第14話 地下
太が言葉を無くすとともに、話し合いは終わりを告げた。式の準備があるといって、美里と青年、美優と少年が室外に出て行く足音を耳にしている間も、太の視線は、先程まで美優が座っていた場所に注がれている。頭の中には、起こっている出来事をいまだに受けいれられないという感情がある一方、どれだけ言葉を尽くそうとも既に姉妹に自らの声が届かないのだろうという妙に強い確信があった。この二つを受けとめた結果、既に自分はここにいる必要もないのではないのか、という気持ちが太の中で膨らみはじめる。一週間や当日での結婚ほどではないが、愛する娘たちの結婚式に出席しない親というのはどうかという思いもあった。しかし、これから数時間後に行われるであろう結婚式を想像すれば、苦虫を噛み殺した顔をしながら祝福どころか姉妹の恋人や館の住人を呪う未来しか太には思い浮かべることができない。今はどちらかといえば脱力感が先だっているから想像しがたくはあったが、その時になれば怒りに我を忘れ、館の住人に襲いかかるかもしれなかった。それはそれで今胸の中にある不満を吐きだすのにはちょうどいい気もしたが、住人たちに心をなびかせた美里と美優はいい顔をしないだろう。悲しむのであればまだましであるが、万が一、蔑みの目でも向けられたとするならば、生きていける気がしなかった。いずれにしろ、太にとって不本意な結婚式である以上、その場に居合わせるのは苦痛でしかなく、できれば目にしたくはなかった。幸か不幸か、姉妹たちは自分たちの結婚にばかり注意が向いているせいからか、太に感心を払っていないようであるから、結婚式にいなくてもさほど気にならないのではないのか。もちろん、太がいないとわかって、姉妹が各々悲しむということもありうる。そうなればそうなったで、多少は二人の心に父としての存在を刻みつけられるのではないのか。
太の中でこの場から一足でも早くいなくなりたいという気持ちが大きくなり、さっさと館から出て行こうと決意しかけた矢先、
「少しいいだろうか」
低い声音がすぐ傍で響いた。ぎこちなく振り向くと、館の主が相変わらず自信に満ち溢れた顔を浮かべている。これもそれも、この男があの兄弟を産んだせいなのだ。そんな八つ当たりじみた思いを抱きつつも、その考えが子供じみているというのは太自身も理解していたため、愛想笑いを取り繕い、なんでしょうか、と尋ね返す。一連の出来事に対する侘びなどでないのは、なんの罪悪感も窺えない表情からすぐに察せられた。
「娘たち二人が結婚する前に、あなたに教えておかなくてはならないことがある」
返ってきた重々しい声音に、太は、あんたに教えてもらいたいことなどない、と真っ先に思ったのもあり、今日は疲れましたのでまた今度にしていただけませんか、と控え目に断りを入れる。
「たしかにこれから美里と美優の結婚式があるのだから、今へばってもらっては困るな」
はっきりとした物言いからは、薄っすらとではあるが太に対する心配の念が滲んでいるように聞こえる。とはいえ、話の内容が内容だけに、太がその気遣いをありがたがることはなく、かえって腹の底からの憤りを膨らましただけだった。
「とはいえ、こちらも急ぎの用なのだ。どうしても、結婚式の前に済ませておきたい」
「それならば、式を延期していただけないでしょうか。何度も繰り返しましたが、今日である必要はどこにもないのでしょう」
反射的に蒸し返した議論に、主は苦笑いを浮かべ、それはできない相談だ、と応じてから、
「息子たちと娘たちは、今日の結婚を望んでいる。いち早く、愛する人間とより深く繋がりたい。それ以上の理由はいらないだろう」
そう述べてから肩を竦めてみせる。太は、やはり、この館の主とは意見が合わない、と思いながら、そういうことであるならば私もあなたに従う義理はありません、と答えて席を立つ。今日という日に、今までの人生でかつてないほどの不快な出来事の多くが重なってしまったのもあり、いつにもまして、気が立っていた。
「待て待て、早まるな。あなたにとっても悪い話ではない」
館の主はともすれば、結婚式についての話し合いの時よりも必死に見える。これまでの経緯から、悪い話ではないという言を太は素直に受けとることはできなかったが、この男がそこまで言う事柄というものに多少の興味が湧いた。とはいえ、どちらかといえば、もう館の住人の思い通りになりたくないという気持ちの方が強くあり、まずその見せたいものがなんなのか話してみてくださいと言うに留める。たいした話でなければ、あらためて突っぱねてしまえばいい、と思いながら答えるよう目線で促した。
「直接見てもらうのが一番早いのだよ。こちらの口から言ったところで、石井さんは実感できないだろうからな」
しかし、館の主も自らの口で説明しようという気はないらしく、大事なところを語ろうとしない。太は、やはりなんらかの手段で自分を陥れようとしているのではないのかという疑惑を強める。既に失うものもほとんどなくなっていたため、なにが起ころうともさほど動じないにしても、もうこれ以上館の住人たちに振り回されるのはごめんだ、という思いがあった。
