第11話 恒例
人間の慣れ、とは恐ろしいものである。
「おはようございます。目を閉じてても分かりますよ? 起きましたね」
目覚めの一発。
私は一週間ほど続く朝の恒例のユウのあいさつに慣れてしまった。毎朝ビックリしていたら身が持たないと、自分の体も察したのだろう。
もう今ではなんとも思わなくなっていた。そして目を閉じたまま眠りから覚める技術も身についたので、深呼吸して心の準備をする余裕もできた。
また、ユウが至近距離で見つめているのだろう。
すー、はー。今日も今日とてプライバシーはないぞ、がんばれ私。
「はあっ……はあっ……」
うん? なんだか今日は奴の息が荒い。嫌な予感がする。
「奈々、子さっ……」
いやいやいやいや。
目を開けたくない。でも開けなきゃたぶん終わらない。背中に嫌な汗を感じた。
おそるおそる片目を開けて確認する。
「ひえっ」
思わず目を見開いてしまった。いつもより顔の距離は遠いが、衝撃のシチュエーションがそこにあった。
ユウが私に覆い被さっている。まるで押し倒されているかのようだった。
そしてユウの顔は恍惚そのもので……
「ふざけんな! 朝からかっ飛ばしやがってええ!」
ベッドから転がり落ち、逃げることたぶん三秒。私は涙目になりながら廊下を這いずっていた。
「すいません。目を閉じたまま悩んでる顔を見てたら、こう」
「説明はいらん!」
最大級の怒りを込めて睨んでみても、ユウには効かない。
ただ照れくさそうに笑って、軽く謝ってきた。てへぺろじゃ済まされないんだけど。
「ほら、あんまり騒ぐと迷惑ですよ」
「ぐう……」
しまった。アパート暮らしなんだから、もっと気を付けないと……って誰のせいだ!!
「怒りが収まらない」
「でもほら、まんざらでもなさそうじゃないですか」
「どこが?」
どこをどう見ればそうなる?
軽蔑でいっぱいの表情をしても、ユウは楽しそうに私を見下ろしていた。効いてない。
「僕、貴女としばらく一緒にいてだんだん分かってきたんですよ。貴女が本当に嫌がってるのか、まんざらでもないのか」
素直じゃないですねえ。と嬉しそうにニコニコ笑っている。
いやいや、全部嫌がってるよ。
「貴女はやさしい人です。こんな僕に、ほだされてしまっているんですから」
「そんなこと、」
「いいえ。貴女はだんだん、僕に本気で怒れなくなってきてますよ」
そうなのか? 私自身はそんな気は全然なかったのだけど……
そうやって自問自答して悩んでいる内に、先程までのユウへの怒りが収まっていることに気が付いて、少し恐怖した。
ユウはしたり顔でただ私を見下ろしているだけだった。
***
「奈々子さん、デート服もかわいいですね……って着替えようとしないでください」
デートという単語が気に食わない。せっかく着た服をまた脱ごうとすると、ユウに全力で止められた。
そんなに気合を入れた可愛らしいものではない。ただの休日のお出かけ服だ。
でもまあ、いつもの通勤服が適当なのは事実だ。どうせ制服があるし、その上に白衣も着るので誰も通勤服のチェックなどしない。自由なものだ。
そんな服装と比べたらいくらかはまともかもしれない。秋らしい薄茶色の花柄のチュニックに、黒スキニーだったとしても、だ。
「もう十月も終わるのにまだ暑いね。何着ていいのか分かんないや」
今はまだ朝だから涼しいけど、昼になったら日差しが容赦なく照り付けてくるだろう。とても秋とは思えない。去年もそうだっただろうか?
ユウの返事がないので様子を伺うと、なにか考えているようだ。口をへの字に曲げている。しばらくして、予想外の言葉が返ってきた。
「暑いのですか」
「分からないの?」
そう聞き返したらユウは困ったように笑う。あ、そうか。
「幽霊だから、気温が暑いか寒いか感じ取れないのか」
「まあ、そういうことです」
「そっか」
私にしてみればただの世間話のつもりだった。でもユウにとっては返答に困る会話だったのか。私もちょっとだけ考える。
「昼になると、まだ夏みたいに暑いんだよね。Tシャツでも良いくらい」
「十月でそれは珍しいですね」
「やっぱりそうだよね」
それでも嫌な顔はせずに会話は続けるようだ。お人好しなのか、優しいのか変態なのかその本質は分からない。
「幽霊の身体って意外と不便だね」
通り抜けも人目をはばからずに暴れることもできる。覗きもケータイのハッキングもお手の物だ。この
けれど暑い寒いどころか触覚も、食欲も睡眠欲もないのは果たして「便利だ」といえるのだろうか。なんだかつまらない。私だったら嫌だなあ。
「そうでしょうか? ……ああ、そうだ」
何を思いついたのか、ユウはゆっくり私に腕を伸ばした。頬を撫でる動作をするけど、当然手の感触などはない。ひやりとした空気がまとわりついた。
ユウは残念そうに微笑む。
「貴女に触れないのは、不便ですね」
大事なものを愛でるようなまなざしにどきりとした。ユウの身体が幽霊じゃなかったら、私の頬はその両手に優しく包み込まれているのだろう。
感触を想像して思わず目を閉じかける。
って、違う!
「ん!? なんかつられて切なくなったけど、むしろそれは良い事だよね?」
「チッ」
「チッて。危ない危ない、毎日が貞操の危機になるところだった」
今朝の忌まわしき事件を忘れてはならない。それでなくとも毎晩狂気じみた目で私の眠りを観察しているような男だぞ。実体を持ったら恐怖でしかない。
あやうくまたほだされるところだった。
「僕にまで貞操を守ってどうするんですか、捧げてくださいよ」
「えええ……」
暴論だ。やっぱりろくな奴じゃない。
気持ちを持ち直してキッと睨んでいてもどこ吹く風。ユウは涼しい顔でただ笑った。
……あきらめよう。
「とりあえず、もう出かけるよ」
「どちらへ?」
「自然公園。ここから車ですぐだし、大きいところ」
「散歩デートですか、いいですねえ」
だからデートって言うな。反論する気も失せて、無視して靴を履くことにした。休日用の歩きやすいスニーカーを取り出す。
どこか適当なところでも、思わぬ記憶の手掛かりがあるかもしれない。そして成仏するかもしれない。まずは行動あるのみだ。
「いつもは花見の季節くらいしか行かないけど、たまにはいいかなって」
「良いと思いますよ」
戸締りも確認したし、出かけるとしよう。歩き出す私の後を、ユウは嬉しそうに鼻歌を歌いながらついてきた。
「……ってその歌」
「あれ? いつも車で聴いてますよね。好きなのでしょう?」
「うん、まあ。うん」
歌覚えるの早いな。口には出さず、心の中だけでツッコミを入れた。
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