第13話 話し合い
太と美優が通されたのは客間だった。太たちが住むアパートの居住スペースの三倍ほどの広さに圧倒されつつも、部屋の真ん中に置かれた円形の机を示されて娘と並んで席に着く。対面では、館の主と美里の恋人を名乗る男の弟である少年が悪戯っぽい笑みを浮かべている。今日は制服ではなく、白いシャツの上に黒いチョッキを羽織っていた。少年の姿をみとめた瞬間、美優が顔を背ける。
「おやおや、お前はあの娘に嫌われているようだが、なにかおいたをしたのかね」
楽しげに問いただす父親に対して、少年は大袈裟に肩を竦めてみせた。
「それが不思議なことに心当たりがないんだよ。強いて言うなら、ただ心よりの愛をこめた挨拶をしたくらいで」
「ふむ、そうなのか。とはいえ、お前はなにかと余計なことをしてしまいがちだからな。知らず知らずの内に、失礼なことをしてしまっているというのも考えられる」
館の主はそう言ってみせてから、美優の方を見やる。
「単刀直入に聞くが、我が不肖の息子は君に対して何か粗相をしてしまったのかね。心当たりがあるのであれば、なんでも言ってくれたまえよ」
下の娘は一度屋敷の主と少年を見て、何かを叫ぼうとしたが、その直前に顔を赤らめ、再びそっぽを向く。
「さてはお前、口では言いにくいことをしてしまったようだな」
「どうやら、そうみたいですね。いやいや、ぼくはぼくなりに一生懸命やっているつもりなんですけど」
くすくすと笑いながら少年は例の虫けらを観察する時のような目で下の娘を見る。その眼差しからほんのり漂う嘲るような調子に、太は気付いたうえで遊んでいるのだと察した。自分の娘を弄ばれるのが気に食わなかったものの、こういった人との接し方は少年自身の性分なのだと徐々にではあるが理解してはじめていたのもあり、いちいち気にしていたら身が持たないと感じ、
「それで、美里と彼は」
さっさと本題に入ろうと促す。館の主は紅茶の準備をしている召使いの女に視線を投げかけてから、
「今、執事に呼びに行かせた。間もなく、やってくることだろう」
そう言ってみせ、椅子の長い背凭れに深く体重をかけていった。
「それまでに、話せるところまで話してしまおうか」
太も異存はなく頷いてみせる。美優の方を見やると、少年から視線を逸らしながらも、時折ちらちらと睨みつけていた。いかにもやりにくそうな美優を見て、できることならば、早く話がつくといいと太は思う。
召使いが四人の目の前に紅茶を置く。それを合図にしたように、館の主が口を開いた。
「それではまずこちらの率直な意見を述べさせてもらう。基本的には結婚を希望する当人たちの意思を尊重すればいいと思っている。こちらとしても、息子と娘の結婚というのは初めての経験でな。とても気分が高揚している。だからこそ、一日でも早く一緒になりたいという両人の意思を最大限に汲みとりたいのだよ」
「親の許可の有無、という点に関しては一旦置きましょう。そうしたところで、私としては早過ぎるように感じます。責任能力という意味でもそうですし、結婚式の日取りにしてもです」
太もまた、何度も繰り返した自らの意見を口にする。館の主は苦笑いを浮かべた。
「この国では、紙切れ一枚と大人の許可で夫婦になれるのだから、早い遅いに関してはさほど気にすることでもないと思うがな。要は男女が望めばその時点で夫婦だと言ってもいい。責任能力に関していえば、息子はそれなりに稼いでいるから心配はいらないし、仮にそれで足りないにしても、こちらが支援してもいい。それで息子も娘も幸福になれるのであれば、他に求めるものなどないさ」
「早いというのは結婚式の日取りもですが、結婚にいたるまでの日数もです。二人は出会ってから一週間程度しか経っていない。お互いのことがわかりきっていない段階で、結婚を決めてしまうのは早計な気がしてなりません」
そのように主張しつつも太は、第一印象で美里の恋人を名乗る青年の人間性を決めてかかっているきらいがあり、正直なところ生理的に苦手な類の相手だと判断を下していた。
「なに、真実の愛というものは時間だとか環境だとか、そういった些細なものを越えるのだよ。あなたはそれこそごくごく当たり前の恋愛を通して結婚をしたのかもしれないが、世の中にはそういった積み重ねを上回る直感的な愛というものが存在するのだ。その稲妻に打たれれば、一秒たりとも相手と離れがたいと思ってしまう。そういうものだ」
言い切ってから館の主は小さく息を吐きだしたあと、寂しげな表情を浮かべる。