「言えないのでしたら、私は帰らせていただきます」
自分自身にみっともなさをおぼえつつも、この館でどのように見られようとかまわないと割り切っていた太は、ゆったりと踵を返した。直後に指を食いこませるような勢いで肩を掴まれたため、すぐさま振り向く。
「まあまあ、そう言うな。俺とあなたの仲ではないか」
「あなたにそう言われるほどの関係になった覚えはないのですが」
厳密に言うならば、太がみとめていない二つの結婚によって分かちがたい縁が結ばれたという見方はできもなくもなかった。とはいえ、太はこの館の住人とできることならば関わり合いになりたくないため、親戚になるなどというのは考えただけで怖気が走りそうになる。
素気ない太の態度に、館の主はなぜだか口の端を大きく吊りあげてみせた。いつになく、愉快そうですらある。
「あなたはそう思うだろうな。しかし、俺とあなたは深い仲なのだよ。今回結婚もまた、その深い仲ゆえに、最初から決まっていたといっても過言でないかもしれないな」
尚も思わせぶりな言い方からするに、館の主は自らに酔っているに違いない。そう判断しつつも、やけに確信に満ち溢れた物言いを耳にするにつれて、太は男が指し示す、教えておかなくてはならないこと、とやらを知りたいという欲求が募っていく。
「あなたと私がどんな関係であろうと、私は今帰りたいんです。なんであろうと、後にしていただきたい」
だが、口から飛びだしたのは、もっと深い感情の方にのっとった台詞だった。これには、ここのところ味わった鬱屈した感情はもちろんのこと、二日間溜まりに溜まった疲れによるところも大きく関係しており、もう放っておいて欲しいという気持ちだった。つい先程まであった、親としての使命感やら、姉妹への愛情などはなりを潜め、もうなにもしたくないという消極的な感情が身体の隅々まで浸透している。
「そうか。ここまで言っても聞いてもらえないのか」
太の反応が予想外だったらしく、主は軽く俯きながら目を瞑った。その仕種に太は少しばかり溜飲をさげたものの、依然として男の言うことを聞く気にはなれず、肩にかかった手を振り払おうとする。しかし、館の主の握力のせいか、あるいは掴み方がしっかりしているからか、肩には指が食いこんだままだった。
「穏便に事を済ませたかったが、いたしかたないな」
不穏な発言とともに館の主が目配せしてすぐ、今度は羽交い絞めにされた。背中にふっくらとした脂肪の塊を感じて後ろに目をやると、予想通り、召使いの女が仏頂面で太を睨んでいる。
「離していただけませんか」
「お断りします」
頼んでみるものの、女は離してくれる気はなさそうだった。ならばと振り払ってしまおうとするが、館の主に捕まれていた時と同じくびくともしない。反射的にこの命令を出したと思しき男を睨みつけてみせるが、当の本人は悪びれた様子もなく肩を竦める。
「これは仕方ないことなのだよ。お互いに意見の違いがあるのであれば、どこかしらで摺りあわせるほかないのだから」
「それだったら、私の方の意見をもう少し汲んでください」
「残念ながら、こと、今日にかぎってはその願いを聞くことはできない。まあ、諦めてくれたまえ」
あっさりと告げる主の態度に、太は腹を立ててなんとかもがこうとするが、女が両腕を締めあげるようにして力をこめているため、どうにもならない。
「あなた、失礼じゃありませんか。旦那様のご厚意を無碍にしようとするなんて」
耳元に響いた女の冷やかな声は、明らかに太を責めている。なぜ、俺が悪いみたいな話にならなくてはならないのだ、と太は内心で愚痴りながら、言い返そうとしたところで、
「まあ、そう言うな。石井さんには石井さんなりの事情があるのだ。それに、今はこちらがこの人の時間をいただこうとしているんだ。断られることだってあるだろうさ」
館の主が、女の召使いをなだめるようにそう注意する。もっとも、太に今与えられている仕打ちは、いただく、などという穏当な行為をとっくの昔に越えていたが。女は、失礼しました、と言ってみせたものの、太に対する謝罪はない。
「それでは、ついてきてくれたまえ。きっと、石井さんにも喜んでもらえるはずだ」
主は誇らしげに微笑んでみせたあと、大きな背中を太に向ける。太もまた、召使いの体に強く押されているため、移動せざるを得ない。動き出す直前、耳元で、旦那様の寛大さに感謝してくださいよ、などと刺々しい口調で囁かれたことによって、太はより気を悪くした。なぜ、俺がこんな目に遭わなくてはならない、と思いながら、のろのろと歩を進める。少しでも目的地に着くのを遅らせようと後ろに体重をかけたが、召使いの女は変わらない歩幅と歩みの速さを保ったため、それすらも無駄骨に終わらざるを得なかった。
一階におりてすぐ、階段のすぐ脇に位置する扉に潜りこむ。正面には更に下に続く階段が設けられていた。
