明鏡止水【お題:夏服】
うしろから、突然手を引かれた。やさしい熱は、今まで誰も与えてくれなかったもので、私はぼう然と抱きしめられていた。
「何してんの」
知ってる声、と思った。どこで聞いたのだろうか、やさしくて懐かしい声だ。
「なんだよお前」
冷たい声が返る。私はハッとして、その熱を突き飛ばした。
だれかに抱かれるのは好きだ。嘘だとしても、愛してくれるから。むずかしい気持ちなんて、全部肉欲にとけてなくなるから。だけど、本当はもっと抱きしめられていたい、もっと温かな人に抱かれたい、そうだ、こんな金で肉欲をごまかす人じゃなくて。
「逃げよう」
はっきりとした声だった。私は、今度こそ振り返らずに、彼に手を引かれた。
手を引かれて連れてこられたのは、人通りの多い駅前で、彼は近くの喫茶店を指さした。なにも言わないことが恐ろしくなってきたけれど、彼は手を離してはくれなかった。
「それで、なにしてたの」
「……別に」
「ふうん、なにもなくてもおっさんと腕組んでホテル入るの?」
「そういうんじゃ、ない」
やっと真っ直ぐ顔を見たら、同じゼミの男の子だと気がつく。私はますますどうすればいいのかわからなくなって、うつむくしかなかった。
「まあいいや、話したくないなら聞きたくもないし」
彼は目を逸らして手元のグラスに手を伸ばした。黙って俯いたままの私を見て、彼もそれ以上なにかを言うのをやめたらしかった。
「とりあえず飲んで落ち着きなよ。ここのコーヒー、おいしいから」
コーヒーは苦手だったけれど、私は泣きそうになりながら温かいコーヒーを飲み干した。私たちは互いを知りもしないくせに、何時間もしずかな喫茶店に居座った。
「今日はありがと」
デートでもしたみたいに、彼は小さくはにかんだ。
「うん」
「またコーヒーでも飲みに行こうよ」
「……うん」
家に帰ると、私は夏物のセーラー服を脱ぎごみ箱に投げ入れた。途端に白のセーラー服が汚いものに思えて、涙がすこしだけこぼれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます