第8話 活路
午前九時。
「市瀬さあん、試薬切れそうです」
「先週発注してあるから明日には届くんじゃない?」
「そろそろ測定終わるわよ」
「あ、はい」
「あは、格好いいですねえ奈々子さん」
気にしたら負け。気にしたら負け。私の頭上でふわふわ浮きながら話しかけてくるユウを無視しながら心の中でそう繰り返す。
明らかにユウは私が反応を示すことを望んでいる。いつまで無反応を続けられるか試して遊んでいるのだ。その手にはのるものか。いつもと変わらない手つきで試薬を片付けた。
基本的にこの業務はルーチンワークだ。何年もこなしていれば特に意識していなくとも手が勝手に動いてゆく。そういうところが苦になるか、楽だと思うかは人によるけど、私は断然後者だ。
やれば必ず結果が出る。結果は是か非かの二択しかない。そういうところも好きだ。
「そういや市瀬さん引越ししたんですね」
「よく知ってるね」
「転居届出してるの見ちゃいました」
そういうわけで、本当に集中している時以外はこうして軽い雑談も混じったりする。互いに手は動いたままで、相手の顔は見ずに会話は続く。後ろでカチャカチャと器具をいじる音が小さく聞こえている。
「なにかあったんですか」
「なにって?」
嫌な予感がするが、聞き返さなくてはならないのだろう。
この後輩は普段から色々なことを聞きたがる。でもそれには悪気はないし、私に特別興味があるわけでもない。愛想がよく、人懐こいだけなのだ。
「ほら、同棲……とか」
「ただの一人暮らしだよ」
分かっていても一瞬動きが止まってしまった。でもこういうのは間を置くと変な疑いをかけられることが多い。私は早くこの話題を終わらせたいので即答した。グッジョブ。
「同棲、みたいなもんじゃないですか。ねえ?」
ああもう、ほら見ろ。余計なものが引っかかってしまった。同意はしないぞ。ユウは憑りついているだけだ。思わずチラリと頭上を見て後悔した。しまった、意地の悪いニヤケ顔と目が合ってしまった。
「本当ですか? 怪しいです」
君もそこで食い下がるな。いくら否定しても「ふうん」とか誤解した返事が来る。どうやら終わりがなさそうなので強行手段に出ることにした。
「ねえ結城ちゃん」
「なんですか?」
「その後ろのやつ、全部今日中だよ。大丈夫?」
「えっ、そうだったんですか」
こういう終わりの見えない会話には仕事の話で中断させるに限る。後輩・結城ちゃんは「やだあ」と楽しそうに愚痴を漏らして仕事に集中し始めた。
「仲良いわねえ」
ずっと私たちの隣で話を聞いていた先輩が独り言のように呟いた。そうですねえ、と同じく呟いておく。
この分析室は先輩、私、後輩の三人しかいない狭いコミュニティだ。人数も少ない上に仕事の内容からして互いの成績を比べて争うこともない。忙しい時はもちろん忙しいが、人間関係は穏やかなものだ。
「とても平和な職場ですねえ、羨ましいです」
私の背後で、ユウがどこか寂しそうな声でしみじみと言った。
その発言からユウはなぜか大人しくなり、静かにただ私の姿をぼんやりと見つめるだけになった。たまに目が合うと嬉しそうに首を傾げて微笑んだ。三白眼は感情表現がとても豊かだと思う。笑うととても楽しそうに目を細めるのだ。
……黙っていると格好いいんだよなあ。惜しいよなあ。
しかし黙ったままだとそれはそれで気になるので、ついつい仕事の合間にユウについて考えてしまう。なぜ急に大人しくなったのか。仕事に集中しては考え、我に返りまた仕事をこなす。
あ、また目があった。
そして特に大きな問題もなく、今日も一日の終わりを告げる終業のチャイムが鳴った。それに合わせて皆が散り散りになって帰り支度を始める。私もぼんやりと考えながら車へと向かった。
もしかして、ユウは以前こんな環境の中にはいなかったのかもしれない。きつい仕事だったとか、人間関係が良くなかったとか。生前のことを思い出したのかも……って、
「ああ!!」
乗り込んだ車の中で思わず叫んだ。当然のように隣に座っていたユウが驚いて飛び上がる。なんだ私、どうしてこんな重要なことに今まで気が付かなかったんだ!
「もう、どうしたんですかいきなり」
「記憶だよ! 記憶!」
この幽霊は記憶喪失なんだった。ずっと私のストーカーばかりしているので忘れてしまっていたが、ユウは生前の事を憶えていないらしい。
「ユウは、自分の記憶を取り戻したいと思わない?」
「ええ? うん、まあそうですねえ」
ユウが私に執着しているのは代替行動に違いない。記憶が無いことと、取り戻すことへの不安感から逃れるために、身近なものに熱中して忘れようとしているだけ。でなければ見ず知らずの普通の人間にここまで恐ろしい執着もしないと思う。
あとは、記憶を取り戻すことで何か成仏のカギが分かるんじゃないか。穏便に、そして早く成仏してくれるなら万々歳だ。
そんな希望も込めて私はユウに詰め寄った。
「なんでそんな
「だって……こんな歳で死ぬなんてよっぽどの理由じゃないですか。事故にしろ病気にしろ、もし殺人だったら思い出して後悔しそうです」
「……それもそっかあ」
確かに、ユウの見た目年齢はどう見ても二十代だ。童顔だとしても三十代前半、とまではいかないだろう。
そして何かものすごい未練があったからこうして成仏していないわけで。思っていた以上に繊細な問題だったらしい。
事を急かすのも酷だったな。いくら悪霊と言えど配慮に欠けていたかもしれない。それにあまりにも闇が深くて、思い出した途端に暴れまわるという可能性もある。もしくは私には抱えきれないほどの大事件が発覚しても困る。
うーん、悩みだしたらきりがないな。
「でも、このままじゃ何も進まないと思うよ? ちょっとずつでもさ、どこかに出かけたりして記憶の断片でも探してみない?」
「……それは、貴女も一緒に来てくれるということですか」
「まあ、憑りつかれてるんならそうなるよね」
「ふう……そうですねえ」
ユウは悩むそぶりをして顔を反らした。直前の表情がゆるみきっていたのでその行動に何の意味もないが、とりあえず返事を待つことにする。
「正直に言って僕自身の記憶にはあまり興味がないんですが、貴女と出かけるのは楽しそうです」
「さいですか」
「デート、ってことでいいんですよね?」
「違うと思う」
即答で否定したにもかかわらず嬉しそうに笑いだすユウに、私もつられてクスリと笑ってしまった。なんだかだんだん憎めなくなってきた。私は疲れているんだろうか。
ここまでストレートに好意を表現される、ということに慣れていないからだろうか。行き過ぎた言動や表現は目立つが、私を実際に傷つけることはしていないせいもあるかもしれない。自分でもよく分からない。
ふとフロントガラスを見ると、遠くの方で先輩がこちらを見ていた。
一気に血の気が引く。いつから見られていたんだろう。けっこう長い時間を車の中でユウと話してしまった気がする。急いでエンジンをかけた。
「まあとりあえず帰ろうか」
「はい」
何はともあれ、一生こんな状態が続くわけではない。私は
ユウの鼻歌を聴きながらアクセルを踏み込んだ。
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