「足元に気を付けてくれよ。もっとも、落ちそうになっても支えがあるから、さほど心配はいらないかもしれないが」
館の主は軽く注意を促すとともに、階段の入り口手前に設けられたスイッチを押す。それと同時に、下の階から明かりが漏れだした。不承不承ながら、太は男のあとに押されるようにしてついていく。
ぼんやりとした灯りが一定の間隔で設けられてはいるものの、一段一段が石造りの階段は、一目見ただけではどこまで続くのかわからないくらい深いようだった。少々足元が見えにくいこともあり、自然と太の歩みも慎重になる。足を滑らした際にどこまでも落ちていくのではないのかという想像がその意識を強めた。
「ところで、石井さんは再婚しないのかね」
下りはじめてすぐ、館の主に軽やかな口ぶりでそう尋ねられた。おそらく、姉妹から聞いたのだろうと思いながら、なぜあなたにそんなことを言わなくてはならないのか、とぞんざいに応じる。
「なに、男手一人では、あの娘たちを育てるのも骨が折れただろうと思ってな。あなたもまったく考えなかったというわけではないのだろう」
館の主に言葉には、微かにではあるが太が姉妹とともに歩んできた長い生活に対しての気遣いが感じられた。理不尽なことばかりにあってきた反動と、少々甘くなった相手の態度に中てられたのもあって、自然と口が開く。
「まったく、考えなかったかと聞かれれば嘘になります。ただ、これといった相手も見つかりませんでしたし、娘たちも新たな母が家に入るというのには、いい顔をしませんでしたから」
太がそこまで言ったところで、不意に館の主が立ち止まる。
「それだけ、かね」
男の低い声音はいつになく真摯で、太の心そのものに語りかけているようだった。
「なにか、私の言ったことにおかしなところがありましたか」
「おかしなところはなにもないな。充分に考えられる理由だろうし、実際にそうだとも言える。だが、今の答えには決定的に足りないところがある」
そう言い切ったあと、館の主は太を強い視線で射抜く。
「いま一度尋ねようか。あなたは、なぜ、再婚しようと思わなかったのかね」
この問いかけに太は、言ったとおりですよ、と答えたかった。しかし、この館の主の強い眼差しからするに、正しくないことを口にしたところで、納得はしないだろう。とはいえ、この男が納得しようとしまいと太には本来関わりのないことであるのだが。
「私個人としても、あまりそういう気分にはなれませんでした」
それでもこのような心情を漏らしてしまったのは、今の話で、いなくなった妻のことが思いだされたからであろうか。特に理由はないと口にしてしまうことは、太が妻と過ごした時間がなかったと言ってしまっているようで、どうにもやりきれなかった。
「と言うことは、あなたは、いまだにかつての妻のことを想っているのかな」
「そこまで大袈裟な話しではないですよ。生きているだけでもなにかと忙しいですし、忘れている時も多いと思います。ただ、引き摺っていないといえば嘘になるでしょうね」
答えながら、頭の中に妻の姿を思い浮かべる。いなくなってから随分と経ったのもあり、その記憶は大分薄れている。ともに過ごした時間にしても、しっかりと数えてはいないが、娘たちとの方が長くなってしまったかもしれない。
それでも、慎ましやかながらもともに暮らしていた時間を思えば、懐かしさが胸をいっぱいにする。
大学時代、同じサークルに所属していた際、年下の妻と初めて話した時のこと。ともに過ごす時間が増えたあと、付き合ってほしいと告げてすぐに承諾をもらったこと。さほどお金がなかったため近所のお金がかからない場所でデートをすることが多かったものの、二人の間に笑顔が絶えなかったこと。就職したあとも仲は途切れず、卒業三年後に結婚したこと。そして、二人の子宝に恵まれて、幸せいっぱいになったこと。経済的には楽な暮らしというわけではなかったが、不幸せではなかったはずだ。それなのにもかかわらず、妻はある日突然、蒸発した。
娘たちのことを頼みます。置手紙に書いてあるのはその一言だけだった。
「いなくなる前の妻には、私が見るかぎり大きく変わったところはないようでした。しいて言うならば、少しぼんやりしている時が増えていた気がしますが、子供を生む前後からなんとなくそうなることが多くなっていましたので、少し疲れたのかなくらいに思っていました。私自身としては、できうるかぎり気を付けていたつもりではあったんですが、こうした些細な変化を、いつもどおりと考えてしまったのが甘かったかもしれません」
「いまだに、あなたは彼女になにかできたのではないのかと後悔しているのかね」
「そうですね。たぶん、その通りです」
素直に頷く太の前で、館の主は目を細める。
「彼女に対しての憎しみはないのかね。君と娘たちを置いて出て行ってしまったことに対してだ」
「どうなんでしょう。少なくとも、今はあんまりそういう気持ちにはなれませんね」
