第32話 氷菓
「ごちそうさまでした、さすがに片付けはやるから」
本当は食後は少しゆっくりしたいけれど、一息つくとユウがすかさず食器を片づけてしまうだろう。至れり尽くせりも度が過ぎると恐怖を感じるものだ。ユウにではなく、自分自身に恐怖を感じてしまう。
ユウに先を越されないように、私は食べ終わって手を合わせた直後に急いで立ち上がった。
「座っていていいですよ」
「やると言ったらやるの。このままじゃダメ人間になりそう」
「大丈夫ですよ、いずれそうなります」
「えええ……」
それのどこが大丈夫なんだ。不安しかない。
べったりと後ろを憑いてくるユウを軽くあしらいながら食器を流し台に突っ込む。水を流してスポンジに洗剤をつけたとき、妙な違和感がした。洗い物をしながら違和感の正体を考えて、数秒。
……いつの間にかスポンジが新しくなってるんだ。しかも私はそれにすぐ気が付かなかった。
「ねえユウ、スポンジ変えた?」
「はい。え、でもそれ先週の話ですよ」
「えっ」
「気付かなかったんですか?」
「……うあああああもう私はすでにダメ人間だったあああ」
「あは、何を今更」
思い返せば私は数日、いや下手したら一週間以上もの間台所に立ってなかったかもしれない。時間の流れはあっという間だ。“少し”怠けていたつもりが“少し”ではなくとんでもない日数だったらしい。絶望した。
気力を失くしてがっくりと流し台でうなだれた。
「口では抵抗していたんですがねえ」
「じ、自立しないと」
「ああほら、そんなにうつむいたら髪が濡れますよ」
すごく自然にユウの手が伸びてきて私の髪をかき上げようとした。けれど触れることは無くただすり抜けていくだけ。
なんでもできるのに私には触れない。そのことを忘れていたのか、指がすり抜けた瞬間「あっ」とユウの間抜けな声が聞こえた。
体を起こしてユウの顔を見上げると、気まずそうな表情だ。
「そうでした」
困ったように笑ったので、私は思わず眉をしかめてしまう。そんな顔するなよ。私はさっさと洗い物を済まして濡れた手をタオルで拭いた。もう一度顔色を伺うと寂しそうな顔と目が合った。
こういう時、気が利く人間なら何か上手い言葉でもかけてやれるのだろうか。生憎私はそうではないのでなんて声をかけたらいいのか分からない。無言のままのそのそとリビングに戻り腰を下ろすと、なぜか笑い声が聞こえてきた。
「え、なに」
「すみ、ません。貴女をからかうのが面白くて、ふふ」
「からかうって……あ!」
さっきまでのは演技だったのか! ひどい話だ、奴は人の良心を弄んだらしい。すると非常に満足した様子のにやにや顔が私を覗き込んできた。ケンカを売っているようにしか思えない。
「心配して損した。もう次しんみりしても嘘だと思うわ」
「そんなこと言わないでくださいよ、ね?」
「断固拒否する」
そもそもユウの心臓は鋼でできている上に毛が生えているレベルだった。こんなことで傷ついたりしない。本当に心配して損した。二度目はないだろう。腹いせにユウの頭をチョップするも不発に終わった。まだにやにやしていて腹が立つ。
むしゃくしゃしたらじっと座っていられなくなってしまった。さっき夕飯を食べたばかりだというのに私は冷凍庫の扉を開ける。冷凍食品たちにまぎれて入っている一箱六本入りのバニラ味の棒アイスが目に付いた。
あとでヒマな時に食べようと思ってさっき買ってきたのにまさか今日食べてしまうとは。アイスの箱を雑に開けて、その中の一本を取り出して口にくわえながらリビングに戻る。
「おや、やけ食いですか」
「
アイスをくわえたまま文句を垂れる。行儀は最悪なのにユウは注意することはせずにまだにやにや顔を保っている。怒りに任せて勢いよくカーペットの上に座り込んだら想像以上に重たい音と衝撃が走って後悔した。“どすん”はちょっと恥ずかしい。
「うっ」
「機嫌直してくださいよ。悪かったと思ってますから」
「表情に誠意がない」
「そんなあ」
本当に悪かったと思っているなら、ぜひその顔を鏡で見てきてほしい。まあユウは鏡に映らないのだけど。
反省の色が一切見えないユウの目が私の全身を上から下まで舐めるように見てくる。ため息がでた。
「くわえたままじゃ溶けてしまいますよ」
「まあ、そうなんだけどさ」
ユウと目を合わせるのが嫌で目線を下に向ける。それでも視界の端にどうしても映って落ち着かない。
奴がいついかなる時も私を観察してくる事には慣れた。けれど、こういった劣情丸出しの目線はだめだ。どうしたらいいか分からなくなる。
背を向けてもすばやく回り込まれて顔を至近距離で覗き込まれた。万事休す。
「おいしいですか?」
「正直味わうどころじゃない」
せっかくお風呂に入ったのに甘いものをこぼすなんてことはしたくない。しぶしぶ口からアイスを引き抜いて、溶けて垂れてしまいそうな部分を舐めとった。
いつもなら大胆に舌を出すけど、今は三ミリくらいしか出せなかった。それでもユウの喉がごくりと大きく動くのが聞こえてくる。泣きそうになった。今すぐ裸足で逃げ出したい。
「ああ……」
「変な声やめて」
「もっと舌だしてくださいよ、よく見えないじゃないですか」
「……」
ぷつん。
私の中で何かが吹っ切れた音がした。もう知らん。
大きく口を開けて、犬歯でアイスを噛み千切った。思い切り、勢いよく、ワイルドに。
アイスが味わうことなく半分以上なくなってしまったけど仕方ない。案の定ユウが青ざめたので気分が良かった。
「ユウのだと思って噛み千切ってやった」
「ちょ、調子に乗りました……」
「分かればよろしい」
縮こまってやっと大人しくなった。もう安心だろう。私はユウに背を向けて残りを味わった。落ち着いて食べる好物はやっぱり美味しかった。
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