出社日・しつけも必要
第7話 諦観
「いってらっしゃい、奈々子さん」
「いってきます」
私は笑顔で、玄関のドアを閉めた。
週明けの出勤日というものは総じて
これほどまでに会社に行くのが楽しみになる日が来るとは夢にも思わなかった。
今日はなんて清々しい朝だ。澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。そして車に乗り込み、お気に入りの音楽をかける。この間買ったばかりの新譜だ。私の大好きな歌手の声を目を閉じて存分に聴く。
「へえ、こういう歌が好きなんですねえ」
「うわあああああ!」
当然のように助手席に座っていたユウに渾身の絶叫をあげた。
いつのまにそこにいたんだ。奴が声を出すまで気付かなかった。
「いやいや、さっき見送りしてたじゃん!」
「誰が留守番すると言いました?」
「ぐう……」
なんだよもう。じゃあ最初のはなんだったんだ。茶番か。じろりとユウを睨むと、なぜだか頬を染めた。意味不明。
「ほらほら、早く出発しないと遅刻してしまいますよ」
「ちくしょう……」
私は観念してエンジンをかけた。
せっかくの素晴らしい朝が台無しだ。もうどうにでもなれ。
「ドライブデートって感じでいいですねえ」
「……」
返事をする気になれない。運転に集中している
「そういえば、貴女のケータイをハッキングしてみたんですが……」
「は!?」
決め込んだ早々反応してしまった。誤ってハンドルまで切りそうになるのをぎりぎりでこらえる。よくやった、私。
「貴女はSNSはやらないのですね。秘密主義者は良い事ですが、僕としてはもっと貴女の個人情報を……」
「は、ハッキングってどういうこと!?」
「ああ、特別なことはしてないですよ。幽霊と電子機器は相性が良いみたいで、簡単に潜り込めました」
「ああ……」
そういえばそんな話もあったなあ。怖い話とか、ホラーゲームとかでは常識の域ですらある。もっとちゃんとしてくれサイバーセキュリティ。このままじゃ自由自在に幽体離脱できる時代になったらハッキングし放題じゃないか。とんでもないな。
ともかく冷静に信号を右折した。落ち着け私、会社はすぐそこだ。
「電子の世界に“住める”って感じですかねえ。電話とか、GPS的なことも色々できそうです」
「やめてよお」
「やめません」
ユウは嬉しそうに断言した。ついでに「かわいい」と言って私の頬を撫でる。撫でられた場所にぞくりと悪寒が走った。
「ずっと、ずうっと見守っていますね」
家を出発した時の清々しい開放感は微塵も残っていなかった。私は死んだような目でひたすら運転をする。
「ねえユウ」
「なんです?」
「会社じゃあ、ユウと話せないから。怒らないでね」
「もちろん分かってますよ! 一人でしゃべる変な人になってしまいますからね。僕はそんなに心の狭い男じゃないですよ」
「えええ……」
昨日の可愛い我が弟の前での所業を忘れてしまっているのか、それともあんなのは怒りのうちには入らないのか? 後者だとしたら手が付けられない。恐ろしいのも休み休みにしてほしい。
ああ、もうすぐ会社についてしまう。どこに行けばこの恐ろしい災厄を振り払えるのだろう。必死に打開策を探そうとする一方で、どこかあきらめかけている自分もいた。逃げられるのか? 本当に?
「大丈夫です。心配しなくても、見守っているだけにしますから」
「うん……」
ユウは優しい声で約束の言葉を口にした。まあ、期待しないでおこう。気持ちを切り替えねば。私は深く深く息を吐いた。
あの交差点を曲がれば会社は目の前だ。
***
午前八時三十分。始業のチャイムが鳴る。
「おはようございます」
「おはようございます」
一日の始まりはあいさつから。朝礼にて本日の業務の流れが責任者から私たち平社員に伝達される。まあ、内容はいつもとあまり変わらないのだけど。
「本日午後から新製品のラインをテスト稼働しますので初流は研究所と立ち合います。今回の分析結果は生産管理部まで回してください。」
ああ、だめだ。集中できない。
「白衣っ……! 奈々子さんが白衣! どうして事前に教えてくれなかったんですか! ああ!」
私の背後でうるさい。
「それと昨日の分析結果で……」
「白衣を着ているということは研究職ですか!?」
違うわい。分析業務だわい。
ツッコミを入れたい気持ちをどうにか抑えて、朝礼の話に全力で耳を傾けた。誰か奴の口を塞いでくれ。
「奈々子さんの白衣姿……あは」
白衣に幻想を抱く人間を初めて目の当たりにした。なかなか衝撃だ。そもそも実用的な白衣は生地が分厚く、もちろん露出もないのでどんな体型の人間も寸胴に見えるものだ。あまり見栄えのいいものではないので、現実の白衣で興奮する上級者はあまり存在しない、と思う。
ユウはとんでもなく上級者だ。真後ろにいるので今どんな顔をしているのかは分からない。でもろくでもない表情をしていることは確かだ。
「念写したい……ああ」
「以上です。お願いしますね市瀬さん」
「はい」
朝礼の話に集中しているのにユウの声が脳内に殴り込むように無理矢理入ってくる。真顔を崩さないようにするので一日の体力と精神力を使い果たしてしまった気がした。
早く仕事終わらないかなあ。
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