過去に思いを馳せてみると、妻が蒸発した時、太の中にあった感情は、怒りや憎しみよりも混乱の方が大きかったように思える。少し落ち着いてからは共通の知り合いや妻の親友、警察や興信所など、使えるものはすべて使って捜索を行ったが、妻の影も形も掴めなかった。そうしている間にもまだ小さな姉妹を育てなくてはならず、なかなか精神的なゆとりを持てなかった。おそらく妻を憎んだ時があるとすれば、この死ぬほどの忙しさに身を投じていた頃だろう。しかしその憎悪にしたところで、どちらかといえば、なぜいなくなってしまったのか、というやりきれなさみたいなものの方が大きかった。
「なににしろ、まずは元気でいるのか。それだけ知ることができれば十分です」
そう答えながら、太は微笑む。散々なことばかりだった今日において、もっとも爽やかな気分になれた瞬間だった。
「そうか」
館の主は深く頷いたあと、踵を返して再び階下へと歩みはじめる。男のすべて理解したというような態度が少しだけ気に食わなくはあったものの、先程の話し合いよりは反感も覚えず、召使いの女に押されるようにしてその後ろについていく。
「俺の前妻は既にこの世にいなくてな」
何気なく告げられた一言に、太はどのように反応していいかわからずに、瞬きをした。前を歩く男は一人、淡々と口を動かし続ける。
「まだまだ、幸せになれるはずだったのに、ある日、鉄の塊に跳ねられて風のように消えていった。これからまだまだ、幸せになれるはずだったのだが、なんとも残念なことだ」
その声音にはほんのりとした寂しさが含まれているようだった。
「妻がいなくなろうと、俺の人生は今日まで続いている。どれだけ悲しいことであろうと、後追い自殺など馬鹿らしいと思っていたし、息子も残っていたしな。そうやって、漫然と過ごしていたある日のことだ」
そこで一旦、館の主の言葉が止まる。急に階段に叩きつけられる足音が耳に入りはじめ、太の心臓が高鳴った。なぜか、この先の話を聞いてはいけない気がした。しかし、そんな思いとは裏腹に、男は再び口を開きはじめる。
「近所を散歩していた俺は、とある美しい女性とすれ違いそうになった。そして、ふと、目が合った瞬間に心を奪われた。すべてを根こそぎ持っていかれるような強い感情。このような感情の揺らぎは、前妻と初めてあった時以来だった。俺はその相手が二人目の人生の伴侶だと確信した。そして、目の輝きを見れば、女性も同じことを考えているの明白だった。気が付けば、買い物途中の女性を館へ誘った。彼女はなんらかの理由があるのか最初は断ろうとしていたが、やがて頷いてくれた。それ以来、俺たちは密会を重ねた。密会にならざるを得なかったのは、彼女に既に法律上の夫がいたからだ。彼女は俺を愛していたが、なかなか男を思い切る決心が付かなかったのだ。以上のような理由で、我々は一緒になりたくてもなかなか一緒になれなかった。やがて、彼女は俺の娘を二人産んだのちに、ようやく俺の元へとやってきてくれた」
そこまで聞いてから太は、その彼女について尋ねようとしたが、主の、着いたぞ、という一言により機会を失う。
いつの間にか、階段を下り終えていたらしく、目の前にあるのは、赤い絨毯の敷かれた広い部屋だった。部屋の奥の方には木製の書き物机と黒皮の椅子があり、その後ろには背の高い鉄製の本棚いくつか設置されている。いよいよ、この部屋は書斎なのだなと判断したところで、手前側に置かれた紫色の横長ソファが目についた。その上には、鉄の首輪をつけた女が気持ち良さそうに寝転がっている。両肩から長く垂れた黒髪、ぱっちりと開いたこぼれそうな瞳、高い鼻に優しげな唇、程好くたるみのある裸体。どれもこれも、太には覚えがあるものだった。
「紹介しよう、俺の妻だ」
誇らしげな声を耳にして、太は呆然とするほかなかった。今日一日、降りかかってきた様々な理不尽さすら霞んでしまうような衝撃に襲われ、怒っていいのか、悲しんでいいのか、笑えばいいのか、混乱する。
「おやおや、感激のあまり言葉を失ってしまったのかな」
本気でそう思っているのであれば正気を疑う問いかけだったが、太がこれまで見てきた館の住人たちの態度からすれば、主が太を喜ばせるためにここに連れてきたと言われても驚くことはない。しかし、もしもこの男がかつての妻と会えば喜ぶだろうという短絡的な思考から太をここに連れてきたとすれば、やはり、その感性はずれているとしか言いようがなかった。とりわけ、目の前の女が上の娘と同じく、犬ころじみた扱いを受けているとすれば尚更だ。
話し声に反応したのか、ベンチの上に転がっていた女が顔を上気させたかと思うと、じゃらじゃらと首輪にかけられた鎖を鳴らしながら、館の主へと近付き、その太ももの辺りに頬ずりしだす。擦りよられた男もまた、嬉しそうな表情で、優しく髪の毛を撫でた。
「寂しい思いをさせてしまったな。しかし、その間に、美優があいつと結婚することに決まった。これで晴れて家族全員で暮らすことができるぞ」
