第2話 眩暈
暗転。
短い人生だった。こんなことなら、もっと遊んでおけば良かった。いくら貯金したところで早死にしたら意味がない。
「――! ―――!」
なにか遠くの方で聞こえる。三途の川かなあ。私は天国と地獄どっちに行くかなあ……
「ちょっと起きてください! いきなり困ります!」
「はっ!」
すぐ耳元で大声が聞こえて、私は驚きのあまり勢いよく飛び起きた。ずっと叫ばれていたのだろうか、キンキンと嫌な耳鳴りが止まない。
「ああ良かった。いきなり顔面から倒れたので心配したんですよ」
「そういや鼻が痛いような……」
「とりあえず元気そうなので安心しました」
心配をお掛けして申し訳ない。そう言おうとして戦慄した。
いや、お前幽霊じゃないか。
「……」
「あれ? どうしました?」
普通に幽霊としゃべってしまった。どうしよう、今から取り消せないだろうか。
頭の中に「やばい」という単語しか出てこない。いきなり倒れたのも耳鳴りがするのも全部この幽霊のせいじゃないか。どうしよう。
ふと、もう一度幽霊の顔を確認する。血色は悪いが、少なくとも悪霊には見えない。むしろちょっと好みの顔立ちだったりする。
沈黙の間、私はまじまじと幽霊の顔を観察してしまった。黒髪の少し伸びたショートヘアがおしゃれに跳ねている。こういうのをケミストルマッシュというのを最近どこかで見た気がした。
その長めの前髪の隙間から整った目鼻が私を心配そうに見つめている。三白眼だからだろうか、目力が強くて視線を反らせずにいた。
「それにしても、」
幽霊が再び言葉を口にした。心配そうな表情から、口角がつり上がる。その変化に息を飲んだ。
……前言撤回。こいつ、悪霊かもしれない。
「僕のこと、見えてるんですねえ」
邪悪な笑みから逃げるように、私はバックをまさぐり携帯を取り出した。迷わず母に電話をかける。電話番号から察してもらえたようで、すぐに出てくれた。
「なあに、もう寂しくなったの」
「いや、違うんだけどね。その、」
「歯切れ悪いわねえ、なにかあったの」
ええ、ありましたとも。今目の前で起こっております。相変わらず幽霊は私を凝視してニタニタ笑っている。目は合わせないように斜め下に視線を固定した。
「ここ、事故物件だったかも」
ピタリと時が止まったかのように沈黙が訪れた。それも束の間。電話口から音が割れた母の爆笑が耳を攻撃してきた。
「何を言うかと思えば! あっはっはっは!」
「私は真剣に、」
「大丈夫よ! 調べてもそんな情報も事件もなかったでしょ?」
「いや、万が一……」
「ほら、ススキの穂も幽霊に見えるってヤツじゃないの? 不安だからビクビクしてんのよ」
「そうかなあ」
「そうよ、頑張んなさい。じゃあね」
素っ気なくあしらわれて、電話も切られてしまった。ススキの穂も、ねえ……
おそるおそる奴の顔をもう一度見ると、変わらずおぞましい笑みで楽しそうにこちらを見詰めている。あれまあ、随分と自己主張の激しいススキだこと。
もう私はダメかもしれない。万事休すというやつだ。
「電話、もういいんですか?」
「……もうやだ」
「え?」
「私の人生ここで終了しました。怖い、疲れた……パトラッシュ……」
「は? え、ちょっと何言ってるんですか。ちょっと!」
思えばしょうもない人生だった。後悔もないけど成功もない。私は両手をアーメンの形に組んで、目を瞑り仰向けにゆっくり倒れた。
「できれば、怖くも痛くもない方法でお願いします」
「いや襲わないし殺さないですから! 少しは僕の話を聞いてくれません?」
うっすらと片目だけ開けて幽霊の表情を確認する。こちらをやけに近い距離で覗き込まれてはいるが、先程のような今にも喰われてしまいそうな圧力はどこにもなかった。眉を下げて困り果てている。
「やっと落ち着きましたか」
「だって、貴方の顔が怖すぎてつい」
「ぐ、それは……謝ります」
嬉しくてつい、という台詞が聞こえた気がしたが無視して再び起き上がることにした。嬉しくてあんな邪悪な顔をされたらたまったものじゃない。勘弁してくれ。
