第8話 秋のはじまり。早朝の音がする。

早めの通学路は閑散としている。

楽器を担ぐ生徒が視界に入ってきた。来週に迫ったコンクールに向けて朝練に気合いを入れている吹奏楽部くらいしか、この時間の通学路にはいない。


今日は妙に早く目が覚めてしまい、ペースが狂ったまま早めに家を出てしまった。

ヤコの匂いが変わってしまってから、一ヶ月近い日が経った。あの日から、睡眠のリズムはうまく作れていない。眠れない夜が増えた。

今日も睡眠時間はかなり少なかったはずだ。だけど、全然眠くない。ヤコへの気持ちが乱れていることで、それ以外の感覚も全ておかしくなってしまったような気がする。


一ヶ月で分かったことが二つある。


一つ目は、やはり生理的な嫌悪感は消えないということ。

しばらく、意識的にヤコの頭の匂いを嗅がないように心がけてみた。月曜日の数学の終わりにはすばやく席を立ってみたし、もちろんそれ以外のタイミングでも一切ヤコの頭の匂いは嗅がなかった。

そうすれば、記憶の中の非処女の匂いが薄れるんじゃないかと思った。わずかでも、嫌悪感が薄れるんじゃないかと思った。

だが、結局は徒労に終わってしまった。嫌悪感は消えない。嫌悪感が消えない理由はよく分からない。意識にのぼらないレベルで微細な匂いを嗅ぎ取ってしまっているのかもしれないし、一生消えないレベルの強い記憶なのかもしれない。

いずれにせよ、「時間が経てば嫌悪感は薄れていくかもしれない」というわずかな希望は、完膚なきまでに破壊されてしまった。まあ、今まで非処女と接してきた経験から、望み薄だと思ってはいたけれど……。


二つ目は、他の生徒たちのヤコへの接し方について。

不安は的中した。ヤコともともと親しくしていた女子グループは距離を取るようになった。嫌がらせをしたり露骨に仲間はずれにしたりということはないが、それでも明らかに彼女に声をかける機会は減り、対応もなんとなくよそよそしくなった。

男子はもっと露骨で、必要のないタイミングでヤコに話しかけることはほぼなくなってしまった。

ヤコは普段、クールな印象だが、人と話すのが嫌いなタイプではない。いや、むしろ好きな方だろう。だから、誰かと世間話が満足にできないこの現状はツラいはずだ。

それでも彼女は、気丈にふるまっていた。増えた一人の時間は、読書にあてているようだ。教室で本を読んでいる彼女の姿を見る時間が、以前よりも多くなった。

そして、オレはそんなヤコに、積極的に話しかけることにしていた。「何読んでるの?」とか、「オレもそれ、読んだよ」とか。

その行動を取る理由はうまく言語化できない。あの時体育館でヤコの助けになる行動を取れなかった罪滅ぼしなのか、ヤコの寂しそうな現状をどうにかしたいのか、ヤコと本の話で盛り上がるあの時間を取り戻したいのか、「オレはヤコのことを嫌っていないよ」というアピールがしたいのか、あるいは単に、ヤコのことが好きなのか。おそらくそのどれもが正解なのだろう。


それでも悲しいことに、会話は以前のような盛り上がりを見せず、妙によそよそしかったり、噛み合わなかったり、うまくいくことはなかった。

オレは彼女の顔を見ながら湧き上がる嫌悪感を必死で抑えて会話していたし、彼女はそんなオレの様子を感じながら気を使って会話していたから、盛り上がらないのは必然なのだろう。

図書室の一角で、二人で会話を交わした穏やかな時間は、もう戻ってこない。

埃っぽい図書室を、窓から入ってくる西日が照らす、あの黄金色の時間。

ザラザラした長机で肩を並べて、無邪気な軽口を叩いた時間。横目で、集中する彼女の白い横顔を眺めた時間。


失われた時間に思いを馳せる。

今日は、一ヶ月ぶりの図書委員業務の日だ。また二人でポップを書くのだけれど、気が重い。

教室での五分の会話にすら難儀する、今のオレとヤコの関係では、あの穏やかで楽しい時を過ごすことはできないだろう。掴みどころのない、上滑りするだけの会話をたまに交わして、業務をどうにか終わらせて帰ることしかできないだろう。


今日の計画を練りながら、朝の閑散とした校舎を歩く。

遠くで、吹奏楽部が練習を始めた音がした。

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