第一章 未確認飛行物体


第一章 未確認飛行物体


この世には様々な悪が存在する。

 無慈悲、不条理、不必要な殺生……。

 しかし、そのなかで一番の悪は何だろう。

 正義はそれぞれ正しいから、優劣は付け難いが、悪は総じて悪なのだ。

 よく刑事ドラマなどで

「罪に大きいも小さいもない!」

 ……などという決まり文句があるけれど、しかし犯罪者全員を死刑にするわけにもいかない。罰には軽重が必要だ。

 では、人間の犯罪者並みに罪な――それこそ絞首刑に値するくらい――物は何だろう。

 答えは必然だ。

 目覚まし時計である。

 すやすやと気持ちよく眠っているのに、いきなり轟音で夢から現実へ引き上げる。

 しかし、それはしょうがないことなのである。なぜなら叩き起こされることを望んでいるのは自分自身なのだから。別に好んでやってるわけではないけれど、絶対に早起きをしないといけないときも、あるにはあるのだ。

 それはいい。ここからが問題なのだ。

 一番の重罪は、鳴らない事である。

 電池が切れたとか言い訳されたって、こっちはもう遅いのだよ、メザマシさん。

 もう笑うしかないな。

 あはははは。

 ……今朝、私も重罪犯メザマシの被害者となった。


    *


 妙に起きやすい朝だと思った。

 昨日あれだけ夜更かししたのに(少しアダルト系の小説を読んでいたら、頁をめくる手が止まらなくなってしまったのだ)、やけに瞼が重くない。

 汗で口元にへばりついた髪の毛先をいじりながら、おもむろにベッドから立ち上がる。

――いつもなら親に叩き起こされるところだけれど……。

 ああそうか、と私は納得した。今両親は、一時的にフランスの方へ出張に行っているのだった。

――いつ帰るのか判らないみたいだけれど……。

 少し寂しい気がしないでもない。

 うーん、と背伸びをしてみる。両腕を下ろすと、特有の脱力感が私を包んだ。

 やはり自分で起きる朝はいいものだなと思いながら、壁にかかったアナログ時計に視線を移す。

――六時半。

「あ……や――っば」

 急いで階段を駆け下り、洗面台で顔を洗う。再び自分の部屋に戻ると、パジャマを脱ぎ捨て、ハンガーに掛った(今時珍しい)セーラー服に着替える。鞄に教科書やらノートやらの諸々をぶち込み、それを持ってリビングへと向かう。

 ここまで七分。

 二階のテーブルには、すでに朝食が準備されていた。

 スクランブルエッグにウィンナー、サラダと食パンんとコーンスープ。

「もうすぐ家出る時間でしょ?」

 キッチンで山谷奏さんがフライパン返しを持って言った。「判ってる」、と私は空返事しながらソーセージをかじる。

 山谷さんは、親が出張の間私と妹を世話してくれている近所に住む女子高生だ。健康的な小麦肌と金髪で、少し不良な所もあるが、実は家事が物凄い得意で、エプロン姿もこうして見るとよく似合っている。あと、元々母性的な人なのか、極度のショタコンで、「養いたい」を口癖のように毎日口にしている。

 ちなみに奏さんは地元の高校なので家を出るのは七時半ごろだが、私は電車通学なので七時までには駅に着いていないといけない。

「あ、お姉ちゃんおはよう――今日はずいぶん遅いね」

 目を擦りながら階段を下りてきたのは、私の妹、凪坂未明だった。私より少し髪が長く、普段はツインテールにしている髪が、寝癖をつけてぼさぼさになっている。

 凪坂未明。私の妹で、小学五年生。世間が韓流ブームの真っただ中、なぜか中国グッズにドハマりしている。寝る時は必ず白の子供用チャイナドレスで、好きな軽音楽はCポップで、今は中国語を勉強中らしい。――何を目指しているのだろうか。

「ちょっと目覚まし時計が壊れちゃってて……そういうあんたは起きるの早いわね……いつも私が学校行ってからなのに……」

「ああ、昨日は早く寝たからね……――」

 首を傾げたまま目をつぶっていびきをかく妹。

 寝てるじゃん。

 スープの付いた口元をティッシュで拭きながら、もう片方の手でリモコンを操作し、テレビを点ける。毎朝習慣のように見ている、キー局のニュース番組だ。

『さて、またも目撃情報です』

 と、若い女性ニュースキャスターは画面の中で切り出した。

『埼玉県川口市近辺でUFOを見た、という問い合わせが番組に多数寄せられています』

「ゆう……ふぉー?」

 まるで幼児が初めて聞いた単語に戸惑うように、私の妹は首を傾げた。

「未明ってUFO知らないの?」

 私が訊くと、

「知ってるけど……なーんか私、そういうオカルト系嫌いなんだよね」

 食卓の席に着きながら小生意気な事をぼやく妹。

――凪坂未明って名前的にそういうの好きそうだけどな……。

 未確認飛行物体の未確認と未明が似ているからだろうか……。

 気づくとテレビの画面はスタジオから画質の荒い夜の風景に移り変わっていた。画面右上には『視聴者提供』の文字が。素人の撮影だろうから、手振れが多く、雑音が入って少し見えずらかったが、何とか状況だけは把握できた。マンションのベランダから撮っているのだろうか。時刻は恐らく深夜で、辺りには木々が生い茂っていた。画面中央にやけに大きなシイノキがあり、かなり遠いがそのシルエットははっきりと確認できた。

