もの思い【お題:嵐の前の静けさ】
彼は明日死んでしまう。だから私は彼と穏やかな時間を過ごすのだ。
あたたかなコーヒーの香りで、私はいつも目を覚ます。私よりも朝が得意な彼が、自分では飲まないコーヒーを淹れてくれるのだ。窓の外を見ると、うつくしい青が広がっていた。今日は天気がいいから、花壇に新しい種でも植えよう。彼に何がいいか聞いたら、きみの好きな花がいいなと決まって返ってくる。私は分かりきっていてもそう答えるし、彼だって何度聞かれても笑ってくれる。コーヒーの香りのまだ残る家を名残惜しく感じながら、私たちは朝ごはんを食べるとふたりでスーパーに出かけた。こんな種のコーナーなんて私たち以外に見る人なんているのだろうかと思いながら、結局ふたりでパンジーの種を買って帰った。咲くのが楽しみだねと話して、寄り道をして喫茶店で昼食がてら一息ついて、家に帰ってソファに腰かける。私はこんな毎日をずっと夢に見ていたなと思う。
「そろそろ植える?」
「どれくらいで咲くかなあ」
「きっとすぐだよ」
彼が微笑むので、私もつられて笑う。彼の笑顔には、そんな力があった。穏やかで、柔らかくて、誰かを笑顔にする力だ。
少し前まで植わっていた白いチューリップは、春が過ぎるとすぐに枯れてしまった。春が来たら、またチューリップを植えてもいいなあと思っていたら、いつの間にか彼が種を植えてしまった。
夜はふたりでビーフシチューを作って、他愛もない会話をして、やっぱり一緒に笑った。私はすこし泣きそうになって、それでも笑っていた。
あたたかな時間は過ぎていく。こんな幸せな休日があっていいのだろうか、ああだから私はしあわせを手放さなければいけないのか。
彼を探せば、先に寝てしまっているものだから、私は思わず笑ってしまった。彼の上にそっと乗り、首に手をかける。もう家族のところに戻らなきゃいいのに。腕に力をこめたら、涙が落ちた。おやすみなさい、私の愛する人。
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