その言葉を耳にして、足元にいる女もまた全身で喜びを表現するように、主の腰に抱きつく。太はその触れあいを半ば呆然と見守りながら、なにかを言おうと試みようとしたが、二者の間で交わされるやりとりから垣間見ることのできる絆の深さに、入りこむ隙間がないことを感じ、言葉を失ってしまっていた。そんな調子で太はしばらくの間、目の前で繰り広げられる仲睦まじい関係性をただただ見守るだけの視点と化し、後方から召使いの女の冷やかな視線を浴びていた。とりわけ、悲しかったのは、かつて妻だったはずの女が、太に気付く様子を少しもなく、縋りついている男のことしか目に入っていないように見えることだった。できるのならば、今起こっている出来事のすべてから逃れてしまいたい。そう思っている間も、夫婦は二人の絆を見せつけるようにして深い触れあいを続けており、たとえ目蓋を閉じたところでその行為そのものは感じとれてしまう。そんな苦しみから太を僅かながら我に返らせたのは、先程、館の主が口にしたある言葉だった。
「待ってください。さっき、俺の娘を二人産んだ、って言いましたよね。それと今、家族全員とも」
自然と声を低くする太の前で、主は首を捻ってみせる。
「なにか、俺はおかしなことを言ったか」
「その二人の娘というのは、今、この館にいますか」
既になにがどうなっているのかを半ば掴みつつあるにもかかわらず、太は聞かざるを得ない。主は瞬きを繰り返した。
「随分とおかしなことを聴くものだな。美里と美優なら、ついさっき、結婚式の準備をしに行ったばかりだろうに」
当然のように告げる男の言葉に、太は頭を抑える。
ありえないことだと思う。美里と美優は太とここにいるかつての妻が産んだはずだ。しかし、果たしてそれはたしかなことなのだろうか。あらためて考えてみたこともなかったが、姉妹は二人とも出産予定日よりもやや早く生まれている。誤差の範囲であったことや、そもそも妻を疑うという心が当時はなかったので、自分たち二人の娘であるとなんの違和感もなく受けいれていたが、絶対と言い切れるほどの証拠はない。とりわけ、直接産んでいない太にはたしかめようがなかった。
「どうしたんだ、黙りこんでしまって。なにか、俺は気分を害するようなことを言ってしまったかな」
訝しげに尋ねてくる館の主を太はゆったりと見つめ返してから、低い声で、嘘だ、と囁くように言った。
「嘘。俺は嘘など吐いた覚えはないのだが」
「美里と美優は、俺の大切な娘のはずだ。大切に育ててきた最愛の。あんたの娘だなんて、嘘だ」
そう叫んでみせると、男は目を丸くする。
「なにを言ってるんだ。たしかに娘二人を育てたのはあなただというのは疑いようがない。ただ、それはあくまで俺と妻がどうしても引き取れなかったから引き受けてくれたということだろう」
「旦那様。この人は美里様と美優様が自分の実の娘だと思いこんでいたみたいです。自分の娘かどうかの判断もつかないなんて、やはり、くだらないお方ですね」
後ろから聞こえてくる冷やかな声を耳にし、そんなことは三百六十五日二十四時間ともに過ごしでもしなければわからないではないか、と太は思う。しかし、屋敷の主は訝しげな表情をしてから、
「どう見ても、あなたの娘ではないだろう。あれだけ、俺と妻の血が濃くでているのに。なにを、どう勘違いしたら、自分を実の親と思えるのだ」
そう口にしてから、太に対して冗談だろ、と問い返してくる。
たしかに、太自身も美里と美優のことを母親似だとは思いはしても、自分にはあまり似ていないなと感じたことがある。しかし、それは妻の血が濃くでただけだと解釈していた。しかし、そもそも太の子ではないとすれば、似ていないのも説明がつく。考えたくないことだと思いつつも、太は自然と姉妹二人と母親と館の主の顔を照らしあわせはじめていた。館の主の足元にいる女の顔を見れば、やはり美里と美優のものと酷似しているのが窺える。そして、言われてみれば、男の方の面影も薄っすらとではあるが姉妹たちの容貌のなかにおさめられている気がした。
館の主の言っていることは本当のことかもしれない。とはいえ、信じるわけにはいかないと思いも太の中には強くあった。
「あなたの話が本当だとして、なぜ、十年あまりも美里と美優をほったらかしにしたんですか。たしか、どうしても引き取れなかったと言っていましたが」
少し考えてから、もう少しだけ話を聞こうと決める。疑惑を晴らすにしろ、まずは情報を集めなくてはならないという思いからだった。作り話ならば、その内ぼろもでるだろう。太は信じてもいないことを信じようとしながら、男の答えを待つ。
「それを言われると少しばかり、こちらも心が痛むな。正直なところ、育児放棄ととられてもいたしかたなしだ。それにしても、先程からの話しを聞いていると、石井さんには話が通っていなかったようだな」
屋敷の主は困ったような顔をしながら、足元を見下ろす。裸体の女は今の夫を弱々しい上目遣いで見つめたあと小さく溜め息を吐いてから、ゆっくりと太の方へと顔を向けた。そこには気だるさと面倒臭さが漂っている。