 と、恐らくビデオを撮影している人物のものであろう声が。

『やばいやばい、あれUFOじゃないの?』

『ほんとだ!……ねえこれどうする?初めて見たからめっちゃ興奮するねんけど!』

 少々気が高まっているようで、音声も何だか慌ただしかった。

 無理もないだろう。

 画面中央のシイノキのあたりの夜空で、円盤状の白い光が、点滅しながら左右に揺れ、最後には森へ吸い込まれるように消えていった……。

 たった一瞬だったが、はっきりと映っていた。

 その後画面は移り変わり、UFO研究家の大学教授とやらの映像に切り替わった。どうやら専門家お墨付きのようであった。

「こんなことに頭のいい大人が時間を浪費して……何になるんだろうね」

 未明がパンをつまみながら呆れたように言った。

「さあね、暇なんじゃない?人生が退屈すぎて」

 私が答えると、

「小学生かよ」

 と、なかなか厳しい意見だった。

――お前が言うな。 

 

    *


「行ってきます!」

 勢いよく我が家を飛び出し、踏んでいた靴のかかとを直しながら、腕時計を見る。

――六時五十二分!走ればまだ間に合う!

 猛スピードで歩道を駆け抜け、メトロマークの地下へ繋がる階段を下る。慌てて落としそうになった定期券を自動改札にかざし、また階段を下る。

 無機質な白い壁の駅内に、黒いスーツの出勤前の社員たち。見慣れたモノクロの光景。

『電車が参ります――The train is now approaching』

電子版に文字が映し出され、やがて同じ内容のアナウンスが独特のメロディーとともに流される。髪がなびくほどの風圧。黄色い二つの光の玉が、トンネルの中からこちらへ近づいてくる。銀色のボディーに二、三色で描かれたシンプルな模様。空気の抜けるような巨大な音がするのと同時に、同じく巨大な鉄の蛇は動きを止めた。

 満員の車内に、無理やり自分の身体をねじ込む。満員電車とはいえ、この線路はまだ空いている方だ。すし詰めよりはまだましだ。

――しかし、それにしても狭い……。

 周りの人々も女子中学生に気を使ってくれているようで、少し私の周りだけスペースが出来た。

『発車致します』

 がたん……。

 その衝撃によって、簡単に空間は埋まってしまったが。

 そんなに気になるのなら女性専用車両を使えばいいだけの話だが、それは少し気が引ける。自分でも直したいと思うのだが、私にはどうも妙なプライドがある。

 いったん電車を降り、別の路線へ乗り換える。

 ずらずらとエスカレーターに行列が出来、諦めた私は階段を上り下りして駅のホームへ。三分程度で電車は到着した。ここは比較的学生のために作られたような電車なので空いており、端の方の車両ならば座ることも可能だ。

 私は腰を下ろすと、スマートフォンを取り出す。案の定ネットニュースにはもうUFOの目撃情報のことが書かれていた。

――へー……。埼玉ってUFOの目撃多いんだ……。

 何故だろうか。

 きっと埼玉県民は退屈なのだろう。

 そんな偏見に満ちた結論で勝手に一人で納得し、ユーチューブを開いて『D坂少年探偵団45』の曲を探し、イヤフォンを両耳にセットする。

――……うん。今日も頑張れそうだ。

 やはり音楽はいいものだ。しかし唯一苦言を呈するのであれば、この曲を流したまま他のアプリを操作できないということだ。なら曲をダウンロードすればいいだけの話だが、何しろお金が掛かる。ファンの皆様には大変失礼だろうが、私は財布をひっくり返してまでして音楽を聴きたくはない。気を遣わずに楽しむ、それが私の流儀だ。

 アイドルの可憐で劇的な歌声が耳に聞こえなくなり、次の曲をセレクトしようとした、そのとき。

「あれ、凪坂さん」

 途中駅で乗ってきた一人の女子中学生が、私の顔を見て声を掛けてきた。

「え……ああ、前山さん」

 色白でおしとやかな顔立ち。右目近くのホクロ。清楚な黒髪。制服もぴったりと着こなし、いかにも真面目そうな彼女は、入学テストで学年二位、頭脳明晰スポーツ万能地味だけれどその心は誰よりも広く、その器は誰よりも大きい、男女皆に愛される秀才、前山玉希だった。

 常に広辞苑の新版を持ち歩き、見るからに世俗とはかけ離れていそうな彼女ではあるが、実はBL好きな腐女子だったりもする。

「おはよう」

「お、おはよう……」

 少し緊張してしまう。

 前山さんは私の横の席に腰を下ろすと、

「何聴いてたの?」

「え、あ、いや……前山さんみたいな真面目な人は多分知らないような曲だよ」

「ふーん。何の曲?」

「D坂の『孤島の鬼』って曲です」

「あ、知ってる知ってる。あれ、確か曲名がすべて江戸川乱歩の小説から来ているんだったよね。『二銭銅貨』とか、『心理試験』とか」

「へー。やっぱり前山さんはすごいや」

「全然すごくないよ。……愚川さんには敵わないし」

 と、前山さんはうつむき加減で半ば自虐的に言った。

 前山さんの頬を、トンネルの中の流れゆくライトの光が照らす。

 愚川さん、とは、一年A組の愚川善太郎のことである。最初から頭がいいとは聞いていたが、テスト問題全問満点なんて桁違いが過ぎる。平常点ももちろん全科目十点で、何か不正でもしたのではないかと疑る生徒もいた。私もその一人だった。

