪に覆われて、何にも見えない。

 音も消えて、ただ静寂だけが其処にある。

 冷たくて、恐ろしゅうて、とかく難儀なものではあるのだけれど、でもね、雪明りはほんのりと明るいのですよ。きらきら光る結晶の、穢れない白雪のうつくしさは、何にも喩えようのないものです。

 守夫の語りを聞きながら、瑠璃子は雪深い、彼の故郷である北の大地に思いを馳せた。

 ひかり。

 幼い頃に、微かに感じる事が出来たそれ。

 雪はそれ似ているのだろうか。

「さぁ、この寒さは身体に障ります。瑠璃子お嬢様、お部屋までお送りしましょう」

 父と同じくらいに、守夫はわたくしに過保護だった。それが時に面映ゆく、もどかしく、けれど、嬉しくもあった。

 守夫がわたくしの手を引く。

 女中とは違う、大きくて、節くれ立った手。おとこのひとの手だ。

 雪と同じように、その手から伝わるものは、ひやりと冷たい。

 ――みゃあ、と近くで玻璃の鳴き声が聞こえた。

 

 お屋敷で暮らす、籠の鳥であるわたくしは知りもしなかったが、この時、暗い戦争の影は、すぐ傍まで忍び寄っていたのだ。

 

――二発、銃声の音が響く。

 それが死を呼び寄せる。

 とある皇太子夫妻の暗殺をきっかけに、欧州諸国は凄惨極まる戦争の渦に巻き込まれていくこととなる。

1914年――第一世界大戦が勃発


 その頃、日本の産業の主たるは、製糸から重工業の時代へと移り変わろうとしていた。

 わたくしが屋敷で過ごす間も、外の世界は着々と変わりつつあったのだ。

 壮健だった父が病を得たことが、そもそもの没落の始まりであっただろう。

 昇った日が沈むように、物事には始まりがあれば、終わりがあるのだ。

 屋敷から、人が減った気がすると、わたくしが気付いたのは、いつ頃だっただろうか。

 昨日まで、私の髪を結ってくれた女中が、別れの挨拶をして居なくなり、高齢だった庭師が無言で屋敷を去った。ひとり、またひとりと、屋敷からは人の気配が少なくなっていった。

 事業が傾いて、失意のまま父までが常世へと旅立つと、屋敷はまるで生き物だったかのように、生気をなくし、在りし日の繁栄までが、夢の出来事だったようだ。

 ひとり、ひとり、去っていく人々、書生の守夫だけが変わらず、わたくしの傍にいた。



――1920年 戦後恐慌


――1923年 10万人もの犠牲者を出した関東大震災


 さながら時が止まったような、わたくしたちの屋敷とは対照的に、戦禍を経て、我が日ノ本の国はめまぐるしい変化を遂げようとしていた。

 農村だった場所に百貨店が建ち、丸の内のビルディング、美容室やダンスホール、活動写真やラジオが、生き生きとした人々の姿を伝える。

 万華鏡のように、次から次へと移り変わっていく景色。

 盲目のわたくしを楽しませようと、守夫はつぶさに、それを語ってくれた。


「瑠璃子お嬢さま、巷で流行りの活動写真の噂を、女中がしておりましたよ。こうこうこういう話だそうです……」


「庭の紅葉に色がつきました。もうすっかり秋ですね」


「寒うなってまいりました。お風邪を召さないように、火鉢を出しましょう」


「もう梅の花が咲いておりましたよ。良い匂いでした。あとで一枝、お部屋にお持ちしましょう」


 守夫の話はいつも明るく、わたくしが楽しめるように、幸せに暮らせるようにと心配りに満ちていた。

 あれから、何年の月日が流れたのだろう。わたくしは幾つになったのだろうか。雪深い山奥の地に暮らす守夫の家族は、かわいい息子に、なぜ頼り一通、電報ひとつよこさないのだろうか。

 都合の悪いことに蓋をして、わたくしは何もかも見ないふりをした。

 夢から醒めないように、どうか、どうか、お願いします。この優しい世界が壊れませんようにと。


「――瑠璃子お嬢様、さようなら。どうか、どうか、お健やかにお過ごしください」

 父が没して少しした頃だろうか、郷里からの手紙を読んだ彼の人は、険しい顔でずっと眠れぬ夜を過ごしていたようだった。

 屋敷を去るときも、何度も何度も躊躇うように振り返り、けれども、最後には振り返ることなく、屋敷から足音が遠ざかっていく。

 いかないで、とは言えなかった。言えるはずもない。そんな聞き分けのない子供のような真似は。

 わたくしの愛するひとは、どこまでも優しい人だったから。


 玻璃は、いつしか姿を見せなくなっていた。

 みゃあみゃあ、と鳴く声はもう聞こえない。

 瑠璃よ、玻璃よ。

 あの子はどこにいるの。

 寂しがりだった子猫を心配して、守夫に探してほしいと頼むと、猫は気まぐれですからね、いずれ戻ってきますよ、と諭された。玻璃は、瑠璃子お嬢様の猫ですから。


――1945年3月10日 東京大空襲


 空襲のサイレン。

 逃げ惑う群衆。

 焼野原の大地。

 屋敷の外が騒がしいようだけど問うと、守夫はかすかに微笑んで、背中から抱きかかえるように、わたくしの瞼に手を添えた。

 何も怖いことはありませんよ、あなたは残酷なものや苦しいものを見る必要はない。自分が、自分だけは、最期まで瑠璃子お嬢様を守りますから。あなたはただ――優しく、淡いひかりだけを見ていればいい。まなうらのひかりだけを。



 季節は廻り、再び春が来る。――常世の春が。

 屋敷には桜が咲き乱れていた。春の。花の匂いがする。さくら。さくら。

 ああ、なんて美しい。優しくも、壊れかけた屋敷だろうか。

 縁側に座って、わたくしと守夫は桜を眺めていた。わたくしに桜は見えないが、香りを感じることは出来る。

「桜は綺麗ですよ、瑠璃子お嬢様。はらはらと風に舞うのが、優美ですね」

 髪についた花びらをはらってくれながら、守夫は言った。

「――もういいのよ、守夫。やさしい嘘は終わりにしましょう」

「……え?」

 戸惑う守夫に、わたくしは続けた。

 あの嵐の日、凍えた命を抱きしめたことを、昨日のことのように鮮明に思い出しながら。――もう何十年も前の事。

「もういいのよ。あの人は、守夫はとっくにこの屋敷を去ったのでしょう。――ねぇ、玻璃」

 みゃあ、と守夫は思い出したように泣いた。

 まるで、嘘がばれた子供のような、弱り切った姿だった。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ただ、あなたを守りたかった。あなたに幸せであってほしかった。ただ、それだけだったんだ。

「ええ、わかっているわ。いままで、ありがとう。でも、もういいの……もういいのよ」

 その言葉が合図であったように、幻想が崩れた。

 わたくしの瑞々しかった肌は、瞬く間に皺だらけになり、黒々と艶やかだった髪は、結い上げた白髪へと変わる。

 若々しい娘から、老婆へと。

 これが本来の姿なのだ。

 立派だった屋敷が崩れて、後にはただ、黒猫の死骸だけが残った。

 抱き上げたら、触れた尾が二つに裂けていた。主人を守りたい一心で、化け猫になり果てたのだろう。

 ――ゆっくりおやすみ、玻璃。

 皺だらけの手で、荒れた毛並みを撫でながら、わたくしは桜舞う中、光に向かって歩み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まなうらのひかり 浅羽 @asaha-m

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る