第43話 奇跡


 私が「早くしろ」とユウを急かしてから早数分。

 ただユウの手を握るだけではヒマなので、焦るユウを尻目に奴の手を弄って遊んでいた。指や爪の一本一本をなぞってみたり、指をからめて恋人つなぎをしてみる。ちょっと楽しい。


「妨害が上手いですね……」

「どうしたの」

「貴女のが気になって集中できないんですよ」

「え、私のせい?」

「そうですよ! なんてやらしいことしてるんですか! 自分の体が羨ましい!」

「めちゃくちゃだなあ……」


 相当興奮しているのか言ってることが意味不明だ。けれど本人は真剣そのもので目が見開いていて怖い。


「奈々子さん、さっき元の体に戻るメリットと言いましたね」

「え、うん」

「今思い付きました。戻ったら貴女をめちゃくちゃに襲います」

「……」

「これからはもう貴女に好き放題触れるんですし。決めました。襲います」

「えええ……」


 何をしてもいいとは言ってないんだけど。でもユウの悔しさと恨みがこもった目でにらまれて反論が言えなくなってしまった。


「……その前にちゃんと謝りに行ってよね。事故の補償手続きはユウが寝てる間にユウの両親がしたらしいし、萌花さんにも心配かけてるし。ちゃんと挨拶しなよ」

「どうせ僕のことなんて何とも思っちゃいないですよ。ずっと頭のおかしい人間扱いされていたんですから、僕は」

「まあそれは否定できない」

「は!?」


 おっと。思わず本音が出てしまった。

 そういや今まで心の中では散々言ってきたけれど、「頭がおかしい」と口に出したことはなかったっけ。おお怖い怖い。


「でも、私は好きだよ」

「……」

「愛情表現が狂ってても、思考回路がおかしくても許してあげる」

「僕そんなにおかしいですか」

「おかしいっちゃおかしいけど……まあいいよ、そのままで」


 人間惚れた方が負けなのだ。おかしいのも長く一緒にいて慣れてしまったし。

 それに冷静に考えてみると、この先こんなに私のことを好きでいてくれる奴なんて現れない気がする。ドロドロに愛されるのも悪くない。


 私はユウの手で遊ぶのをやめて、再び両手で包み込む。そのまま持ち上げてユウの指先に口付けた。


「早く生き返って。待ちくたびれる」

「あ、ああ……」

「次は口にちゅーしてやろ」

「えっちょっと! 待ってください!」


 ユウの制止も聞かずに、腰を浮かせて顔を近づけた。本当にするつもりはなくて、あくまでからかってやるつもりの軽い気持ちで。


「今日はずいぶん積極的ですね!」

「うわ……んぶっ!」


 いきなり私とユウ(本体)との間にユウ(霊体)が割って入ってきた。急に至近距離になったのでビックリして……――体重をかけていた右のひざの力が抜けて体のバランスを崩してしまった。前のめりになりながら元の体勢に戻ろうとするけれどムダだった。


 その拍子に、本当に私たちの唇は勢いよく合わさってしまったのだった。そこにはドラマチックも何もなく、ガチンと前歯が当たる衝撃だけが残った。


「いった! 前歯当たったよもう!」


 何やってんだか。痛みと恥ずかしさで口を手で覆い隠しながら体を起こして立ち上がる。

 ちょっと舌も噛んでしまって血の味がした。大失態だよもう……ユウとはいえ入院患者になんてことを。怒られるぞ。


 けれど文句を言いたい相手はおらず、そこにはしんとした静けさだけがあった。辺りを見回してみてもユウがいない。


「あれ、ユウ?」

「な……なこ、さ」


 質量を持った「音」が空気を震わせて私の鼓膜まで届いた。いつもの、脳に直接打ち付けられるかのような感覚ではない。人間の声がした。


 まさか。


「こえ、でな」

「わあ」


 今の今までベッドで眠っていたユウのまぶたがゆっくりと開いた。喉がカラカラなのだろう、かすれた声がかすかに漏れるだけだったけど間違いない。ユウ本人だ。

 本当に目が覚めるとは思わなかったので妙に心臓が痛くなってきた。この後どうしたらいいんだ。どうする、どうなる自分。


「も、戻ったの」

「あの、……い」

「なに?」

「体の、自由が……」

「まあ、二ヶ月も寝たきりじゃ筋肉だいぶ落ちてそうだしねえ」

「重い……」


 私は平常心に努めながら何でもないようにユウに返事をする。とりあえず、目覚めた瞬間襲われるという事態にならずに済んだので安心する。

 ユウは腕を持ち上げるのもやっとのようだった。私の頬に触れようとしたのか右手を上げて、けれど途中で力尽きてベッドに落ちた。


「しばらくリハビリじゃないかな」

「嫌です……帰ります」

「今日すぐはムリでしょ」

「奈々子さんと離れるなんて耐えられません。もう一度幽体離脱します」

「やめてください」


 ユウは眉間にシワを寄せてふて腐れてしまったみたいだ。元々悪い目付きがさらに悪くなっている。このままだと本気でまた幽体離脱しかねない。

 仕方ないな。私はそっと手を伸ばしてユウの頭を撫でてみる。すると一瞬で機嫌が直ったのが見てとれた。


「はっ」

「今度はちゃんと触れるね」

「これが奈々子さんの手の感触……はあ……」

「う、うん」


 まあ、気持ちの悪い言動に目を瞑れば案外扱いやすいかもしれない。少なくとも、今までのような得体の知れない力ポルターガイストに怯えずにすむ。うん、良いことだ。

 あれ、でも幽体の時の経験で超能力に目覚めたりなんてしないよね……?

 なんだかこれからを考えると急に現実くさいなあ。


 今後のことを悩みながらぼんやりとユウを眺めていたら、奴は何を勘違いしたのかもごもごと恥ずかしそうに言葉を発した。


「あ、あの。もう一回、キスを」

「……はっ! そうだナースコール!」


 さっきのことを蒸し返すのはやめてくれ。私は忘れたいんだ。なので、さっきまでのこともなかったことにする。

 そして私は勢いよくナースコールを押したのだった。


 ……こうして私と幽霊の奇妙な共同生活は予想以上に平和に幕を閉じたのである。けれど私は確信していた。

 これは物語の終わりではなく、波乱の始まりだということを。


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