 だが。会ってみれば一目瞭然だった。

 全校生徒の顔と名前をすべて完全に記憶しているなんて、もはや頭がいいレベルの話ではなくなっている。

 教室に入った瞬間、名前を呼ばれた。

 一度も会ったことがないのに。

 半ば恐怖心さえ感じた。

 そして彼のビジュアル。

 愚川善太郎は、その黒髪を肩まで伸ばし、セーラー服を着用し、青い瞳には眼鏡を掛けていた。

 そう――女装していたのだ。しかも見事なまでに美少女であり、最初彼――彼女が愚川善太郎だと信じられなかった。

 両性愛者――バイセクシュアルらしいが、確かにあれは男女ともに惚れてしまうだろう。男女ともに愛されている、の次元が、前山さんとは桁違いだったのだ。

 最初私は本気で思った。

――これが/神の子/なのか。

 と。

「で、でも、愚川君――愚川さんは、その、ちょっと人間離れしすぎているところがあるから……」

 超越している、というのか。

 そのままの本音で、励ましたつもりはなかったのだったが、

「うん、なんかごめんね」

 と、笑顔で返されてしまった。

 作り笑顔。

 あの愚川善太郎であれば、笑顔さえも完璧に自然に作れるのだろうか。

 それはもう、本当に人間ではない気がした。

 神というより――悪魔にも近かった。

「あ、降りないと」

「う、うん」

 気づいたらそこはもう学校の最寄り駅だった。

 アナウンスとともに、大勢の学生服姿の少年少女がドアから溢れ出し、エスカレーターに乗るには困難を極めた。

 薄暗い狭い階段を上がり、太陽の光が見えた。地上に上がると、山道のようなうねりの激しい坂道がずっと続いている。そこの歩道を誰よりも速く走る生徒の姿があった。

 脇には住宅や公園がある、そんなのどかな雰囲気をぶち壊すような、そのくらいのレベルの疾走だった。そんなことをする人物、私は一人しか身に覚えがなかった。

「……あ」

 遅れて上がって来た前山さんも気がついたようだ。

 私は遠くにいる――坂道のうねりを二つほど越えた道にいる――その人影に聞こえるよう、声を張り上げてその名を呼んだ。

「飛鳥ぁぁぁぁぁぁああ――‼‼」

 疾走する少女が気になっていた生徒先輩たちも、今度は私の方を見て少しびくついていた。

 ぎぎぃぃいいっっ、と。

 そんな擬音がするのではないかと思うくらい盛大に靴裏でアスファルトを削り土埃を上げて、その少女は急ブレーキをかけた。

「おう、結未ちゃんじゃないか!」

 疾走する少女――好宮飛鳥は、さきほどまで通って来た道を、わざわざ逆走してこちらへ走って来た。

 好宮飛鳥。私と同じ一年B組。ボーイッシュな短めの髪。体系は痩せ型で平均身長より少し高め。制服は一年中半袖だというがいかにも彼女らしい。陸上部所属らしいがその実力は高校男子に匹敵するほどであり、機体の高まる新人として一目置かれている。頭が良く顔も可憐なので言う事なしかと思いきや、本人は鍛えすぎたためバストが小さめなのを気に病んでいる。とある男子生徒は「貧乳最高!」と空気の読めない慰め方をして女子から本気で怒られていたが。

 一人称は『ボク』で、無駄にリアクションが大袈裟なことで知られている。

「何、どうした!暴漢に襲われただって⁉ボクが殺しめてやろうか⁉」

 これまた大袈裟に両手を私の肩に乗せ、切羽詰まったような迫真の演技を見せつける好宮飛鳥。

 怖いこと言わないでほしい。

「それを言うなら懲らしめて、でしょ?――まったく、クレヨンしんちゃん的なやり取りはやめてよね、恥ずかしいから……」

「ボク的にはアクション仮面よりセーラームーンだな」

「比較対象になってないでしょ……」

「そして月野うさぎちゃんよりガッチャマンだな」

「科学忍者隊⁉」

 すると彼女はテーマソングのリズムを取りながら、あえて大袈裟にその歌詞を歌った。

「誰だ!誰だ‼誰だ――っ⁉」

「クラスメイトの友人に対して酷すぎるでしょ!いつも話してんじゃん!私だよ、凪坂結未!」

「地/球/は/火の海♪」

「駄目でしょ!」

「冷/め/たら/復活♪」

「そのころにはとっくに人類滅亡してるよ!」

 ちなみに正しくは『地球は一つ、割れたら二つ』、である。

「ガッチャマンと言えば、ちょっと昔、朝のニュースでガッチャマンのパロディーショートアニメをやっていたような……」

「あったねそういうの……」

「あれを見るためにボクは早起きの特訓をしたんだ」

「まあ、幼少期の早起きの理由なんてそんなものじゃない?」

「五時に寝て一時に起きた」

「意味なし!」

「ちゃんと八時間睡眠をとったぞ?」

「だとしても早寝早起きすぎだよ!正確にはそれまだ夜だから‼」

「早起きは三文の徳というが……何だか損した気分だ」

「当たり前だよ」

「なんだか学校行ってもやけにだるかったような……」

「寝不足だよ……っていうか学校⁉」

「うん」

「学校って事は小学生の頃の話⁉」

「うん。五年の頃」

「結構最近じゃん、てかそのころもうガッチャマンのコーナー終わってたはずでしょ」

「貝社員だ」

「シリーズ化してるのか……」

「今でも見ているぞ」

「今も⁉」

「今朝も見たぞ」

「ええ、現在進行形⁉」

「ああ、四時に起きて見ている」

「少しマシになったけども……しかしそんな早く起きても時間有り余るでしょ、何してるの」

私が問うと、

「ジョギングしている」

「へえ、やっぱりプロは違うなぁ」

「イヤフォンでハクション大魔王のテーマを聞きながらな」

「どれだけタツノコプロを愛してやまない⁉」

 ファンか。ファンなのか。

 確かにクオリティー高いけれども。

「あ!まずい!気がつけばもう八時十五分だ!」

「ま、まじ⁉」

 飛鳥が腕時計を見ながら、お決まりのオーバーリアクションをかましていた。

 そういえば辺りにもう生徒たちの姿はないし、いつの間にか前山さんもいなくなっている。

「急がないと!」

「で、でも私、脚遅いし……」

 私が不安げに言うと、

「大丈夫。ボクが負ぶって行ってあげるよ」

「え……ホント?」

「ああ……」

 確かに、彼女にしてみればほんの数十キロ(女子なので体重は非公開)のおもりを抱えて走る事くらい、いとも簡単だろう。しかし、この近くには一般の人たちも歩いているのだ。そんなはしたない姿、見られるわけには……。

