第3話 バース・バイ・スリープ
「――――………――…」
目が覚めた時、白い天井が最初に見えた。
病院に居るのかと一瞬考えたが、違った。やけに立派なベッドに、天井に相反するような赤黒い絨毯。天井から床まである程大きな窓。これを見れば、到底医療機関とは思えない。
黒と白。窓からあふれる光も、あえていうなら白。まるでチェス盤のような部屋で、他の色を持つのは彼女くらいのものだった。
「……っ…」
扉を叩く、軽い音が聞こえた。丁度真正面の、遠くの壁。そこから聞こえる音だった。
――――どう返事をするべきか沈黙していると、もう一度ノックが聞こえてくる。
「あ…どう、ぞ…はい…」
許可を待っていることに気付き急いで答えると、数秒経って扉は開いた。
靴音と共に―――――"男性"が入ってきた。
「……――…」
息を吞む。黒いスーツにブーツ。白い手袋と―――顔半分に垂れ下がった黒布。布の隙間から覗く真っ赤な眼光。そして上を向き、口の端から飛び出している大牙。
人間では無かった。
到底作り物とは思えない顔を持つ彼が、ティーセットを手に私の方まで歩いてくる。そして隣の椅子に座り、盆をデスクに置き、淹れ始めた。
「調子はどうだい」
「………………」
面食らった顔をしてしまった。見た目からして寡黙なそうに見えたので、普通に話し掛けてきて驚いた。
「………調子………は…………――…普通です…」
「そうか普通か。最低よりも普通は"良い"。大丈夫そうだ」
男性が続ける。
「普通なら話そうか。君の、今現在の、少し大変な状態について」
「……たい、へん…」
「といっても、君個人が、じゃなくて君が置かれている状況が、だ」
お茶を、紅茶を淹れて渡してくれる。慎重にそれを受け取ると、レモンの香りが鼻腔を擽った。
紅茶を一口。彼が口を開く。
「さて――――どうして君はこの"世界"に来てしまったのか。君には記憶があるかい」
"世界"。そう、世界。ここは、彼女の知らない世界だった。
既にそれは、この、目の前に居る彼が証人だ。
「…………分からないです。何も、なんにも―――………どこなんですか…ここ…」
本当のことだ。何も分からない。理解できない。
全てがいきなり始まり、こうして続いていた。
「…記憶が飛んだのかい」
「………多分…」
「…………取りあえず、現状の解説が先かな。ここは君にとっての"異世界"―――僕にとっては、"基本世界"。そういうことになる。それ以上でも以下でもない」
頬杖を突きつつ彼は言う。どうも初めから変だと思っていたら、本当にそういう変な世界だった。
おかしいとは思っていた――――彼の姿を見て、誰もがそう思わずにはいられないだろう。
二メートルはある身長に不気味な容姿。そんな存在が彼女の住む世界にいる訳がなかった。
「……欠片も思い出せなくても無理はない。ここに来る前、君は薬漬けにされていたんだから」
「く、薬漬け…」
『薬』―――そういうことをされたなら、記憶障害があっても可笑しくはない。
「魔道結社の新薬らしいから、実験体にされたらしい。まぁ、大きなデメリットは僕が取り除いたから身体自体は問題ない。その対価として記憶が欠損しているみたいだけど、その内取り戻すさ………自分の名前くらいは言えるかい?」
「…名前……」
名前―――脳裏に浮かんだ名を、そのまま口にする。
「……ナギ…………ナギ、です」
「『ナギ』か。よろしく」
「…………」
よろしくという割には握手も自己紹介もしない。不満がある訳じゃないが、どこか素っ気なく見える。
「で、君の置かれている状況をさらに説明すると、君は僕に買い取られた"奴隷"だ」
「…奴隷って……」
「異世界から君はこっちの世界に引きずり込まれ、商人がそれを見つけ、奴隷市場で売られていたところを僕が買った。その後ここまで運んできて、着替えさせて寝かせた」
「……え」
着替えと聞き、服を確認すれば全く知らない寝間着を着せられていた。
実際に触って確認を取れば、下着すらも覚えがないものを着ているらしい。
「な……あ……」
羞恥に顔を紅潮させる。一度に大量の情報を供給され、既にパンク一歩手前に立たされていた。何に驚いて、何に安堵すればいいのか分からない。
「―――そんなことより、君は今どれくらいの記憶がある?」
「………どれくらいって……」
「記憶障害と言っても色々あるからね……名前以外に言えることはあるかい」
俯きつつ記憶を探り出すが、案の定記憶はツギハギだらけで碌に思い出せなかった。
即興で記憶の組み合わせを試みるが、案の定上手く行かず、断念する。思い出せるのは名前を除いて二つ。国籍、住まい、年齢―――それ以上は難しい。
「……日本に……あ…日本っていう国に住んでいて………十七歳で……」
「…………」
「…えっと…」
「………」
「―――…すみま、せん…これ以上は……よく―――」
「よく分からないみたいだね。まぁ最低限の情報だけ持っていれば問題ないだろう。ここで暮らす分には問題は無さそうだ」
「………え」
ここで暮らす分には――――その言葉に素早く反応する。
「……ここで……暮らすって…」
「だって君、この世界じゃ奴隷って扱いだし、戸籍もない状態なんだからここにいるしかないだろう。それとも、自立したいかい?」
まったく知らない世界での自立がどれだけ困難なことかは、直ぐに察した。
「―――…いえ………ごめんなさい…」
急ぎ謝罪を入れる。それに対し、彼の反応は足を組み替えただけだった。
「まぁ、ずっと君がこの世界に居る必要はない。あくまで君が元の世界へと帰られる日が来るまでの、仮初の自宅と考えていい」
「……帰ること…できるんですか」
帰られるというキーワードに反応する。
彼は頷き、しかし同時に悪い報告も添えて返す。
「ただ悪いけど、当分は元の世界には帰れないと思ってほしい。次に向こうへの道が開くのは、少なくとも半年は先だ」
「半年…」
思わず声を漏らす。半年。結構な月日が必要ということだった。
「……そう、ですか」
しばらく項垂れ、渇きに気付いて手の中のカップを口に当てる。再び酸味の効いた味が口内に染み渡る。
「…っ…………」
気づけば興味は彼以上に紅茶に向き、その味を楽しみ始めていた。先程の一口は緊張のせいかあまり強く感じられなかったが、今は違う。
麻薬という訳ではないのだろうが、釘付けだった。表情も明らかに柔らかくなり、口元が僅かに緩み始めた。
そんな様子を、ただ彼はじっと見つめていた。
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