日向の努力・日陰の努力
AM7:15
しん、とするダーク・ブラウンを基調としたフロア装飾の中、歩く音がすべて吸収されるウレタン樹脂のフロアタイルを歩く。僕が先頭、せっちが背後を。
せっちは僕の、アイロンをかけないワイシャツの裾を摘んで。
通路は窓際で右側にいくつものごく実務的な執務室のドアが並べられている。なんとなくアメリカの渋い警察映画に出てくるオフィスの雰囲気だ。
質素ではある。
通路の中程まで歩くと、シュンシュン、という音をバックに、ト・ト・ト、という規則的な音が聴こえてきた。
右側の視界がぱっ、と開けるエリアに出たかと思うと、高瀬社長と目が合った。
「よう。来たのか」
「・・・おはようございます」
僕が挨拶するとせっちも、おはよう、と高瀬社長に頭を下げた。
「毎朝トレーニングを?」
僕が語りかけると高瀬社長はランニング・マシンのパネルに手をトン、と触れて停止させた。
「座りなよ」
高瀬社長がベンチを指し示す。僕とせっちが腰掛けると更に接客の素振りをみせる。
「私のでよければ」
そう言ってトレイからグラスを取り上げ、ポットのグレープフルーツジュースを注ぐと僕とせっちに手渡してくれた。
「毎朝一番に?」
「ああ。経営者の嗜みさ」
へえ・・・
「社員には定時出社を厳守させてる。労基が怖いからね」
「あなたでもそうなんですか?」
「ふふ。コヨテをなんだと思ってたんだ。コンプラ遵守は当たり前、福利厚生もESも・・・社員たちの満足度は高いぞ。ただ、信賞必罰が厳格なだけさ」
「錦城部長は」
「ああ。『チカ部長』か。彼女は自らの決裁権限を越えた業務を行った。だから降格したんだ」
「どう越えたんですか」
「君らへのアプローチの方法さ。競合企業の妨害工作を排除しようという方向性は間違ってない」
「妨害はしてません」
「まあいい。社内規定にきちんと則った人事だ。明確だろう?」
「もしあなたが決裁するとしたら」
「法的にも瑕疵がなく、スマートで確実な方法で」
ジュースを飲んで高瀬社長は、ふうっ、と息をつきながら言った。
「君らを潰すさ。決して舐めたりせずにね」
立ち上がってトレーニング機器を手のひらで指し示す。
「どうだ、キヨロウ、せっち。コヨテはいいぞ。このトレーニングエリアでな、ランニングしながらわたしと専務とで早朝ミーティング、なんてこともある」
わかってはいた。
「あなたはとても優秀な経営者だと思います」
「そうでもない」
「いいえ。ストイックに仕事に向き合っている。明確なルールに則りそれを自らも守っている」
「ふふ。私も知っているぞ。キヨロウ、せっち。君らは決して怠け者じゃない。せっちもにっちも『やるべきこと』と言っていたな? 私もそう思うよ。『やりたいこと』を設定したらそれは目標が数値化される。社員たちは経営陣と契約するのさ。『わたしはこの案件をやってみたい。ついては10億円の年間利益を確保します』と。達成できれば『おめでとう』できなければ『残念だったな』だ。報酬もそれを加味する」
「大変だね」
「せっち。どの分野でもそうじゃないか? 万年予選落ちのテニスプレイヤーにスポンサーがカネを出すか? 『オリンピックで金メダルを取る。だから支援を』ということだろう?」
「まあね」
「そいつが金メダルを取ろうが取るまいが知ったことではない。そもそもテニスなんて道楽を好き好んで自分がやりたいだけの話だろうが。ならばあとは契約通り・・・つまり、『約束を守れよ』ということだ」
「つまんないね」
「ほう」
せっちは偉い。
目尻はピクピクとわなないて、にっちの仇と心は燃え盛っている筈なのに、それを理性で押さえ込んで冷静に高瀬と対峙している。
「それって、日向の努力しか見えてないよね」
「日向の努力?」
あ。
高瀬社長が疑問符を浮かべたぞ、せっち。
「高瀬は努力してるよね。毎日毎日」
「それが企業人の宿命だろう」
「努力できない時の努力ってしたことある?」
「・・・病気やケガの時の話か」
「うーん。ちょっと違うけどまあいいや。ねえ、病気の時とかどう努力したの?」
「そもそも病気にならないようにこうしてトレーニングしている。仮に病気になったとしたら、体調の許す範囲で私を補佐する役員たちと連携しながら最善の努力で業務に当たる」
「ふっ」
「不正解か」
「ううん。大正解。でも、高瀬の予測する『不測の事態』ってその程度なんだね」
「一応自分が病気や事故で死亡することまで想定はしてるが」
「じゃあ、戦争は?」
「・・・戦争か」
「クーさんは戦争、って言ってたんだよ。ねえ? キヨロウ」
「うん。久木田社長は戦争が起こった時にステイショナリー・ファイターが企業としてどうすべきか、あるいはどういう人財がそういう戦時下で力を発揮できるのかということまで見越してました。久木田社長も素晴らしい経営者だと思います」
「でねえ、高瀬。日陰者・・・じゃなかった、『日陰の努力』も素晴らしい努力なんだ、ってクーさんは褒めてくれたよ」
「そうか・・・日陰の努力か・・・」
「別にわたしたちの境遇だけが不幸ってわけじゃないけど、世のあらゆる虐待を受ける人たちの努力は圧倒的な暴力の中で『耐え忍ぶ』努力。クーさんはそういう人間の見えない努力もきちんと気にかけてくれてる」
「・・・もうすぐ始業の時間だ」
「はい。帰ります」
「わたしをどうにかしたかったんじゃないのか」
「今日はやめときます」
「じゃあ、いつだ」
高瀬社長が僕の目を射抜く。
血に温度が無いような視線だけれども不快感はない。
「3日後が株の公開買付けの締切日ですよね」
「そうだ」
「では、その日に」
「ああ、キヨロウ」
「はい」
「君のぶつけた車はわたしの車だ」
「・・・すみませんでした」
「構わない。事故、だ。保険で修理する」
「守衛さんを罰しないでください」
「守衛を処罰する規定などない」
・・・・・・・・・・・
「キヨロウ」
「うん」
「高瀬も『こっち側』じゃないかな?」
「うん・・・僕らよりもっと屈折してるかもね」
「なんだか、かわいそう」
何がかわいそうかというと。
『わたしらにやられちゃうのに!』
というせっちの自信の現れなんだろう。
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