「……よし、判った。お願い」

「そう来なくっちゃ」

 今回ばかりは、恥を捨てた。

「さあ、乗って!」

 飛鳥はかがみながら背中を私に向けて示す。

 肩に手をかけ、彼女の両手に脚を乗せる。

 汗と洗剤の混じったような、爽やかな香りが漂う。

 好宮飛鳥の背中の温もりが伝わる。

 私が背中に乗ったのを確認すると、

「絶対に手、離さないでね」

「判ってる」

 ぎゅっと、両手で飛鳥の制服をつかむ。

「行くよ」

 と、彼女は澄んだボイスで言った。

 少しだけカッコよかった。けれど、元はと言えば元凶はコイツなのだから、悪く思う必要はないはずだ。

 結論から言えば、朝礼には間に合った。流石陸上部の期待の星。あっという間に前の生徒たちを追い抜いていった。

 だが、私はこの後とんでもない赤っ恥をかくこととなった。

 このバカは、私を負ぶったまま教室まで走っていったのだ。

 『赤ん坊』のイメージは、今後半年は拭えないだろう。

 相変わらず飛鳥はへらへらしていたが。


    *


「もう、本当に最悪!」

「そうカリカリするなって……」

 時刻は午後零時半。お昼休みである。

 我らが扇状中学高等学校の屋上。この学校は名前の通り扇形が一種のシンボルになっており、哄笑は勿論、制服にも扇形が刺繍されている(よく東京都のマークに間違えられる)。近代建築の巨匠、ル・コルビュジエの弟子だか後継者だかに依頼し、なんと学校の窓から校舎全体まで扇形が重なり合ったようなデザインに作り替えてしまったのだ。その奇抜な設計が道行く人々の目を引き、マニアの間ではちょっとしたスポットになっているらしい。その異常なまでの扇形信仰は授業内容にまで食い込んできており、美術の授業ではやたらと四分円を書かされる。だから扇状学校の卒業生はやけに曲線を描くのが上手いと妙な噂も立っているほどだ。

 扇の何がいいのかは判らないが。

 それで、この屋上ももちろん扇形仕様で、金網の模様さえも扇がずらっと連なったような形をしている。

「でもあり得ないでしょ、嫌がらせだとしか思えないわ」

 私が今朝のことを愚痴っていると、

「まあ、あいつもわざとやっているんじゃないんだし。――少し天然すぎる気はするが」

 と、相川いるかはいつも通りの落ち着き払った様子で言ったのだった。

 相川いるかとは、今屋上のベンチで私の隣に腰を下ろしている、やけに物事に冷静な同じクラスの男子生徒のことである。彼とは先月、ふとした理由で話す機会が多くなり、いつの間にか毎日の話し相手のひとりとなっていた。

