次の日・夢じゃなかった

第4話 脅迫


「おはようございます、奈々子さん」


 私はこの部屋に来て初めての朝を迎えた。今は十月も半ばになる。もう熱帯夜にうなされる季節は終わり、快適な夜だった。

 そう、そして爽やかな朝だった。環境だけをいうならば。


 私は昨晩まったくといって良いほど眠れなかったのだ。

 こんなに爽やかな気候で、新調したマットも掛け布団もふかふかで気持ちいい。しかし、だ。


「眠れなかったみたいですねえ。やはり新しい環境だと緊張しますよね」


 ……まあ、それもあるかな。でも違う。一番の理由じゃない。


 私はまだ布団の中で仰向けになって固く目を閉ざしている。それなのにユウはお構い無しに話しかけてくるので、もう逃げられなくなってきていた。

 私が眠れなかった理由は、すぐ目の前にあるのだ。なので、なかなか目を開けられずにいる。


「起きているのは分かってますよ。呼吸するときの深さとリズム、それに眼球の動きが違いますから」


 きっと彼が生きていたなら息のかかる感覚がするのだろう。それほど近くから声が聞こえてくる。


「まあ、僕としてはしばらくこのままでも良いんですけど」


 いくら粘ったところで状況は変わらないらしい。私は観念してゆっくり目を開けることにした。


「あ、ふふ。おはようございます」


 私の視界いっぱいに、ユウの笑顔が広がっていた。


「おはよう、ございます……」


 彼は一晩中こうして私のことをずっと見下ろしていたのだ。金縛りにならなかったことだけは救いだったけれど……


 昨晩、布団に入るところまでは普通だった。「おやすみなさい」と遠くから声をかけて私は眠りについた。

 ところが、ふと夜中に目を覚ましたらこれだ。目を開けた途端にいきなり誰かと目が合うなんて誰が想像できるだろうか。いつの間にか気絶したみたいだが、とてもじゃないが眠った気がしない。

 まさか、これから毎日こうなのか。身震いがした。


「朝ごはんは何にします? 昨日買ったパンでいいですかね」


 ああ、うう。と呻き声だけで返事をして洗面所へと向かった。返事をする気になれない。

 このアパートの部屋は玄関とリビングの間に三歩ほどの短い廊下があり、途中に洗面所やお風呂といった水回りの部屋のドアがある。私はリビングから廊下に出て、右手の壁にあるそのドアに手をかけた。


 ここならユウが視界に入らない。ドアを閉めて盛大にため息をついた。


「これからどうしたものかなあ……」


 蛇口をひねる。洗面器にびしゃびしゃと勢いよく水が跳ね回った。しばらく眺めて現実逃避をした後、顔を洗い始めた。あー冷たい。


 こうして水としばらく遊んで気持ちも落ち着いてきたので、昨日畳んで用意しておいたタオルを適当に一枚掴んで顔を拭いた。タオル掛けも欲しいなあ。いざ暮らしてみると意外と無いものだらけだ。

 また今度買い物に行こう。ユウのことは今は考えないようにしよう。きっと解決策があるはずだ。


 気持ちの切り替えが早いのと、物事を受け入れるのが早いのは私の長所だと思っている。まあ、そのせいで色々失ったものもあるけれど。


 そんな私の思考を遮るようにチン、と何故かキッチンの方で音が聞こえた。トースター?


 何事かとリビングへと戻ると、ユウがトースターの前で棒立ちしていた。


「なにしてるんですか?」

「ああ奈々子さん、これです」


 私の声に気付いたユウはこちらを向くと、両手を広げてドヤ顔をしてきた。ドヤァと効果音が付きそうだ。


「いやだから……ひっ!」


 ツッコミを入れようとしたのだが悲鳴で言葉を呑み込んでしまった。ユウの背後で勝手にトースターが開き、こんがり良い色に焼けた食パンが宙に浮き出したのだ。


「奈々子さんはポルターガイストって知ってます? 昨夜ゆうべ練習したんですよ」

「えええ……」

「ちょっとしたものなら動かせるようになりました。なんだか超能力者みたいですねえ」


 えええ、便利……


「タダで住まわせてもらうのも悪いですし、僕に出来ることはやりますね」


 パンはユウが用意したのだろう皿の上にポンと乗り、ちゃぶ台テーブルまで浮いていった。魔法みたいだ。


「ジャムでいいですか?」

「あ、お構い無く。でもそれじゃあ、ユウは昨夜寝てないんじゃ……?」


 そもそも幽霊は寝るのか? とも思ったがずっと練習をしていたのなら疲れているかもしれない。

 心配の声をかけるとユウは花が咲いたような笑顔を見せた。駆け寄り私の手を両手で握る動作をするが、当然掴めず空を切る。しかし興奮しているユウにはさした問題ではないらしい、そのままの体勢で詰め寄ってきた。