「とりあえず、自己紹介でもしませんか」
「いや、もう私としてはお引き取り願いたいのですが……」
「僕はですね」
ダメだ。どうやら話を聞かない人種らしい。日常生活でもこういった人種はまあまあ存在するが、こういう類いの者は大抵自分の言いたいことだけ言って話を聞かない。
私は諦めて彼の話に耳を傾けることにした。きっとそうしないと先には進めないのだろう。彼は嬉しそうにニコニコと言葉を続けた。先程とは違って純粋な笑顔だった。
……そういう笑顔なら好感が持てるのだけど。
「僕、記憶喪失みたいなんですよ。自分が幽霊になってるのは自覚してるんですが」
「ええ……」
「気が付いたらここにいて。元の自分とか、なぜ死んだのか、そしてなぜ成仏してないのか分からないんですよね」
まあ、恨み辛みを持っているようには見えなかったけれど。私が言葉に詰まっていると、幽霊は困ったように肩をすくめた。
「貴女が見える人間で良かった。嬉しかったです」
「霊感なんてないはずなんだけどなあ」
「それと、なんだか貴女を見ていると落ち着くんです。きっと僕と貴女には何かあるに違いない」
「面識ないと思いますが……」
「なので、貴女といたら何か思い出すかも知れません。しばらくここにいても良いですか?」
「えええ……」
ここまで完全に幽霊のペースで話が進んでいる。このままでは本当に同居することになるかもしれない。
それだけは困る。
「私は一人暮らししに来たんです」
「ほら、いきなり一人じゃ寂しいかもしれないですよ」
「自由気ままに過ごしたいので」
「僕は貴女に
ね? と上機嫌に幽霊は私の腕を掴もうとする。当然透けているので触れずにスカスカと空を切るだけ。
いや、それはそうだけどさあ……
「外に出れば他にも誰か見える人がいるかもしれないですよ」
「嫌です。ここが気に入りました」
「えええ……」
触れないということは追い出すことも出来ないということだ。幽霊が自分の意思でここを立ち去らなければならない。
ため息が漏れた。
「嫌ですか?」
幽霊は今にも泣きそうなほど顔を歪めてうつむいた。気まずい沈黙が流れる。
そうですよね、いきなり迷惑でしたよねと震えた声で言うものだから罪悪感が込み上げてきた。私、何も間違ってないんだけどなあ。
「僕みたいな得体の知れない幽霊がいたら嫌ですよね」
「そこまで言ってはないけど……」
「分かりました。僕は消えます」
そう言うと幽霊は立ち上がって背を向けた。申し訳ないけど私はちょっとガッツポーズをする。
「他の場所に行く気力もないので、ここで貴女を呪いながら消滅することにします」
「は?」
「寂しいので貴女を道連れにして地獄でも天国でも行こうと思います」
「意味が! 分からない!」
ちょっと待ってと四つん這いになりながら幽霊が歩き去るのを引き止めようとする。しかし触れないので私の体は幽霊を通り抜け無様に顔面を床に強打した。痛い。
「どうして私にこだわるの? よく知らない人間だよね?」
私の必死の問いかけに幽霊は曖昧な笑みを返した。理由はないですよ、と悲しそうに答える。
「目が合った瞬間、貴女が良いと心に決めてしまっただけです」
本当にそんな理由でそこまで執着するものなのだろうか?
いや、そもそも私は世間一般の幽霊とやらも知らないわけだし、もしかしたらそういうものなのかもしれない。よく聞く怖い話も「ただそこに居合わせただけ」とか、「偶然目が合ってしまっただけ」とかいうじゃないか。
つまり、私は運が無かった。そういう事だ。
「分かりました」
腹を
呪われるのだけはごめんだ。
「とりあえず荷ほどきしてもいいですか? その後、今後について話し合いましょう」
幽霊の顔がみるみるうちに明るくなって、心から嬉しそうな笑みで何度も頷く。不覚にも眩しくて、ちょっと可愛いと思ってしまった。
耳鳴りはいつの間にか聴こえなくなっていた。
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