 ちなみに、好宮飛鳥に余計なことを口走ったのはこいつである。まあ、当の本人たちはまるっきり覚えてなんかいないだろうが。

「【天然】――ありのままというのもありそうだけれど……この場合は『天性』というのが正解ね」

 右手にサンドイッチ、左手に広辞苑を開きながら、左に座っている前山玉希が言った。

「生意気だけど、どこか憎めない……そんなカリスマ的な才能が、あるんでしょうね」

 彼女の今の発言に、どことなく愚川善太郎の影が見えたのは、私だけだろうか。

「呼んだか!」

「うわっ!」

 思わず全員後ろに倒れ込みそうになってしまった。

 いきなり登場して顔を急接近させてきた飛鳥は、「えへへ」とあどけない笑みを見せた。

「しかし仲良く三人で弁当とは許しがたい!」

「はぁ……」

 そうとしか言いようがない。

「いくらボクでも、不純異性交遊は許しがたい!」

「何でそうなるの⁉飯食ってるだけだよ⁉」

「いーや違うね。名探偵アスカには全てお見通しなのよ」

「名探偵なの⁉」

「すいません嘘ですボクも一緒にお弁当食べたいです!」

 と、後ろ手に隠し持っていた弁当箱を広げ、ずかずかと横の席に割り込んできた。

「いいよね?いいよな。いいでしょ?」

「……んーいいよもう。何言っても無駄だし」

「えーそれどういう意味だよ」

 口をすぼめる飛鳥。いるかと前山さんが苦笑する。構わず手を合わせて弁当箱を開ける飛鳥。

「ああ、そうそう」

「どうしたの?」

 前山さんが飛鳥に言った。いるかと私も口をもぐもぐさせながら一応聞く。

「今日ね、朝テレビでUFOのヤツやってたじゃん?」

「ああ、あれね」

「あれ撮ったのボクなんだ」

「ああ……そういえば好宮、埼玉住みだったもんな」

 いるかが頷きながら言う。

「夜ね、寝る前に窓を見たの。なんとなく」

「そしたら、白い光が見えた――ってこと?」

「ううん、そのときはUFOは見えなかった」

 彼女は首を横に振った。

「あるのは人間の生首だけ」

「え、何それめっちゃホラーじゃん」

 私が興味を掻き立てられたところで飛鳥は、

「あるのは一人の美少女の顔だけだった――ってボクじゃん!可愛い!結婚したい!自分と結婚したい!アイラブミー!」

「飛鳥、今すぐここから飛び降りて死になさい」

 少しでも期待した私が馬鹿だった。

「冗談冗談。ほら、夜暗いと窓ってよく反射するでしょ?だから少し叙情的で、自分の顔がロマンティックに見えてしまうのだよ」

「『しまうのだよ』って、ただのナルシシストでしょ」

「いやぁ、私元から美少女だから」

「自分で言うなよ」

「じゃあ、おふざけはこの辺にして」

 と、飛鳥はいきなり真面目な表情を作ったが、慣れていないので可笑しいだけだった。

「そうして窓から外を覗いていたら、くろかげ公園の方に人魂みたいなものが見えたんだ」

「くろかげ公園?黒い影?何だか不穏な名前だね」

「『くろかげ』は正確には繰り返すの『繰』に風景の『景』……ほら、長尾正景とかっているでしょ?――ボクの地元の公園なんだけど……まあ、色々あって今はもう使われていないんだ」

「色々……?」

 なんだか意味深な物言いだった。

「じゃあ、今日ちょっとみんなで来てみる?」

「え?くろかげ公園に?」

私が問うと、「うん」と彼女は頷いた。

「いるか君と玉希ちゃんも来る?」

「私はちょっと部活があるから……」

「いるか君は?今日は確か美術部の活動日だったはずだが……」

 飛鳥の心配をよそに、「いやいや」と首を振るいるか。

「シャガール……児嶋部長はそこら辺緩々だから、一回くらいサボってもお咎めもされないよ」

「OK。じゃあ――」

 飛鳥は、立ち上がって指を一本、空に向けて突き立てた!

「扇状少年少女探偵団、これにて結成だ!」

「戦場って……ものすごくハードボイルドな響きね……」

 ひとり屋上で決めポーズをしながら高らかに笑う一年がいた。好宮飛鳥だった。

「あら皆さんごきげんよう――仲良く団欒ですか?」

いつの間に屋上に来たのか、皇本音は私たちを見ると軽く会釈をした。言葉の上こそ丁寧語だが、心の奥底では相当馬鹿にしている様子だった。

皇本音。見た目は西洋人風の彫りの深い色白な顔つきで、緑がかった瞳が、一層日本人離れしていた。彼女はあの『児嶋家』や『桂家』に並ぶ日本五大財閥のうちのひとつ、『皇家』のお嬢様だ。少々気取った感じの性格で、正直仲がいいとは云えない。

