第6話 心配
ピンポーン。
まさかまたさっきの人が戻ってきたのだろうか。恐る恐るドアの小窓を覗くと、今度は良く知る人物がそこにいた。弟の
「はいよ」
安心してドアを開けると人懐こい笑顔が立っていた。生まれた時から周囲から愛されてきた者特有の、嫌味のない純粋な笑顔だ。私には一生かかってもできそうもない。
前に会った時より髪色が明るくなった気がする。
……本当に血が繋がっているのか?
「よお」
「残念ながら散らかってないよ。上がって」
「うん……」
珍しい。歯切れの悪い返事に首を傾げた。啓太はゆっくり下を見る。つられて私も足元を見ると……
「あっ」
「ねえちゃん、俺が来る前になんかあった?」
そこには怪しい勧誘のチラシが無数に散らばっていた。
***
「災難だったね。でも何もなくて良かった」
屈託のない笑顔を見せながら、啓太は私の淹れたアールグレイをすすった。ちゃぶ台テーブルは一人用なのでこうして向かい合って座るとやけに相手との距離が近い。特に会話も無くなると啓太はきょろきょろと周りを見回し始めた。
「なんか実家の部屋まんまだね」
「まあね」
寝具の位置や小物まで一緒なのだから仕方ない。でもこの方が落ち着くし気に入っているのだ。私もアールグレイをすすった。
「仲が良いんですね」
「……」
「羨ましいですねえ、いいなあ」
ユウはというとまだ私の体に蛇のように絡みついている。そのせいか体が重く感じた。
……確かに私たちの関係は良好だと思っている。これまで喧嘩らしい喧嘩もしたことが無い。まあ歳が五つも離れているせいもあるが、私と弟はいわば影と光。あまりに人種が違い過ぎると争う火種がないのだ。お互いが微笑ましく互いの生態を見守っている。
「ねえ、無視しないでくださいよ」
そんなこと言われても、今ここでユウと会話したらおかしいだろう。弟にはユウは見えていないんだし。
それでもうるさいのでとりあえず私の胸から飛び出しているユウの右手を握る動作をした。実際に触れてはいないのだが一応は満足してくれたようだ。大人しくなったので一安心する。
「ねえちゃん、やっぱ具合悪いの?」
ううん、と首を振るが言葉にひっかかった。
「やっぱ、ってどういうこと?」
「母さんが心配してたし、俺もさ……」
変に言葉を濁されて私は眉間にしわが寄った。無言を貫いて次の言葉を促した。
少し時間が空いたが、啓太は観念してため息をつく。
「さっきの電話、すごいハウリング音がしたよ。ねえちゃんが言った通り、この部屋ちょっとやばいんじゃないの」
「え……」
思わずユウの顔を見やる。すぐに目を反らされた。この幽霊、自分がやった自覚はあるらしい。
電話のハウリング音は心霊現象のド定番と言ってもいい。ノイズやラップ音に並ぶ恐怖の権化である。よくホラー映画で観るが、まさか自分の身に降りかかることになろうとは。
「母さんも昨日の電話で強がったらしいけど、ねえちゃんの後ろで誰かの笑い声が聞こえたって」
「えええ……」
思いきり実害が出てるじゃないか。やっぱりユウは無害な幽霊じゃなかった。
啓太は心配そうな顔で私の顔を覗き込む。男なのに丸くて大きな目だ。アイドルか。その遺伝子、ぜひ私も受け継ぎたかった。
「今日鏡見た? 顔色が真っ青だよ」
「うそだあ」
「今からでもこの部屋キャンセルできないの? 絶対やばいよここ」
弟の心配は素直に嬉しい。でも、この部屋のせいじゃないんだよなあ……
顔色もユウがまとわりついているせいだろうし。おかげで体が真冬のように寒い。身体の内側に氷を当てられているかのようだ。
どうにかへらへらと笑ってみせるが、納得してくれないようだ。どんどん啓太の顔が険しくなっていく。
「ちょっと慣れない環境で寝つきが悪かったんだってば」
「本当に?」
本当ほんとう。何度か言い聞かせると、啓太はしぶしぶ納得してくれたようでうなりながら頷いてくれた。
そう、この部屋のせいじゃないのだ。だから引越しをしようがこの悪霊はどこまでもついてくるだろう。露骨に避けるんじゃなくて、何とか穏便に成仏してもらう他はない。
逆らうとひどい目に合うのは簡単に予想がつくので、分かりやすい拒否行動はするべきじゃないと思う。現に、私は今非常にピンチな状態である。
「いい弟さんですね……羨ましい……羨ましい……」
恨みのこもった声が耳元で繰り返されている。怖くてその顔は見れない。
「ならいいけど、我慢しないでよ」
「分かってるよ。心配ありがと」
とりあえず笑ってみせた。ぎこちなかったかもしれないが、それでも啓太は肩の力を抜いてくれたようだった。呆れたようにため息をつかれてしまった。
「そ。じゃあ俺そろそろ行くから」
「もう行くの?」
「これからデートですから。予定の無いねえちゃんと違って」
「うわあ滅べ」
そう。弟はモテるのだ。まあ姉の視点から見てもいい男なのだからその辺の女が黙って見ているはずもない。
しかし奴は高校から長い付き合いの彼女一筋なのである。しかも写真でしか見たことがないがとても可愛かった。そういうところもいい男ポイントのひとつだ。まるで欠点がない、どうなっているんだ。
「じゃあね。一人暮らしなんだからちゃんと戸締りしてよ」
「はいはい、どうもね」
最後にとんでもないマウントをとってきたとはいえ、なんだかんだ忙しい合間を縫って様子を見に来てくれたのだ。優しい奴だ。
重い体をひきずって啓太を見送った。玄関までが限界だった。笑顔で手を振り、がちゃんとドアの閉まる音が響く。
……もうだめだ。
私は力尽きてそのまま廊下に突っ伏した。見えないところでひとりでにドアの鍵が閉まる音がする。ユウか。
続けてジャラジャラと鎖の音までする。あれだ、玄関のドアのチェーンロックの音だ。用意周到だなあ。ぼんやりとそんなことを思っていた。
「……どこにも、行かせませんよ」
ユウが静かに、感情の分からない声色で呟いた。
「貴女は僕と一緒に……ずっと……」
ひやりと背中に冷たい風が
「僕にも体があったら……」
その声はひどく悲しそうなものになっていく。何か言ってやりたい気持ちになったが、だるくて唇を動かすことすら億劫になっていた。
ああ、今日は休日らしくのんびりまったりしていたかったのになあ。そんなことを考えて意識を保とうとしたが抗えない。ゆっくり自分の瞼が閉じていく。
「――、――――」
ユウが私の顔を覗き込むのが分かったが、声が遠くて聞き取れない。何を言っているんだろう。
そのまま、私は意識を手放した。
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