夜の帳【お題:ガソリンスタンド】

 見た目の割に幼い話し方をする人だった。ネオンの光るホテル街で、彼だけが浮いている。ただ目が合っただけなのに、どうして呼び止めてしまったんだろう。私はホテルのベッドに座って、そんなことをぼんやりと考えていた。

「逃げなくて、いいの?」

 ふにゃ、と笑った彼は私に手を伸ばさない。私が首を横に振っても、彼はそっかとうなずいただけだった。

「おれもさ、別にセックスしたいわけじゃないんだ」

「私だって」

「じゃあ、きれいな景色のとこ、行こ」

 私は彼の言葉の意味がよくわからなかった。ホテル街で出会ったふたりに、そんなロマンチックなことがあっていいのだろうか。

 恋人が二股していたことが明らかになった数時間前、彼はこんなところで何をしていたんだろう。こんな街には似合わない彼が、ひとりで歩いていた意味がわからない。私は彼の手を振りほどかなかった。ホテル街を抜けて小さな駅、ますます田舎に向かう私たちは、逃避行をしているみたいだった。電車が少しずつ海に近づくにつれ、外の景色が暗くなっていく。隣で彼が降りようと言ったのは、ホームの蛍光灯のほかに光の見当たらない駅だった。微かに波の音が聞こえるだけで、人影すら見当たらない。

「暗いのは平気? それとも怖い?」

 私は首を横に振って、無言で彼の後ろを歩いた。何を話せばいいかわからなかったけれど、彼はそんなこと気にもとめなかった。

 しばらく歩いて、暗闇の中に弱々しい光が浮かび上がった。

「絶景は明日ね。おれ、疲れちゃった」

 彼は無人のガソリンスタンドに座った。私は少し迷って、彼に倣う。地面が冷たくて気持ちいい。

「こっちのが好きだな」

「え?」

「ネオンの看板より、寂れたガソスタの方が、たぶん本当はきれいだよ」

 ちかちかと点滅する看板を見ていたら、彼が手を握ってきた。右肩が重くなったから、私もそっと目をつぶった。確かにあんなネオン街で過ごす夜より、こっちの方がずっと心地よかった。

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