周りの生徒たちも少し険悪な雰囲気を感じたのか、無言でドアを開けて階段を下りていった。

「良かったら私も入れていただきたいものですわね」

 艶めいた色合いの髪の毛先が、屋上に吹く春風に揺れる。その視線はしっかりとこちらを見据え、逆光によって余計に威圧的に私の目に映った。

「ちょっかい出すのも、いい加減にしろよ……皇」

 いるかが呆れたように言い放つと皇本音は態度を急変させ、

「そ、そんなに、怒らなくったって、いいじゃない……」

 もじもじして若干頬も赤くなっているようだった。どうやら彼女の中ではツンデレを演じているらしい。

「そ、そうか……悪かったな、皇」

「は、はあ――!」

 いるかが戸惑いながら何となく謝ったところ、皇はとうとう我慢できなくなったようで、

「いや――ぁっ‼‼」

 と、謎の奇声を上げながらいるかに飛びついた。その衝撃波でベンチが揺れる。

「おい、何すんだ皇!」

「アイラブユーいやアイウォンチュー!大好きだよい・る・か・く――ん‼‼」 

「気持ち悪っ‼」

ぎゅうっともはやハグより強烈な抱擁を交わされ、少し照れ気味になっている相川いるか。

皇本音は、なぜかいるかにだけはべったりで、その度合いは越えてはならない何かを越えてしまっているようだった。

――ふたりとも同罪だわこれは。

 後で殺したいと思う。

「いるか君!」

「な、なんだよ……」

「子供――何人くらい欲しい?」

「はぁぁっ⁉こ、子供⁉」

「私、いるか君のためなら、何でもするから!」

「重いよ!いろんな意味で!」

「だから、この皇本音をあなたのあれで孕ませて……?」

「表現が生々しすぎる!」

「今日から私は、相川いるか様の性の奴隷です!」

「う、う、うわぁぁぁ!一瞬心が揺らいでしまった!」

「さあ、お願い……」

 皇は胸元をいるかに押し付けた。

 ふたりとも表情がそろそろまずくなってきている。

「ほら、ここ、こうなっちゃってる……」

「ぎやああ!なってないなってない!どこもなんにもなってないよ!」

「ねえ、いるか君、」

と、皇は慈愛顔で息を荒くしてその顔をいるかに近づける。

「キス、したことある?」

「え……ない、けど……」

「じゃあ、私が……」

「……‼」

「いるか君のファーストキス、もーらい――」

「ちょ、ちょっとあんたいい加減に――」

『キィンコォンカァンコォン♪』

 皇本音が相川いるかと唇を重ねそうになり、私が止めようとしたちょうどその瞬間。学校の昼休みの終わりを告げるチャイムが、鳴ったのだった。

 皇はすっとベンチから立ち上がり、

「ま、楽しみは後に取っておきましょう」

 とだけ言い残して、満足気な顔で階段のドアを開けた。

 かんかんかん、と、彼女の足音だけが響いた。

「まったく、全然弁当食べられなかったな……」

 いるかが片付けをしながら言った。

「あ、あのさ……前山さん、いつの間に居なくなったのかな……って」

 飛鳥が場違いに言う。

 確かに、もうそこには前山玉希は座っていなかった。

「か、彼女、すぐいなくなるよね、今日の朝のことといい……」

「いるか‼」

「は、はいぃ!」

 なぜかびびってアスカが返事をした。

「な、なんだよ……」

 流石に私の表情に気がついたのか、いるかは少し身構えながら言った。

「少しくらい……」

「……え?」

「少しは抵抗しなさいよっ‼」

「――‼‼」

 どん、っと。私は相川いるかを突き飛ばした。途端に彼は背中から尻餅をつくように倒れ込む。

 私は無言で階段の重いドアを開き、かんかんかんと薄暗い金属の階段を降りていった。やっていることは皇本音と同じだが、鳴っている音は全く別物だった。

 歯を食いしばる。

 物にでも当たりたい気分だった。

「ちょ、ちょっと待ってよ結未ちゃーん‼」

 遅れて背後から好宮の声が追いかけて来た。

 なぜあのとき、私は相川いるかを押し倒してしまったのだろう。

 なぜ私は今、怒っているのだろう。

 それが嫉妬だと知るのは、もう少し後のことだった。


    *


 川の水面で魚が一匹跳ねた。それを河川敷で見ていた子供がはしゃぎ、父親もそれにつられてつい釣り竿を川に落としてしまい、あたふたしていた。

 そんな喜劇的にものどかな日常を、私は車窓から見下ろしていた。やがて橋の鉄柱によってだんだんと視界が区切られていき、ついにはトンネルに隠れて見えなくなってしまった。

「さっきはごめん……」

 私は気まずい沈黙を少しでも解消すべく、飛鳥に言った。

「いやいや、結未ちゃんが謝ることじゃないだろう。そしてボクに謝る事じゃないだろう」

「そ、そうかな……」

 別に本気で謝ったわけではない。そんなつもりはないし、義理もない。ただ、これから彼女と会話をするにあたっての糸口を見つけたかっただけだ。

 途中駅に到着し、ほとんどの乗客が席を立った。取り残された私たちのすぐ横で、ドアは虚しく閉まっていく。電車が動き出し、肩が左にがくんと揺れる。前の席でいびきをかいていたサラリーマンの男は、その衝撃に体が反応して目を覚まし、横にいる女が迷惑そうに男を睨んだ。

 やがて電車はまた屋外へ抜け、先ほどと同じような景色が目に映る。太陽はビル群を見下ろすように空に腰を据えており、まだ朱くはなっていなかった。

『繰ろ景―。繰ろ景―』

 アナウンスが鳴る。

「ここで降りよう」

「あ、うん……」

 飛鳥に手を引かれ、うとうとしていた瞼を起こしながら、ホームと電車との間の仕切りをまたぐ。どうやらここには安全扉が付けられていないようだ。

 改札を出て、階段を上がる。と云っても、扇状学校前の駅ほど急ではない。十段程度でスロープ的な感覚だ。レンガ造りの階段のトンネルを抜け、地上に出る。

 そこは拍子抜けするほど静かな土地であり、上空のカラスの鳴き声以外、まったく無音というほどだ。

「いいところだろ?」

「うん……」

 少し古い住宅が並び、昔ながらの駄菓子屋や雑貨店の看板が並んでいたが、どれもシャッターが下がっていて、落書きやポスターがあるのみだった。

「ずいぶんここらも寂びついちゃってね……まったく、どこの田舎だよって話だよな……」

 駅階段口の近くに停めてあった自転車に鍵を挿し込みながら、飛鳥は言った。

「それ、あんたの自転車?」

「そうだけど……?」

「こんな所に止めておいて大丈夫なの?」

「え?」

 すると飛鳥は急に笑い出し、「平気平気」と左手でハンドルを握りながら、右手を顔の前で振った。

「こんな田舎町にチャリ泥なんていないって!」

「そ、そう……」

 飛鳥ならば徒歩十分だと思うけれど。――私が呟くと、彼女は、

「私は短距離専門だから。これボクの誇り」

 と胸を張って言った。何が誇りなのかは知らないが。

「でも、普通の人よりは断然脚、速いでしょ?」

「まぁね」

「第一、飛鳥の家ってどこなの?」

 すると飛鳥は、ぐるっと向こう側――つまり私から見て真正面の方向を指さした。

 そこは緑に覆われた険しそうな森の山だった。点描のように小さな葉、いや木かもしれないが、それらが大量に連なってできた集積のように見えた。

「山⁉」

「あの黒影山の向こうにボクの家がある」

 ということはもちろん、毎朝あの向こうからここまでのルートをサイクリングしているということだろう。

 そりゃ脚が速くなるわけだった。

「ちなみに山の方は普通に『黒』い『影』だから注意してくれ」

 ややこしかった。

「――ということは、あの山がニュースのビデオに映ってた森?」

「ああ。あの山の上の辺りに繰ろ景公園がある」

 飛鳥は恐らくその辺りにあるのであろうと思われる、繰ろ景公園の位置を指さした。

「じゃ、いっちょ行ってみようか、結未ちゃん、乗って」

 飛鳥はサドルの後ろの荷物置きを顎で示した。

――はあ。

 なんだかデジャヴュだった。

「じゃあ行くよ!」

「うん、お願いしやす」

「お安い御用!」

 私が後ろに座ったのを確認すると飛鳥は、両足をペダルに乗せ、これでもかというくらいのスタートダッシュを決めた。

「す、少し速すぎない?」

 口の中に向かい風が入って喋りにくい。

「大丈夫、誰も轢きやしないよ」

――本当かな……。

 ヘルメットを着けていないので少しでも間違えたら死ぬかもしれない。

 道路が滝のように高速で逆方向に流れる。横の建物も目で追っていると気分が悪くなりそうだった。

「う、うぉわぁ!」

「な、何⁉」

 目の前の道路の先に一匹の白猫が!――こちらには気づいていない様子で毛繕いをしている。

 飛鳥はすぐさま両手でブレーキを握りしめ、車体を斜めに傾けて速度を下げる!

