『繰ろ景の呪い(1)』
『繰ろ景の呪い(1)』
私は、埼玉のとある田舎を走る電鉄に揺られていました。
――また今日も、駄目か……。
車窓から夕暮れの田園景色を眺めながら、自分の弱さに失望しました。
小さな頃から母親に厳しく育てられていた私は、いつも心のよりどころを探し回っていました。小学校時代は習い事詰めで、いつも忙しかったため、友達もほとんどできませんでした。父親にすがり、塾をやめさせてほしいとせがんでも、父は弱々しく笑うばかりで布団に潜り込んでしまいました。きっと彼も母の尻に敷かれ、毎日大変だったのでしょう。私が中学のとき、首を吊って自殺しました。ちょうどその頃私が学校内で酷いいじめを受けていたので、もう神様は私が嫌いなのだと思うようにもなりました。
毎日背中に性的な落書きがされた紙を貼られ、教科書が捨てられるのは当たり前。無視されるならまだよかったのですが、とうとう他の生徒の尿や生理の血を頭からかけられるまでに至りました。いじめっ子には勿論のこと、見て見ぬふりをする教師にも腹が立ち、呪いのように紙に何度も何度も名前を書き殴りました。私が教材や制服を汚して帰ってくると、母はいつも私を叩き、蹴り飛ばしました。あのとき浴びせられた罵倒の言葉は、今でも悪夢に出ます。
高校でもいじめは続き、それでも懸命に勉強した私は、一浪してそこそこの大学に合格することが出来ました。大学卒業後に就職した商社でいい人を見つけました。頼りがいがあって、格好良くて。父とは大違いでした。私は彼に猛アタックしました。その甲斐あって、三年後に彼は私の旦那となりました。ですが、中高大と女子校だった私は、少々男性に幻想を見ていたようでした。彼は日に日に暴力的になり、DV夫となり果てました。その頃には子供もできていて、彼は娘にだけは優しかったので、離婚するのもためらわれ、我慢することに決め、やがてネットで違法な薬物にまで手を出すようになりました。
しかし一週間前、とうとう堪忍袋の緒が切れました。
酔って帰って来た旦那が、私の作った夕飯を不味いと言い、いつも通りの文句を並べていました。私が空返事で聞き流していると、彼は怒って夕飯の皿を私に向かって投げつけました。私はもう我慢できなくなり、夫がお手洗いに行っている隙に息子を連れて家を飛び出しました。私一人でこの子を育てると決意したのです。――しかしやがて手持ちのお金も底をつき、苦悩の末娘を公園に置いたまま逃げてしまいました。今でも遠くで娘の泣き声が聞こえます。可哀想で可哀想で……。あの母でさえ私を捨てる事だけはしませんでした。母親失格。自分は何て最低な女だろうと思い、毎日自殺しよう自殺しようとこのスポットである繰ろ景へ通い詰めているのですが、三日目の今日も、未だその決心がついていません。
「…………はぁ」
何を悲劇のヒロインを気取っているのだろうと、私は席の上で体を反転させ振り子のように揺れる吊り革を眺めました。クーラーが当たってひんやりとしたシートの上に、頬を乗せます。
『繰ろ景―。繰ろ景―』
アナウンスが鳴ります。
死ぬのはまた明日にしようと、席を立たずにぼうっとしていた、そのときでした。大柄な男の人の肩を持った、一人の女性が乗車してきました。男一人支えるなんてすごいな、男の人の方はなんて情けないんだろう半ば苛立ちを覚えながら見ていると、彼女は私の相席に腰を下ろし、男の人を横の席に座らせていました。
女性は四十代位で、お化粧や身なりもしっかりとしていて、振る舞いも大人びていましたが、頬が少しだけ泥で汚れていました。男の人の方はシワの寄ったシャツに小汚いズボンと、少し貧相な印象で、俯いているため顔はよく見えませんでした。
やがて電車が発車しました。
私たちは無言で座っていました。
――酔った旦那さんを運んできたのだろうか……。
私はそんなことを考えながら窓の外の景色を眺めていました。
――ごめんね……眞子……。
公園に置き去りにした我が子の顔を思い出し、思わず涙が溢れてきました。車窓からの景色もどこか見覚えのあるもので、懐かしい感覚に胸が苦しくなります。
――本当に私は……。
何を考えたのか私は、スマホを取り出し、眞子の写真のデータをすべて削除しました。過去との決別です。
――元気でね……眞子……身勝手なお母さんを許してね……。
私は、生きることを決意しました。
またいつかあの子と会えたなら・……そのときは、謝ろうと思います。だからそのときのために、私は一生懸命生きようと決心しました。
「あの……」
「え?」
いきなり話しかけられたので、少し驚いてしまいました。
前に座っていた女性が、私に声を掛けたのです。
「あぁ、すいませんちょっと……亡くなった娘のことを思い出したら、泣けてきてしまって……」
私は適当な嘘を言って誤魔化しました。
涙をハンカチで拭くと、かなりの量の水分が染み込みました。
「いいんですよ……まぁ娘さん亡くなったの……」
「……はい」
「可哀想に……」
女性は哀れむように言いました。
「ねえ、ちょっと聞いて下さらない?」
「え……はい、何でしょう」
やけに彼女が嬉しそうに言うので不審に思って頷くと、
「実はこの子、喋るんですよ!」
と、女の人は不気味に口角を上げました。
――この子……?
女性は、横に座ってうなだれている男性を指さしているようでした。
「……――‼」
私は目を疑いました。
先ほどまで気づいていなかったのですが、男性の首元にはくっきりと青黒い細長い跡が真一文字に刻まれていました。おまけに顔は紫がかった色に変色していました。
「…………」
背筋が凍る思いでした。
目の前のものが何なのか、脳が理解しても心が判りたくないと言っていました。
私が何も言えずにいると、女性は、
「さあスガヒコ。返事をなさい」
と、その物体に話しかけるように言いました。
するとその死骸のような男はぱっちりと両眼を見開き、私の方をしっかりと見て、浮き彫りになった皮と骨だけの顔面を必死に動かし、何かを言おうとしていました。
「さ、ご挨拶よ、スガヒコ」
『…………』
「あら、挨拶は?」
『………… 』
「ん?何?」
何か音を発した男に、女の人は耳を傾けました。
『……あ』
「何々?」
『――あ あ あ あ!』
その途端、男は繰り返し繰り返し狂ったアラームのように「あ、あ」と声に出しました。
恐ろしい。とても恐ろしいと感じました。
見てはいけないものを見てしまったようでした。
「お、良く言えたねぇ。よしよし」
「あ……ああああ……」
『あ!あ!あああ!』
すると男はけらけらと幼児のような笑い声を上げました。
先ほどから思わず漏れてしまった私の声を真似するように、男は音を発していたのです。
「いい子いい子。ご褒美にアメちゃんあげるね」
『…………』
男はうんうんと首を上下に揺らし、頷きました。どうやら喉の傷のせいで、「あ」の音以外は言えないようでした。
私はその後怖くなって電車を降り、しばらく街をさまよい歩きました。
あの男の首の傷。
異様な空気。
あのときの心情。
すべてが昨日のことのように蘇ってきます。
私は今までの半生を、すべて悪い夢だったんだと思うようにしました。
そうすると不思議なことに、少し気が楽になるんです。
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