「僕の心配をしてくれるんですね!」

「いやあ、人としてのアレでして」

「大丈夫ですよ! 今の僕には眠気も疲れも食欲もないですから!」

「ああ……そう……」


 心配して損した。しかもどうやら必要以上の飴を与えてしまったらしい。ユウは嬉しそうに私の体にまとわりついた。

 ユウの幽体が私の体を貫通してようがなにも感じないけど、ちょっと見た目が気持ち悪い。


 とりあえず席についてパンをかじった。焼き立ては香ばしくてザクザクと良い音がする。うん、良い焼き加減。


「今日もお仕事はないんですか?」

「祝日だからね」


 三連休を利用して引っ越してきたのだ。今日はいわば予定の予備日にしていた。予定にアクシデントはつきものだけど、何もなかったので安心してゆっくり過ごせる。

 ……いや、過ごせないか。


「僕、もっと奈々子さんの事が知りたいです」

「それよりも自分の事を思い出すべきでは……?」


 一度優しくしてしまったせいか、それとなく突き放そうとしてもユウはまとわりついて離れようとしなかった。人懐こいと言うべきか、馴れ馴れしいと言うべきか。

 呆れた目でユウを睨みつけても、嬉しそうな笑顔が返ってくるばかりだった。嫌味なくらい整った顔だ。仕草に合わせて柔らかそうな黒髪がふわりと揺れた。


「ユウはきっと、死ぬ前は相当持てはやされただろうに」

「どうしてですか?」

「どうしてって、その顔だし」

「僕の体、鏡に映らないんですよねえ」


 あ、それもそうか。なんだか勿体もったいないな。

 記憶もないから自分の顔面偏差値も分からないんだ。もしそれが分かっていたら、もっと美人に取り憑いていたかもしれない。


「でも貴女の好みの顔ではあるんですね。良かった」


 ユウが更に距離を詰めて至近距離で見つめてくる。こんな距離まで他人と近付いたことがないので落ち着かない。


 ピリリリリリ……


 沈黙の中、ケータイの着信音が鳴った。静かな部屋で突然の電子音だったのでびっくりして肩が跳ねた。

 でも助かった。逃げられる。


 画面を見ると「啓太けいた」の文字が映っている。バッと素早い動きでユウが私の背中に覆い被さってきた。心なしか空気が冷えた気がする。

 おそるおそるユウの顔を覗いてみると、その目はケータイ画面に集中している。出るよ、と一応声をかけてみるが暗い瞳のまま何も言わない。あまり待たせても悪いしとりあえず通話画面をスライドさせた。


「もしもし」


 右手にケータイを持って耳に当てると微かなノイズが相手の方から聴こえてくる。

 ユウが私に覆い被さったまま、私の顔の左側から覗き込んでくるのが視界の端に映った。なるべく目を合わせたくないな。


「なに、とうとう引っ越したの?」

「そうだよ。ビックリした?」


 私が話してる間にもユウはずっと無表情でこちらを見詰めている。脅迫されているかのようで居心地が悪い。


「暇だし今から行くよ。どうせ家にいるでしょ」

「失礼な……ひっ」

「どうしたの」

「い、いや何でもない」

「変なの。じゃあね」

「あ、ちょっと!」


 抗議をする前にぶつりと電話が切れた。いつもいつもそうやってを振り回す奴だからもう慣れたけれど。


「今から人が来るからさっきみたいなポルターガイストは、」


 控えてほしい。そう言おうとして息を呑んだ。すぐ隣にユウの焦点の合わない瞳があったからだ。

 ぶつぶつと何かを言ってるが聞き取れない。いや、なんだか物騒な単語が聞こえた気がする。


 これは呪われる!

 何が原因かを急いで考える。さっきの電話だ。どうすればどうすれば……あ、


「お……お、弟だよ!?」


 私は起死回生の一言を放った。


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