 ぎぎぃぃぃぃい、と不快な音が響く。その音でやっと自分の危機に気がついたようで、猫は縮めた瞳孔でこちらを見、鳴き声を上げながら電信柱の裏の小暗い住宅の敷居の隙間へ消えていった。

「あ……危なっ!」

 飛鳥は猫の消えた敷居の隅を見て言った。

「まったく……あのままだとあの猫、死んでいたぞ」

流石に飛鳥も焦ったようで、冷や汗を垂れ流していた。

なんだか思わせぶりだった。

その後は比較的快調に車輪を進め、杉や竹が並ぶ山道を走り、例の繰ろ景公園に到着した。

 森の中にぽっかり空いたような異空間。丈の低い雑草ばかりが生えた丘に、古ぼけてツタの這ったレンガの時計塔、そして中央には嘘みたいに大きな大樹。ざっと樹齢千年というところだろうか。

 なぜかその木の枝には無数の紐が巻き付いていた。

 そして、その公園――というか、草原というか――の木の前に、見覚えのある学生服の少年が一人立っていた。

 無論、相川いるかである。

「い、いるか⁉」

 私が思わず声を上げてしまい、シイノキを見上げていたいるかが振り返ってしまった。

「おう、いるか君!」

 自転車に鍵を掛けた飛鳥が気安く呼びかける。

「…………」

「…………」

 無言のまま。

 私はいるかの前に立ち、その目を見る。

 いるかもそれ以上は一切動きを見せなかった。

「…………」

「…………」

「何をふたりとも気まずそうに沈黙しているんだ?」

 飛鳥が口を挟んだ。

「…………」

「…………」

 かあ、かあ。

上空でカラスが鳴いていた。

「…………」

「……あの」

「え?」

 はじめに口を開いたのは、私の方だった。

「あなたも……自転車で来たの?」

「え……あ、いや、そこのロープウェイで……」

 いるかはが指示した方向には一本の黒い線が伸び、赤い箱のようなものがぶら下がっていた。

 飛鳥が今気づいたような顔をしていた。

 明日から利用してみてはどうだろうか。

「ろ、ロープウェイなんてあったんだ……」

「去年出来たらしい。麓で五百円で乗れた」

「随分とお安いのね……」

「…………」

「…………何でここに来たの?」

「来ちゃ……駄目だった?」

 いるかが恐る恐る顔を上げた。

 冷たい風が肌に当たる。曇り空で、今にも降り出しそうだった。

「…………この不貞野郎」

「――え?」

「何怯えてんのよ……ここまで来てるんだったらもっと堂々としていてよ‼‼」

「――っぐぁっ‼‼」

 私はいるかの腹部を殴った。少し息苦しそうにその場に倒れ込んだ。

「だ、大丈夫かいるか君!」

 飛鳥がいるかに駆け寄る。

「結未ちゃん、君らしくもないぞ、いつもの君なら軽く受け流すじゃないか!」

「好宮……大丈夫、大丈夫……ちょっとしたお笑いみたいなもんだよ……」

 顔を上げながらいるかは無理に笑った。

「いるか君は黙っていてくれ……」

「…………」

 いるかは真顔で俯いた。

「――言ったよな結未ちゃん!お前は人が傷つくことに無関心で、人の死に対して冷静だ。――だけどな、先月ボクと約束したろ!痛めつけられた人を見て悲しむことはなくとも、涙を流すことはなくとも、決して自らの手を汚すことは絶対にしないと、そう言ったよな結未‼‼」

「…………」

 飛鳥は大声で私を怒鳴りつけると、胸倉をぐっ、と強引につかんだ。

 彼女の瞼は赤くなっていて、頬から顎にかけて水滴の流れた跡があった。

「そうだよ!今そうしているみたいに、今もそうしているみたいに‼ずっと真顔のままでいろよ!何も感じない死人の目をしていろよ‼――ボクは最初君が泣くことができないと聞いて……笑うことはできても泣けないと聞いて、可哀想だと思った……」