「お久しぶりです」
いかにも渋々といった調子で発された声は、たしかに記憶の中にあるいなくなった妻のものだった。太は一瞬、歓びに打ち震えそうになったが、すぐさま女から向けられる無感動な視線に気付き、昂った心に水を差される。
「そんな他人行儀な口ぶりで話さなくてもいいじゃないか」
かつての雰囲気を少しでも取り戻そうとできるだけ優しく話しかけるが、女は四つんばいのまま首を横に振ってみせた。
「いいえ。私とあなたは紛れもなく他人です」
淡々とした女の声音からは、現在の物理的な距離よりもはるかに長い太との心の隔たりが窺えた。かつて、太の前ではよく浮かべていた笑顔の片鱗はどこにも見受けられない。しかしそれ以上に、女が口にした事柄が胸を抉る。
「何年も前は夫婦だったのにか」
「むしろ、あの結婚は、なにかの間違いだったと思っています」
そう言いながら、かつての妻は今の夫にこぼれそうな胸元を押しつけた。まるで、太を見ることすら厭うように視線を外して。
「そんなに俺が嫌いになったのか」
呆然としながら問いかける太に、女は無視するように屋敷の主の膝に頬擦りしながら、
「別にあなたのことが嫌いになったとかそういう問題じゃありません。ご主人様以外の人と夫婦だったという事実が厭なんです」
そう言ってみせたあと、うっとりとした上目遣いで男を見つめる。
「ご主人様を愛し、ご主人様に愛していただくために生まれてきたのに、短くない年月を、それ以外の取るに足らない人のために使ってしまったということがもう既に許しがたいのです。だから、あなたといた時間のすべてを消し去ってしまいたいの」
なぜ、こうまで言われなくてはならないのだろうか。そう思いつつ太は悲しげな視線をかつての妻の背筋に送ったが、女は相変わらず背を向けたままでいる。不意に館の主は、今の妻の態度を嗜めるような視線を足元に落とした。
「こらこら。失礼だろう。真実の愛を育んだ相手でなかったとはいえ、君の夫だった相手だろう。もう少し、敬意を持って接してはどうかね」
かつての妻との仲を全て知っているというような館の主の物言いを耳にして太は、お前になにがわかると思い、文句をつけようとしたが、
「いいえ。私が敬っているのは、ご主人様と家族と使用人だけです。この人は厭な思い出をぶり返させる他人です」
かつての大切な思い出を軽々と踏みにじっていくかつての妻の言葉に、その気力すら奪われる。主は少々呆れたように肩を竦めてみせると、それではせめて子供たちを置いていった理由を石井さんに話してあげなさい、それくらいの義務はあるだろう、と説いた。女は太に背を向けたままの状態でしばらく固まっていたが、やがて、渋々と頷いてみせる。
「理由は二つあります。まず一つ目は、娘たちを引き取ると口にしたご主人様に、私がしばらくの間、二人きりで過ごさせて欲しいとわがままを言ったことです」
「あの時は正直、驚かされたな。多少世間とずれている自覚がある俺が聞いても、明らかに異常だった。しかし、妻の目は本気だったからな。迷いはあったが、妻から聞いた石井さんであればなんとかしてくれるだろう、と信じようとした。それで実際に、二人の娘を立派に育ててくれたのだから、たいしたものだ。まさか、話がまったく通ってないとは思ってもいなかったが」
小さく溜め息を吐く館の主に、女は、それにも事情があるのです、と告げたあと、忌々しげに太を一瞥してから再び今の夫の方を見た。
「そんなわがままを口にした理由のいくらかは二つ目の事情にかかわってきます。今の私にとっては汚点ですが、当時はまだ、多少なりともこの人のことを思っていました。もしも、家族三人を連れて蒸発してしまったとすれば、この人はどうなってしまうだろう、と。自殺はしないでしょうが、大変な寂しさを感じるのは間違いがない。それに加えて私がいなくなった理由を書いて失踪などすれば、より心を痛めることでしょう。そうなった時のことを考えて、私は娘二人を連れて行くことと手紙に本当の理由を書くことを躊躇いました。だから、この人の傷が最小限になるようにと、泣く泣く娘たちは置いていこうと決めました。とりわけ、この人は美里と美優が自分の娘だと信じこんでいるようでしたから、あの時に私が二人を取りあげてはいけない、と思ったのです」
そこで口を閉ざすと、女は半身を上に傾けながら館の主の腰の辺りに勢いよく抱きついてみせる。男に頭を撫でられながら全身で幸せを表現している様からするに、女はもう既に説明義務を果たしたと思っているらしい。
その姿を眺めながら、太は今まで目の前の事態のありえなさに固まっていた怒りが、腹の底からふつふつ湧きあがってくるのを感じる。かつての妻の話のほとんどは、事情の説明とは名ばかりの自分勝手な言い訳の類に過ぎなかった。ようは、男と一緒になるために家族を捨てた、というただそれだけの事実を正当化しているに過ぎない。そんな理由で、俺の幸せは終わりを告げたというのだろうか。そう思うと、太の憤りが増してくる。
