第10話 修羅を携える者

 自らを"世羅"と名乗るその人物は、再びゆらりと二人に向き合う。すると、すうっと右手を前に伸ばし、響夜を指差す。そして、その指をゆっくりと回した。その不思議な動作に、何が起こるかわからず桜香も戸惑う。さらに世羅は、そのゆっくりとした動作を維持したまま、ぼそぼそと呟き始める。


「…我は世羅…"この世の修羅"を呼び起こす者…汝の内に眠るもの…ここに…」

「っ!? くぁ…っ!!」

「響夜っ!?」

「か…っ! はあっ…!! あぁああぁあああっ!!」

「響夜! しっかり!! 響夜っ!!」


 世羅のその動作の後に、響夜が突然苦しみ出す。桜香が咄嗟に倒れそうな彼を支えるために側へ寄るが、差し伸べた手を激しく振り払われる。その彼の瞳は、いつもの凜とした、穏やかな光を宿すそれではなかった。血のように赤く染まり、眼光がまるで人のものとは言えなかった。そのに気圧された桜香は、恐怖で動けなくなってしまった。…と同時に、視界が大きく変化し、現実に引き戻される。


「先生っ!!」

「桜香、さま!」

「っぁ!?」


 気付けば、響夜と紅香が自分を心配そうに覗き込んでいる。過去を振り返っている内に、どうやら気を失ってしまったようで、今では布団に横たわって介抱されていた。額に当てられている、水に濡らした手ぬぐいの冷たさが心地よく、桜香はすぐに落ち着きを取り戻した。


「…ごめんなさい、私、いつの間にか…」

「先生…今日はもう休みましょう。さっきの雨にも濡れて、きっと体が弱っているんですよ」

「そう、ね…そうさせてもらおうかしら…」

「お風呂、は、どうします、か?」

「この調子だと、あまり入らない方が良さそうかな…うん、体を拭くだけにしておくわ。紅香、背中を拭くの、手伝ってくれる?」

「はい」

「それじゃあ、今のうちにお湯汲んでおきますね。準備できたら、紅香と一緒に来てください」

「ありがとう、響夜。お願いするわ」


 再び響夜が離れると、桜香は体に重圧のような脱力感を覚える。目眩にも似た感覚に襲われ、先ほどまで振り返っていた記憶が、だんだん薄れていくような気までし始めた。また意識を失わないように、気をしっかりと保つことだけでも精一杯なほどだ。


(何…? 何でさっきまで思い出していたことが、わからなくなってきているの…? 今までだってこんなことなかったのに…)


 重くふらつく頭を支えながら、もやのように渦巻く思考を整理しようと試みる桜香。しかし、考えて思い出そうとするだけで、更にその靄が濃くなっていく感覚に陥っていた。それと同時に頭痛まで引き起こし、彼女の顔色がだんだん悪くなってきたことに、側にいた紅香も気付いていた。咄嗟に桜香の体を支え、背中をさする。


「桜香さま…気分が、優れないのですか?」

「え、えぇ…急に起き上がっちゃいけないものね…少し目眩がしたから…」

「今、響夜さまをお呼び、しますか…?」

「ううん、大丈夫。体を拭いて、あとは休むだけだから。ありがとう、紅香」


 桜香はまた、いつものように優しく微笑みながら、愛おしそうに紅香の頭を撫でた。そしてふと、表情に陰も落とす。先ほどの具合は何だったのか…? それを、紅香や響夜に心配をかけまいと、隠してしまうのが彼女の癖のようにもなっていた。


(…まるで、思い出すこと自体が罪と言われているような感覚ね…)


 その後、紅香に手伝ってもらいながら支度を整え、桜香は穏やかな眠りについた。

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