 飛鳥は顔を上げ、こちらをじっ、と見つめた。直視できない程の威圧だった。彼女が何を言っているのかも理解できた。

 だけど、表情には表せなかった。

「だけどな!その不満を人にぶつけるなよ‼可哀想だからって何をしてもいいってわけじゃ――」

「――やめてくれ好宮‼」

「――‼」

「………………」

 いるかが、叫んだ。

 悲痛に、叫んだ。

 表情は見えない。

 飛鳥の私の首を絞めていた手が緩む。

 時間が、止まったようだった。

「もう……やめてくれ」

「……いるか君」

「仲良くしようじゃないか」

 いるかは立ち上がり、尻についた土を払った。

 こちらへ、歩いてくる。

 私と飛鳥の間に、片手を差し伸べた。

「これじゃ――天国にいる伊月に顔向けできないだろ」

「…………」

「…………」

「…………だね――」

 道外伊月の名を出すのは――卑怯だった。

 忘れていた頃だったのに。

 忘れようとしかけていた頃だったのに。

 でも、それもそうだった。

 今喧嘩したところで……何にもならない。

「これで……全部なかったことだ」

 私といるかと飛鳥は、一応の見切りのために、握手を交わした。


    *


「さて、さっきのことは忘れて、そろそろ調査を始めよう!」

 飛鳥は両手をパチンと叩くと弾けるような声で言った。

 意外と切り替えの早い人間なのである。

――ついていけないなぁ……。

 というか、本当に何でさっきは手を上げてしまったのだろう。

 先月のショックも重なり、疲れているのかもしれない。

 自分で勝手に納得し、私はいるかと飛鳥について行く。

 草の生えた地面を歩き、靴が水滴によって濡れる。

 大木に近づいてみると、やはり妙な妖気のようなものを感じた。

 触ってみると気の表面はざらざらしており、奇妙にに歪んだその木目が人の顔のように見えた。

「これが首吊りの木だ」

 飛鳥が言った。

「く、首吊りの……木?」

「ああ、この近くじゃ有名な都市伝説でさ、何百年か前にここで生贄として首を吊った――吊らされた人がいたみたいで……」

「首を……吊らされた?」

 飛鳥は無言で頷く。

「てるてる坊主って知ってる?あれの起源は諸説あるんだけど、どの説にも共通してるのは、雨を止めるために生贄を吊るすということなんだ」

「…………」

 確かに、言われてみれば首吊りに見えないこともない。

 意外と残酷な風習だったんだな……。

「この辺りは昔っから干害が酷くてね……ここでもその生贄が捧げられたと云われてるんだ。そこで色々あったらしくて……」

「色々?」

 何があったのだ。

「生贄になった娘さんの父親(諸説あり)が生贄の儀式を行った僧を恨めしく思い、見せしめに娘が吊るされたのと同じこの木にぶら下げたという話だよ」

「でも、それで終わりじゃあないんだろ?」

 いるかが言う。

「ああ。以後この地では繰り返し首吊りが行われ、今では有名な自殺スポットとなっている。――繰ろ景という地名の由来も、ここの辺りから来ているらしい」

「へー……」

 繰ろ景と黒景。偶然の相似だったが、こういう例は他にもある。暗闇坂と呼ばれる地名は日本各所に存在するのだが、横浜のくらやみ坂だけは『鞍止坂』と書く場合もあるらしい。そういえばあの地には元々首打ちの刑場があったらしく、『暗闇坂』の名称は実に的を射ているように思われた。――くらやみ坂が舞台である『暗闇坂の人食いの木』という小説ではタイトルにもある通り『人食いの木』が登場するのだが、偶然にしてはやけに出来すぎている気もした。

「まぁ、このロープがすべてを物語っているな……」

 いるかは木から伸びる古そうな紐を引っぱった。

 その紐の先は輪になっていた。

 間違いなく、誰かが首を吊ろうとしていた証拠だった。

「それ、あんまり触んない方がいいんじゃない?呪われるよ」

「それもそうだな……」

 これでようやく判った。

 この公園に誰一人子供がいない理由が。

「そりゃ親もこんな所に子供を連れてくるわけがないよな……」

 逆光を浴びて大木の真っ黒なシルエットが浮かび上がる。私はその木の触手のような枝を見上げながら呟いた。

「さて――一応あの時計塔も調べておくか」

 なんだか初めの目的が見失われているような気がする……。

「UFOじゃなかったの?」

「ゆーふぉー?なんだそれ。結未ちゃん。ボクは英語が苦手なんだよ」

「…………」

 駄目だなこれは。

 そう思ったとき、ふと地面に立って思った。

「どうした?凪坂」

「早く行かないと宇宙人来ちゃうぞ!」

「待って二人とも」

「?」

 革靴で土を蹴る。

 やはり――ここだけやけに土が柔らかい。

 試しに素手で地面を掘ってみる。

「お、おい、何してるんだ――制服が汚れるぞ」

 いるかが言う。

「構わないわ……それより――」

 爪に入った土を払いながら、私は掘った穴をいるかに見せた。

 約二十センチぐらいの深さだろうか。

「?……――凪坂、それは!」

「ま、まさか……骨?」

 そう。

 土の中から出てきたものは――小動物の骨だった。

 腐敗が激しく土中生物に分解されていたため、ほとんど骨だけだったが、それがかつて意思を持った生き物であったことくらいは判った。

「そ、そんな……」

「誰がこんなことを……」

 小動物の死骸には少量だが黒みがかった毛が付着していた。

「黒猫……」

 頭蓋骨の形からして、間違いなく猫だった。

「とりあえず、警察に連絡を」

「判った」

 いるかは携帯電話の一一〇のボタンを押し、耳に当てた。

「今の時代、こんな事をする人間がいるんだね」

 飛鳥が寂しげに空を見て言った。

「いや、まだ他殺と決まったわけじゃないよ……寿命だったのかもしれない」

「それで……ここへ捨てられた?」

「…………」

 言ってみたはものの、その可能性は限りなく零に近かった。

 第一、こんな忌々しい自殺の象徴のような土地に、飼い猫を埋めるわけがない。

 バラバラになり、もはや個体としての形状を保っていない猫を抱きかかえ、空を仰いだ。

 こんな雑に埋められて……。

 明らかに埋葬ではなく、廃棄だった。

 穴には空き缶や生ゴミなどが一緒になって入っていた。

 空は曇っていくばかりだったが、一筋の光が、雲の隙間から差し込んだ。やがてその漏れ日は、この猫を照らすようになっていた。

 月日が過ぎ去り、忘れられていたペットが、やっとのことで昇天できた、そんな気がした。


    *


 その後、警察によって繰ろ景公園の地面を全面的に掘り起こしたところ、七体の猫の死骸が発見された。

 警察は動物愛護法違反の疑いで捜査を進める模様。

 なぜその猫たちが人為的に殺されたと判断されたのかというと――すべての猫の首には、ロープのようなものが巻き付いていたからだ。

 繰ろ景公園。

 この土地は、間違いなく呪われているのだと――。

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