「妻に悪気があったわけではないのだよ。これもまた、この女なりの優しさの一環でな。そこのところは、あなたもわかってくれるだろう」
そして、明らかに悪気などどこにもない館の主の一言が、太の堪忍袋の尾を切った。
「なにをどう言い繕ったところで、あんたが俺から妻を奪いとったのは変わりないし、妻にしたところで娘たちを置いていったというのは変わりないだろう。自分たちのしたことが最低だとは思わないのか」
荒げた声に、屋敷の主が目を瞬かせる。まるで、太がなにを憤っているのかわからないとでもいうような表情だった。
「最低、なのか」
「そうだよ。人の妻をとってはいけないなんていうのは、小学生でもわかる理屈だろ」
太の叫びに、屋敷の主はようやく合点言ったというように頷く。
「なるほど。あなたは法律上で結びついた妻を、俺が娶ったことを、最低と言っているわけか」
「なにを、当たり前のことを言ってるんだ。まさか、それがわからないなんて」
「たしかにそういう観点から見れば、最低かもしれないな。しかし、だ。俺はあなたからなにかを奪ったことは一度もない」
「この期に及んで言い逃れをするのか。現にあんたは、俺から妻と娘を」
更に言葉を叩きつけようとする太を制するように開いた手を翳した館の主は、すーっと目を細め、
「勘違いしているのはあなたの方だ。そもそも、それらは全て俺のものではないか」
などと勝手きわまりない発言をした。これには太も面食らったが怒りの火にはより油が注がれたのもあり、反射的に詰め寄ろうとする。もっとも、すぐ後ろで変わらず羽交い絞めをしていた召使いに抑えこまれたが。
「どう考えたらそうなるんだ。妻と先に付き合って結婚したのは俺なんだぞ。その時点で、あとから割って入ったあんたが奪いとったという結論に変わりはないだろう」
「それはあくまでも、形式上の話だろう。そもそも、妻は一時的にあなたに思いやりを持って接していたのは事実かもしれないが、そこに真実の愛はなかった。形だけに留まったあなたと違い、俺は妻との間に真実の愛を築いた。これは少々酷な物言いになってしまうかもしれないが、愛を育めなかった時点で、妻のあなたへの思いとはその程度だったのだ。わかるかな。あなたはこの女と戯れていただけで、一度も物にしていなかったのだよ。娘に関しては、あなたの種ではないのだから、初めから論外だな」
「そんなの理屈にもなっていないじゃないか。そんな見えないものじゃなくて、事実関係は、あんたの方が間男で」
言い募ろうとした太に、館の主は哀れむような目を向ける。
「事実はここにあるじゃないか。今ここにある妻を見てもらえれば一目瞭然だと思うのだが。妻と私はいまだに深く愛しあっているし、娘たちも自分の意思でここに戻ってきてくれた。ほら、全ては俺のものだ」
「そんなの認められるか。全部、あんたが横から奪いとったようなものだろう」
半ば全ての趨勢が決せられている以上、何を言ったところで見苦しくなると理解していたが、太は口を閉ざす気になれずにいた。館の主の悲しみに彩られた瞳と、かつての妻の無感情な一瞥、後方からの冷やかな視線にあてられて心が萎みそうになるのをおさえながらも、自分のいた元の平和な世界に戻るための可能性を掘り当てるべく、この場にいる館の主を初めとした住人を屈服させるなにかはないかと頭を巡らせようとした。
「美里と美優にしてもそうだ。二人があんたの実の娘だって言うのなら、なんであんたの息子たちと結婚させるなんて真似をするんだ。兄妹同士でなんてそれこそありえないだろう」
「ここに成立してしまっているものに、ありえないもなにもないではないか」
館の主は自らがこれから開こうとしている結婚式に対して、微塵の疑問も持っていないらしい。太は、姉妹と兄弟が夫婦になるという想像に対して、許しがたさとおぞましさの両方をおぼえる。
「だから、それを許すこと自体が問題だと言っているんだ。血が繋がっている者同士で恋人になるなんておかしなことだろう」
食ってかかる太に、主は真顔で応じた。
「やはり、あなたにはまだ、真実の愛というものが理解できていないようだな」
それなりに人生を重ねたにもかかわらず可哀想に。言い加える男に、太はなぜそんな憐れみをこめた目で見られなければならないのだ、と腹を立てる。
「真実の愛真実の愛って、それを言えばなんでも許されるとでもいうのか。随分と便利な言葉なんだな」
「むろん、言葉だけではただの紙切れと同じだがな。目を合わせただけでわかる深い結びつきがあれば、瑣末な問題などどうでもいいことなのだよ。なによりも、息子たちと娘たちが愛しあっているという事実がそこにあるのだから、そんなことはどうでもいいではないか」
「どうでもいいで許せる問題ではないだろう。遺伝病のリスクだって高まる。未来に生まれてくる子供を不幸にする可能性があるのに、よくそんなことを平気で許せるな」
言いながら、太は自らがこのような大層な倫理を本当に信じているのだろうか、という疑問を持ったが、今はなによりも相手の間違いを指摘する方が先だと決める。
