芽生え・逃げ場がない

第19話 倉庫


 給料日という単語は好きだ。だいたいいつもと同じ給与で大した額ではないのだけど、お金がもらえることを喜ばない人間はいないと思う。

 明日から同じ毎日を繰り返すための資金。いくら日々を惰性だ無味だとあきらめていても、これが無かったから繰り返すことも出来なくなるのだから。


 というわけで私は先ほど事務所で貰ったばかりの給与明細の封を早速こじ開けた。糊がバリバリと音を立てる。


「わ、奈々子さんのお給料……」


 思っていたよりもテンションの低い声が背後から聞こえてきた。なんだよ、と思って振り返るとやはりユウとばっちり目が合う。

 なぜ可哀想な人を見る目なんだ。腹立つなあ。


「市瀬さんどうしたんですか? 神妙な顔して」

「うん? うん……まあ、一人暮しにギリギリかなあって」

「そうですよね……はやくボーナスほしいなあ」


 後輩・結城ちゃんは給与明細を見ながらため息をついた。まあ、私は仕方ないとあきらめてしまっているけど。

 ふと時計に目をやると十二時五十分。そろそろ昼休みも終わってしまう。仕事を再開しなければ。

 私は分析室内の個人用引出しに明細用紙を雑に突っ込んだ。そして大きい伸びを一つ。


「一発どかんと宝くじでも当たらないですかねえ」

「そういや、宝くじで一等が当たる確率と交通事故で死ぬ確率が一緒ってほんとかな」

「やだあ早速夢壊された!」


 宝くじの確率は1000万分の1らしい。それじゃあヤンデレ幽霊にストーカーされてしまう確率はどれくらいだろうか。何億、何兆分の1か。決して高い確率ではないだろうなあ。


「高額当選して生活費が確保できたら、安心して奈々子さんを閉じ込……夢のおくりびと生活ですね!」

「……はあ」


 今「閉じ込める」って言いかけなかったか。私は聞き逃さなかったぞ。自分のこめかみがぴくりと動くのを感じた。

 しかも億りびとは株やFXでの成功者であって、宝くじなら億万長者と呼ぶべきだ。けれど結城ちゃんがいるのでそんな突っ込みも言えない。生殺しだ、むずむずする。

 なにはどうあれ私は生まれて初めて宝くじに当たりたくないと心の底から思った。


 そうしてぐだぐだしているとすぐにチャイムが鳴ってしまった。音楽が終わる前に滑り込みで先輩が分析室へと駆け込み、扉をものすごい音を立てて勢いよく閉めた。どうやら今日は話に花が咲きすぎてしまったようだ。先輩は肩で息をしながらも充実した顔をしている。

 私は何も見なかったことにして仕事を再開する。


「うわあ大変です市瀬さん」

「どうしたの」


 集中しようと思った矢先に結城ちゃんが情けない声をあげた。やれやれと思って振り返ると、案の定結城ちゃんは大して焦っていないようなきょとん顔で私を見つめていた。


「キムワイプ切らしちゃいました」

「ええ」

「あ、引出しにもないじゃない」

「最後取ったの私なんですけど、今日の分は間に合うかと思って放置しちゃいました」


 仕事柄、工業用のペーパータオルは必需品とも言っていい。呆れる先輩と私をよそに結城ちゃんは「ごめんなさーい」と泣きまねをする。

 けれど別に買い置きが無いわけではない。購入するときは一度に大量に注文するので、この部屋に置ききれない分は別棟の倉庫に保管してあるのだ。

 ちょっと面倒なだけで、大事件ではなかったので安心した。


「なんだあ、もっとすごい事をやらかしたかと思った」

「逆流事件とか」

「そのことは忘れてくださいー!」


 結城ちゃんの過去最大のやらかし黒歴史を掘り返して笑っていると、背後からユウの恨めしい声がぶつぶつとBGMで流れてきた。


「僕の知らない話で盛り上がってる……」


 まあ、後で気が向いた時に教えてやらないこともない。けれど私以外の他人に驚くほど興味のないユウの事だ、きっとすぐにこの話題すらも忘れてしまうのだろう。

 私がため息をついて苦笑していると先輩が「やれやれ」と立ち上がった。


「無いと困るし。取り行ってくるわ」

「ええ! 私行きますよお」

「って言って全然手が離せない感じじゃない」

「でも悪いですよ」


 確かに、今の結城ちゃんの両手は検査器具の調整でふさがっている。ここで手を離したら大変なことになりそうだ。

 ……というより、なんでそのメスシリンダー水漏れしてるんだ?


「いやいや、ちょうど区切りが良いんで私が行ってきますよ」


 とりあえずこの「私が」「いえいえ私が」という不毛な遠慮の応酬を何とかしなければ。これは一度始まったら終わりのタイミングが分からないのだ。

 分からないから、謎の意地の張り合いにまで発展するときもある。そうなる前に第三者が名乗り出るのが一番だ。私は素早く立ち上がって扉まで歩いてゆく。


「そう? じゃあよろしくね」

「お願いしまーす」


 切り替え早いなあ。なんだか、私の立ち位置は毎回こんな感じなような気がする。

 まあ楽でいいけれども。

 私は笑顔で二人に手を振って、部屋の扉を開けて歩き始めた。



「……そんなに遠いんですか?」

「まあ、遠いよね」


 ガラガラと年季の入った台車を押しながら通路を歩く。その私のすぐ後ろでユウはふわふわ浮きながら後を付いてきた。重力がないのはどんな気分だろうと思ったけれど、くだらないのですぐにやめた。


「僕に実体があったら手伝えるんですがねえ」

「ユウはそんな少女マンガ展開じゃなくて、苦労してる私を物陰で観察してニヤニヤしてるイメージ」

「失礼な! ……でもそう言われればそんな気もしますね」


 今がまさにそうだ。首は動かさずに目だけで訴える。

 この時間の通路や外は人通りがほぼないとはいえ万が一がある。ばったり誰かにはちあわせた時に怪しまれないよう、ユウと堂々と話さないことにした。できるだけ小声で、顔も動かさないように。

 でもなかなかポーカーフェイスは難しい。


 建物と建物をつなぐまっすぐな連絡通路を抜けて、私たちは別棟に足を踏み入れた。ここからは製造課なのでそこそこ人が行き交っている。私はすれ違う人にあいさつをしつつ足早に向かった。

 ユウも空気を呼んだのかもう話しかけてこない。助かる。


 さて、ちゃちゃっと用事を済ませてしまおう。私はさらに歩く速度を上げた。

 ……この先に起こる悲劇など知らずに。

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