夜明け【お題:夢と現実の境界】
たった一度だけ、恋をした。それだけのことなのに、こんなにも苦しいのはどうしてだろう。ずっと前に忘れたはずの笑い方も、声も、なぜか今になって胸を締め付ける。もう好きでもないのにな、小さな声は淡い夕焼けの色に吸い込まれた。眠たくなって目を閉じたら、僕はすぐに眠りに落ちた。
夕景の中で、僕は相変わらず彼女の背中を追いかけていた。遠すぎて顔は見えないけれど、僕はなぜかその人影が彼女であることを理解しているのだ。淡い桃色のうつくしい夕景と彼女の背中、たったそれだけで僕は彼女の言葉を思い出す。何度も忘れかけた言葉が、なぜか思い出される。
――あなたのつくる音楽がすきなの。
声なんて思い出せないはずなのになと思ったら、甘い景色が崩れて溶けてしまった。
まだ外は暗かった。時計を見やると、短針が四をすこし過ぎたところを指していた。ああ、夢か。僕は分かりきったことを頭の中で噛み砕いて、そうしてがっかりするのだ。
カーテンを引くと、外はまだ暗かった。窓の横にかかったバイトのユニフォームを見て、僕は笑ってしまった。彼女が前に進むのに、僕は何年も同じ場所に留まり続けている。すべてはこれのせいだ。僕は壁にもたれたギターに手を伸ばした。
夜が終わってしまう。彼女のいない朝が、やってくる。僕はあの夢を見るたびに、何度だって彼女に恋をするのだ。そして僕は夢に溺れていたくなる。もはや夢かどうか、区別なんてつかなかった。
夜の空に手を伸ばそうと、窓を開けた。もちろんその手は空を切るだけだ。
ギターを鳴らすと、低い音が冷たい空気を揺さぶった。彼女はこんな濡れた歌声を聴いたら、きっと笑い飛ばすのだろう。僕の代わりに落ちた雫が弦を弾くものだから、僕は思い切り歌った。だれにも届かない声は、少しずつ藍が落ちてなくなっていく空に吸い込まれた。夜が明けた街は彼女を隠してしまって、やけに冷たかった。
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