疑似・ストックホルム症候群

第31話 媚態


 玄関の扉を開けて、今しがた会社帰りに寄ったスーパーの買い物袋をそっと廊下に置く。そのままダラけて床に突っ伏してしまいそうになるのを我慢して暖房のスイッチを入れた。


「おや、今日は節約しないんですか」

「寒すぎるから今日はムリ」


 流れるように上着やバッグを廊下にあるポールハンガーにかけ、そのままお風呂のお湯のスイッチを押しながらタオルをかき集めた。毎日同じ行動をしているせいか無駄な動きは一切ない。


「買い物袋そのままですけど」

「あっ」

「ほらあ、僕にお願いしてもいいんですよ?」


 すっかり忘れていた。手放した瞬間に私の買い物ミッションは終了してしまっていた。生ものもあるのでお風呂に入る前に冷蔵庫に入れなければ。

 ユウが意地悪な笑顔で私の様子をうかがっている。いつもだったら「あ、大丈夫です」と言ってさっさと自分で片付けるんだけどなあ。めんどくさいなあ。けっこうな量だから仕分けるのも時間かかるなあ。めんどくさいなあ。


 一通り考えて私は血迷った行動を選んだ。


「うん。お願い」

「は?」

「おねがい、しまっておいて?」


 聞こえなかったのだろうか。もう一度、今度はゆっくりと言ってみたらむしろ逆効果でユウは固まって動かなくなった。

 お願いしろと言われたからお願いしたのに、心の底から驚かれてしまった。そこまで無下に扱っていなかったはずなんだけどなあ。保身のためにももう少し優しくしてあげる必要があるかもしれない。しないと思うけど。


「駄目なの?」

「ぐ、うう」

「苦しむほどのダメージか……」


 次は胸を押さえて苦しみだした。完全に自分の世界に入ってしまっている。

 もはや自分でやった方が早いかもしれない。ため息をついて廊下に転がしたままの買い物袋へ歩いて行こうとすると、ユウが「ねえ!」と叫んで這いずりながら足にすがりついてきた。なかなかショッキングな光景である。


「僕に頼みましたよね!」

「あ、聞いてたの」


 そのまま体は離さずにユウは立ち上がった。得意げな顔で見下ろされてあまり納得がいかないけれど、背後で買い物袋が動く音がしたので何も反論しないことにした。


「もちろんです。あとは任せて、いってらっしゃい」


 キスのついでに左頬を思い切り舐められた。ひどい仕打ちじゃないか。

 私はユウを押しのけて、舐められた場所を手でさすりながら脱衣所のドアを開けた。頼みごとをしただけなのにこんな散々な目にあうとは、さすがユウとしか言いようがない。



 ***



 シャワーを浴び終わってリビングへと戻ると、すでにユウの手によって夕食が作られていた。最初は火を扱うのを恐れていたはずなのに、今では何とも思っていないようだ。


「ちょうど今終わったところですよ」


 促されテーブルに座ると、ユウも上機嫌な様子で向かい合わせで座った。今日は豚肉の野菜炒めらしい。「いただきます」と一口頬張ると、文句のつけようのない味付けと歯ごたえだった。


「おいしい……悔しい」

「いいんですよ? 僕にずうっと頼って生きればいいんですから」

「それは困る」


 一人暮らしをする前の方がきちんと自分の事をやっていた気がする。現状は掃除も洗濯も、挙句の果てには料理まで私が手を付ける前に終わっているのだ。

 この状況に甘えてはいけないと自分の頭が警鐘を鳴らしていた。このままではユウの言うとおり、私は何もできない人間になってしまう。


「もっとぐずぐずに依存されたいんですけどねえ。奈々子さんは意外と流されない」

「意外と、って」

「そうそう。その上冷静なんですよ。僕に好意的な目を向けているように見えて、実は冷静に分析して対処している」


 仕事柄ですか? なんて冗談めかして笑っているけど、目が全く笑っていない。私の背に冷や汗が流れた。

 こんな風に急に私の心の底を見透かされたとき、一気に逃げ場をふさがれたような不安と恐怖を感じてしまう。ユウのこういう所が苦手だ。


「僕の“好き”と貴女の“好き”は意味が違う。貴女は僕が怖いんでしょうねえ」

「そんなこと」

「ほら、そういうところ」


 自然と箸の動きが止まって、最後には手を離してしまった。箸が行き場を失くして皿の縁で転がっている。

 ユウがテーブルから身を乗り出してこちらに距離を詰めてきた。のけ反りたいのを我慢して動かずにいると、両手が伸びて私の頬を包みこんだ。強制されているわけではないのに目が反らせない。


「でもいいんです。貴女は本当に、僕を好きになってくれるみたいなので」


 ユウの口から擦れた笑い声が漏れる。けれど未だに目は見開いたままで笑っているようには見えない。

 私の不安が伝わったのか、更に顔を近づけてくる。反射的に固く目をつぶった。


「そんなに身構えなくても振り払えばいいのに。押さえつけてるわけじゃないんですよ?」

「そ、うなんだけど……」

「据え膳ですよねえこれ。襲えないなんてもったいない」


 恐怖で身構えた自分が馬鹿らしくなってきた。目を開けてユウをジト目でにらみ返す。いつの間にかガチガチに強張っていた体の力をゆっくりと抜くと、言いようのない恐怖はどこかへと消えた。

 ユウはいつもの楽しそうな、それでいて不満げな顔をしていたので安心した。


「こんな怯えてかわいそうですねえ」

「誰のせいだと思う?」

「僕ですね。あああかわいそう。本当は抱きしめてよしよししたいところです」


 これは変態特有の思考回路なのだろう。私には何を言っているのかさっぱり分からない。


「貴女に触れたらいいのに、どうして僕は幽霊なんでしょうね」

「ユウが知らないならもう誰も知らないと思う」

「こんなんじゃいつか僕は欲求不満でおかしくなりそうです」

「もうすでにおかしいから大丈夫なんじゃないかな」

「いいんですか? そんなこと言って」

「いいんです。こんなことも言えない恐怖で支配された関係はいらないです」

「……やっと貴女の本音が聞けたような気がします」


 触れてはいないはずなのに、ユウは心底嬉しそうに微笑んで元の位置へ戻っていった。やっと解放された。

 安心して食欲も回復してきたので、私は再び箸を手に取った。

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