2.出会い

 小学生の時にスイミングスクールに通っていたとはいえ、十一月の川に考えなしに飛び込んだ瞬間、自分の行いを深く後悔した。

 冷たい水は瞬く間に制服を浸食して、次第に体が重くなっていくのを感じる。手足を動かすのが辛くなっていき、前進をするのが徐々に難儀していった。

 しかしそれでも、僕は溺れかけている女の子を助けようと泳ぎ続ける。


「早くつかまって!」


 手の届く場所まで泳ぎきった僕は、女の子に向かって必死に手を伸ばす。それに呼応するかのように、女の子も僕に手を伸ばして右手をガッチリとつかんだ。



 僕はつかんだ女の子の右手を離してしまわぬように、左手と両足を使って泳ぎきり、岸にたどり着いた。

 力を使い果たした僕と女の子は、川原の砂利の上にへたりこみ、激しい呼吸を繰り返す。制服はブレザーを除いて当然ずぶ濡れ。けれど僕の心の中では、人助けを成し遂げたという確固たる達成感が沸き上がっていた。

 ふと夜空を見上げると、二色の流星はすでに消え去っていた。

 女の子は濡れた髪を掻き分けながら、僕に向かって口を開く。


「助けてくれてありがとう。あたし……泳げないんだ。この年で……笑っちゃうよね……」


 僕は息を切らしながら、目の前でずぶ濡れになった女の子に視線を向ける。年齢は僕と同じくらいだろうか?

 金髪に近い黄色のサラサラの長い髪。星の模様が所々に描かれた長袖のパーカー。黒のスカートに黒のストッキング、そして白のスニーカー。橋の街灯に照らされたその姿は、この時期では明らかに寒いように見える。


「あたし、上条かみじょう琴音ことね。君は?」


 名前を聞かれて隠す必要なんてないと思った僕は、偽る事なく自分の名前を述べた。


「僕は藤崎ふじさきまこと……どうして川になんか飛び込んだの?」


 僕が尋ねると目の前の少女――琴音はバツが悪そうに僕から目をそらす。そんなに言いたくない理由があるのか? と思っていると、琴音は気恥ずかしそうに口を開く。


「流星を見るのに夢中で……この川原で空を見ながら星を追いかけてたら、急な強い光で目が眩んで、ふらついて川にトボンって落っこちた」


 ここの川原は夜は暗いから、僕より先に琴音が流星を見に来ている事に気がつかなかったのか――いや、それよりも……琴音の理由を聞いた僕は、思わず吹き出してしまいそうになる。


「あっ! あたしの事、ドジだと思ってるんでしょ?」


 琴音に指摘された僕は、必死に弁解の言葉を探す。


「ち、違うよ。流れ星を見ようとしてくれる人がいて僕は嬉しいって思ったんだよ?」


 誤魔化しも何もないと言われれば嘘になるけれど、僕と同じ興味を抱いてくれた事は喜ばしい。これは紛れもない事実だ。

 琴音は暫く僕をいぶかしむように、眉をひそめて見つめていたが、やがてうつむいてしまう。


「ごめん……あたし、もう帰るね」


 うつむいたまま、琴音は僕に背を向けてこの場を去ろうとする。

 両方の肩は何かに怯えるかのように縮み、離れていても小刻みに震えているのが分かった。

 僕はそんな琴音の姿が泣きたくなるほど痛々しく感じ、気がついたら小走りで駆け寄ろうとしていた。


「ね、ねえ。そのまま帰ろうとしたら風邪ひいちゃう……」

「来ないで!」


 琴音が背を向けたまま声を張り上げたので、僕は思わず走り出した足を止める。


「琴音……?」


 僕が慎重に声をかけると、琴音は肩の震えを強くする。


「何? 風邪ひいちゃうから親の迎えを呼んで帰った方がいいとでも言おうとしたの? あたしね――両親離婚して別々に暮らしてるんだよ。あたしはママの所に住んでるけど、貧乏だし、親子間の仲は悪いし、電話とか持ってないし、連絡まともにとれないし……!」


 悔しそうに両手の拳を握りしめて、からだ全体を激しく震わせる琴音。


「何も知らないくせに、裕福なあんたの基準でいい人ぶるんじゃないわよ!」


 夜の川に、そして夜空にこだまするほどの声量で、琴音は僕に吐き捨てる。しかし断固として顔をこちらに向ける事はしなかった。きっと泣いた顔を見せたくなかったのだろう。そして体を震わせているのは、寒さのせいだけではないのだろう。

 言葉を的確に選べなかった僕は、自分の言動に後悔の念を抱いた。


「ごめん、今の発言は……無神経だった。ホントにごめん」


 謝罪の言葉を述べた僕は、しばらくの間琴音の背中を見つめていた。星の刻まれたパーカーが妙に可愛らしく感じ、キョロキョロと目が泳いでしまう。

 一分くらい経過しただろうか……琴音は「じゃあね」と言って歩き出した。


「うん、じゃあ……」


 琴音の背に向かって、僕は力なく別れの挨拶をする。琴音が見えなくなる前に踵を返してブレザーを羽織り、バッグを掴む。土手の階段を登り、立て掛けていた自転車に跨がった。そしてバッグをかごの中に放り込むと、自宅に向かって自転車を発進させる。



 走っている間は、体に染み渡った水分を介して、冬の寒さが僕を襲う。その寒さは肌を刺すなんていう生易しいものではなく、寒さそのものが内臓を貫こうとしているほどの痛みを伴っていた。羽織ったブレザーも意味をなさず、裏地はすっかり水を吸ってしまっていた。

 琴音もこんな気持ちで、帰りたくもない我が家に帰っているのだろうか?



 いたたまれない気持ちのなか、僕は自宅のある住宅街を目指していた。



 自宅にたどり着くと門をくぐり、自転車を門扉の側に立て掛ける。玄関灯の淡い光に照らされた扉を開ける。室内は玄関の照明がついているのみ。後は暗闇に包まれていた。

 僕はびしょびしょに水を含んだスニーカーを玄関に脱ぎ捨てる。それと同時に、石造りの床に向かって大きくくしゃみをした。屋内に入ったというのに体に感じる寒気が治まらない。


「ヤバ……風邪ひいたかも……」


 独り言をぼやいた僕はそのまま二階に上がり、自室の扉を開ける。そして着ていたものの全てを脱ぎ捨て、タンスから下着とパジャマ、そしてバスタオルを取り出した。とりあえず髪と体全体に染み渡った水分を拭き取り、急いでパジャマを着る。

 そのまま一階のバスルームに駆け込み、浴槽に飛び込んだ。お湯は時間が経過してぬるま湯になっていたので、蛇口からお湯をつぎ足す。

 しかし、一向に体が温かくならない。どうやら自宅に着くまでに体を思いっきり冷やしてしまったらしい。


「うう、頭クラクラしてきた……」


 身の危険を感じ取った僕は浴槽から出て、脱衣室で体を念入りに拭いてパジャマを着る。そして重い足取りで二階の自室に向かい、ベッドにダイブする。

 毛布にくるまった僕の頭の中では、川原で助けた琴音の姿がぐるぐる渦巻いている。



 僕と同じく、天体が好きなのか?

 家はどこにあるのか?

 家庭環境はどのくらい複雑なのか?



 考えても意味がない事は分かっていても、琴音の残像が脳裏に張りついて離れない。しかしそれも睡魔には勝てないようで、三十分ほど横になるとウトウトしだし、そのまま眠りに落ちてしまった。

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