第3話 今後


「その荷物、重そうですねえ」


 忙しく荷物を整理している私の横で、幽霊はのんびりと言った。


「あんまり見ないでくださいよ」

「どうしてですか?」

「落ち着かないので」


 いちいち覗かれても困る。あ、しまった。このTシャツ穴空いてる。

 誰かと住むことなど想定していなかったのでこんな始末だ。とてもじゃないが人に、しかも一応男性にお見せ出来るものではない。私は何事もなかったかのように衣装ケースの奥のほうにTシャツを突っ込んで隠した。

 後で服屋に行こう……


 その後も幽霊はニコニコしながら正座で私の作業が終わるのを見守っていた。段ボールも潰し終わって、やっと住める部屋になったと思う。八畳一間、それに見合うだけの荷物しか持って来なかったので案外スムーズだった。やっぱり部屋の中が段ボールだらけだとよそよそしい感じがして落ち着かない。


 さてと。紅茶を入れてひと息つくことにした。狭くて椅子などは置けなかったので、この部屋にはちゃぶ台のような見た目のテーブルが一つだけだ。それでも充分満足している。寸発して買ったカーペットがふわふわで座り心地が良かった。


「お待たせしました」

「いえいえ、お疲れ様です」


 私が声をかけると、幽霊は嬉しそうに正面に座った。こうして話していると普通の男性のようだが、体が透けてるのを再確認する。


「そういえばまだ名前を聞いてませんでしたね。私は市瀬いちせ奈々子ななこです」

「素敵な名前ですねえ、奈々子さん」


 名前で呼ぶんかい。突っ込みを入れそうになるが我慢する。幽霊のペースに呑まれないように終始落ち着いて事を運ぼうと決めていたからだ。


「僕には記憶が無いものでして……」

「そういえばそうでしたね」

「僕のことはユウとでも呼んでください」

「分かりました」


 幽霊だからユウなのか。呼びやすい。

 次の話題はどうしようかと考えていると、急に寒気が襲ってきた。先週までは暖かかったのに季節の変わり目は嫌だなあ、と最初は思っていたがどうも違う。

 正面にいるユウが、まばたきもせずに私を見ていた。その視線が氷のように冷たい。口角は上がっているものの、笑顔ではない。より恐ろしい表情になってしまっている。


「呼んでください」

「えっ」

「呼んでください、名前」

「あ……えっと、ユウ」


 もう一回、もう一回とせがまれて数度名前を呼んだところで、ユウは満足そうに頷いた。そしてあれほど寒かった室内の気温も普段通りに戻った。なんなんだこの人は。


「良かった、呼んでもらえないのかと思いました」


 脅しをかけられたのだ、とようやく理解して戦慄する。人の体感温度まで操れるとは想像以上に厄介な相手らしい。触れられないとは言ったが、干渉できないわけではない、といったところか。

 これから冬になるのだし、私は冷え性なのだからやめてほしい。と、自分の中で茶化して恐怖を和らげる。しかしそんなに簡単に自分に嘘がつけるはずもなく、動揺を隠せず目が泳いでしまう。そんな私の困惑顔はまったく気にならないのか、ユウはまたニコニコしながらあいさつをした。


「これから一つ屋根の下、よろしくお願いしますね。奈々子さん」


 さて、これから私はどうなってしまうのだろうか。ユウの笑顔に対し、私は引きつった笑顔でぎこちなく頷くことしか出来なかった。



 ***



「お腹空いたなあ」


 紅茶も飲み干した頃、気が付けば日が傾き始めていた。小さな窓がオレンジに染まっている。時計を見ればまだ四時を過ぎた辺りだ。動いたせいかいつもより早くお腹が空いてしまったらしい。

 ……あとは緊張のせい、ということもある。今はユウの情緒は安定しているようだが、またいつ地雷を踏むか分からない。早く彼を振り切って外に出たくて仕方ない。


「買い物に行きますか?」

「とりあえず今日は外食してから必要最低限の買い物をしに行きます」


 今まで使っていた自分の日用品は実家から持って来たものの、予備を買っておくに越したことはない。それに冷蔵庫が空っぽだ。このままでは明日の朝、絶望してしまう。

 そうと決まれば早速出掛けよう。私はバッグを持って立ち上がった。


「せっかくなのに、自炊しないんですか?」


 ユウが私の背中に声をかけた。そんなの決まっている。私は振り返り堂々と言い放った。


「疲れたので、そんな気力はないです!」


 貴女の手料理が見たかったなあ、なんてぼやきは無視して玄関を飛び出した。

 良かった! これでしばらく自由だぞ!


「何を食べに行きます? 近くにありますかねえ」

「……ん?」


 喜びのあまり駆け出していた足がピタリと止まった。せっかくの晴れやかな気持ちに冷水を浴びせられたかのようだ。もうあの部屋から飛び出してアパートの階段を駆け降りるところだったのだが、なぜかまだすぐ隣にユウがいた。

 なんでついてきてるんだ。


「あれ、ここは部屋の外ですよ……?」

「なんですか、当たり前じゃないですか」


 ユウは首をかしげて私を訝しげに見た。いやいや、私がおかしな人みたいじゃないか。

 いつまでも腑に落ちない私をしばらく観察したのち、ユウは理解したのか「ああ」と声を漏らした。


「僕は地縛霊じゃありませんよ。あの場所になんの思い出もないですし」

「えええ……」

「憑いていきますよ、どこへでも」


 そんな話は聞いてない。一緒に住むだけじゃなかったのか。清々しいくらいの腹黒い笑顔を目の前にして、私は頭が痛くなった。精神的な意味で。


「そんなに僕と離れたかったんですか?」

「ああ、いえその」

「駆け出したいくらい嫌だったんですねえ。ちょっとスキップしてましたよ」

「えっと」

「残念でしたねえ。引っ越ししても無駄ですよ」


 軽率だった。私が想像していた以上に危険な幽霊だった。害がないなんてのもきっと嘘だ。

 せめて今は彼が機嫌を損ねて暴挙に出る、なんてことがないようにしなければ。


「い、いやだなあ。そんなことないですよ」

「……本当ですか?」

「本当ですよ! さあ行きましょう」


「……まあ僕は別に、貴女に嫌がられてても関係ないんですけどね。貴女は僕をこばめないし。でも楽しいことに越したことはないですよね」


 ね! と訳の分からない同意を求められ、私は気が動転して階段を一段踏み外した。幸い転げ落ちはしなかったが、お尻を地面に強く打ってしまい無様な声が漏れる。


「ぐえっ!」

「ちょっと、大丈夫ですか?」


 これがどう大丈夫に見えるんだ。ユウの精神攻撃が止まないせいで私の足はふらふらだ。やっとのことで立ち上がり、今度は踏み外さないように慎重に降りる。

 行きは軽やかに駆け上がった階段が、今は長く急に感じた。


 階段を下りて外に出た。この建物の階段は壁や天井で囲まれているため薄暗い。なので外に出たときはまるでちょっとしたトンネルを抜けたような気持ちになる。ユウが後ろで何か言っているがあまり真剣に聞かないことにした。


 出発する前に振り返ってもう一度自分の部屋のある場所を見上げてみる。築年数はそれほど経っていないので建物の壁はまだ綺麗な白を保っていた。

 ここはやっと見つけた私の住居おしろ……だと思ってたんだけどなあ。

 立地も良い。部屋も少し狭いが申し分ない。そしてボロくもない。どうしてこうなった。

 私はこれからの自分の行く末を考えながら、一人こっそりとため息をついた。



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