「むろん、孫たちには元気な体で生まれて欲しいとは思うがな。どんな姿で生まれてこようとも、俺たちにとっては可愛い孫であることには変わりがない。とりわけ、愛娘と愛息子の愛の結晶であるならば、俺たちが愛するのになんの障害もないな」
「あんたたちはそれでいいだろう。けど、生まれてくる孫たちはどう思う。自分たちに顕れた障害の不自由さを一生味わうことになるかもしれないのに」
「そんなことには決してならないさ」
館の主は確信に満ち溢れた口ぶりでそう告げる。
「なによりも俺の娘と息子が持ちうるかぎりの愛をこめて育てるのだから、どんな障害があろうとも、幸せな一生を送ることが決まっているといって差し支えがない」
「一生なんて、なぜ、軽々と保障できる。仮に健やかに育ったとすれば、あんたはもちろん、あんたの息子や美里と美優よりも長く生きるはずだ。その先のことなど、わからないだろうに」
太の指摘に、館の主は首を捻る。
「不幸せになるような育て方などしたつもりはないからさ。それとも、あなたは、美里と美優を不幸せにするつもりで育てたというのか」
その問いかけに、太は首を横に振る。忌々しい質問だと思った。
「そんな育て方をしたつもりは毛頭ない。ただ、それでもこれからどういう風に育つかなんて、実際に時間が経ってみないとわからないだろう。それこそ、あんたの前の奥さんみたいに不慮の事故が起こらないともかぎらないのだし」
その言葉に、館の主は僅かに眉を顰める。痛いところをついたのかもしれないと考えた太は、もしかしたら、相手を打ち崩せる足がかりになるかもしれないと感じた。しかし、太の思いに反して男は今の妻に愛おしげな視線を向け、その年老いてもまだ若々しい黒髪を撫でながら微笑んでみせる。
「たしかに俺とて神ではないのだから、先のことなどわからないさ。しかし、前の妻にも今の妻にも、できうるかぎりの愛を惜しむことなく注いできている。たとえ、これから何事が起ころうとも、死によって俺と妻が離れ離れになるまで、二人で幸せを分かち合い続けるだろう」
いや、俺たちのことだから、死んだあとも一緒だろうな。館の主は満足げにそう告げた。どれだけ言葉を重ねようとも、この男の幸せを打ち崩すことはできないのではないのか。太は自らの中に溢れだした諦めの気持ちが強まるのを感じたが、少しでも自らの幸福の欠片を取り戻そうと口を開く。
「やはり、あんたらのいう幸せなんて信用できない。結果的に俺が育てることになったはいえ、あんたらが育児放棄じみたことを平気でできてしまう人間であることには変わりないんだ。下手を打てば、娘たちは」
そこまで口にして、太はふと大きな不安に駆られる。果たして、俺は娘たちの短いとも長いともいえない人生の一部を、幸福で彩ることができたのか、と。これまでも、その手の不安を抱えてこなかったわけではないものの、ここ何日かで見てきた姉妹の心変わりや蒸発した妻の元夫に向けられた態度などからすれば、太自身がおこがましくも与えたと思いこんでいた平穏かつ小さな幸せは、元家族たちにはたいしたものではなかったのではないのだろか。そう、自らの行いに疑いを挟んでしまった。
不意に館の主が小さく息を吐く。そして、少しだけ疲れたような顔をしてから、
「こんなことを言うのは俺としては情けないかぎりではあるのだが」
そう前置きしたうえで、
「俺が愛する娘たちをあなたに預けたのは、妻から聞いた石井さんの人柄を信じたからにほかならない。だから、今日まで一途に妻を愛することに集中できたのだよ。勝手な物言いであるというの重々承知ではあるがな」
あなたが娘たちを幸せにしてくれると思ったんだよ、俺は。そう満足げに告げる館の主の表情を見て、太は勝手なものだ、という感想をより深める。しかし、その言葉に、ようやくなにかを認められたような気がして安堵してしまった。自然と膝から力が抜け、倒れそうになるが、後ろにいる女の召使いが支えるため、体重を下にかけたまま宙ぶらりんのような形になる。
主は自らに夢中になっている女の頭をゆっくり撫でつけたまま、太を優しげな瞳で見つめた。
「これから、みんなで幸せになるのだよ。その一端をあなたが支えたんだ。その点について、俺は感謝したい」
なぜだか、両目から涙が溢れだす。拭おうにも後ろから押さえつけられているため腕を動かすことができない。しかし、流れる雫は、太の心の中にあったわだかまりを少しずつ洗い流していくようだった。眼前で繰り広げられる夫婦の交流には、たしかな幸せがある。おそらく、今、結婚の準備をしている姉妹と兄弟たちも。太にはやや温度不足に思える眼差しも、もっと大きな幸福に根ざしたものなのであろう。ようやく、太はそれを理解しつつあった。
この館は、幸せに包まれている。そう思うと同時に、太は深く目を閉じた。
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