「ここからは俺の個人的経験なのだが、かつての俺にもそういう相手がいた。しかし、状況が一緒になることを許さなくてな。今ではその相手とも一緒になることができたが、息子にはそのような苦しさを味わって欲しくないのだ。石井さんも、娘にはできるかぎり苦しみを味わって欲しくないだろう」
こんな風に尋ねられると、太としては頷きたくてたまらなくなる。とりわけ、美里に対しては、長年苦労をかけたという負い目があるのもてつだって、よりそう思わされた。
「その点に関しては同意しますが、それにしたところで今すぐというのは早過ぎます。第一、私と娘たちの住むアパートとこの館の距離などたかが知れているのだから、息子さんが出張にでもならなければほぼ毎日会うことができるでしょう。毎日、離れたくないといくら望んだところで、美里と息子さんは違う人間なのだから、どうしたって別々に行動しなくてはならない時がやってきます。いかに離れがたい相手がいたとしても、多くの人はその感情に折り合いをつけて生活している。むしろ、いつでも会えるくらい近くに住めているという点において二人は随分と恵まれています。だから、私としては、今すぐ結婚などする必要はなく、まずは近くで付き合いを深めていって、お互いの好意の形をたしかめていくのが先だと思うのです」
長々と語り終えたところで、太は柄にもないことを言ってしまったなと考える。しかし、同時に太自身の本音ともさほどかけ離れた意見ではなかった。昨今は一度きりとまでは言い切れないにしても、結婚というものは人生における重大な決断の一つであり、万が一失敗すれば、その傷は一生残る。そうした重大な事柄を選ぶのに、直感や感情だけを重視するというのは不安定でならないと太は思う。その背景には、平凡な付き合いを通して静かに感情を温めあった妻との思い出があった。今現在、妻が行方をくらましてしまった以上、そのやり方にこそ欠陥があるという見方もできたが、それ以上に根拠のない身の振り方というものを太自身はいまいち信頼できずにいる。だからこそ、美里にはもう少し落ち着いて自らの人生を決めてほしいという気持ちがあった。
館の主は、聞き分けのない子供を見るような目をしてから、わかってないな君はとつまらなさそうに呟く。
「真実の愛というものは確認を要さないのだよ。俗な言い方をすると、一目惚れに近い。目と目が合った瞬間に、その相手が生涯の伴侶だと確信する。そして、我が息子はそうした確信を逃さないように育ててきた。そこに狂いがないのは明白なことだ。そして、俺が見るかぎり美里の方も息子と同じ確信を抱いている。石井さんはそんなこともわからないのか」
そう力強く主張する館の主を観察しながら、太は、なぜ、この男は身内とはいえ、自分以外の誰かの人生についてここまではっきりと口にできるのか疑問に思う。或いは、今目の前にある幸せだけを拾ってこのように言っているだけなのだろうか。
「普通の人にそんなことを言うのは残酷なことだよ、お父さん。これはわかんない人にはいつまで経ってもわからないことだし、わかる人には言葉にしないでも伝わることなんだ。この人が理解できなくても仕方がないよ。この人はそうできているんだから」
大人二人の間に少年が割って入る。その物言いは太を擁護する風を装っていたが、内実には隠しきれないほどの嘲りがこめられているような気がした。その証拠に、口元は笑みを形作っているにもかかわらず太を見やるその目は、どことなく冷やかさを漂わせている。
「そうなのか、これは失礼した。しかし、わからないならわからないなりに理解してくれないだろうか。一目見た瞬間に、人生の最後まで添い遂げるべき相手だと確信するような、そんな強い愛情のことを」
一方、館の主の方は、息子の言葉に素直に耳を傾けながら、太を諭そうとする。その愛のあり方を、太は自分の知らない感性の一つとして思い浮かべることはできても、自らのものとして受けいれられはしない。ましてや、最愛の娘の一人がそのわけのわからない感性同士の突き合せの真っ只中にいると言われれば、不安でならなかった。
「お姉ちゃんのあれはただの病気にしか見えないんですけど」
ここに来て、今まで黙りこんでいた下の娘が口を挟んだ。視線を投げかけると、いかにも不服そうな顔をしている。
「それか悪い宗教に騙されている人みたいな。少なくとも、愛情とか綺麗な言葉で飾りたてるようなものではないんじゃないですか」
館に住む親子に怖じるでも呑まれるでもなく、下の娘は素直に思うところを言っているのだろう。このはっきりとしたところは、主やその家族への気遣いや交渉の打ち切りを恐れていた太とは大きく異なる。これらの考えから、太は美優の発言を耳にした家族の対応が気になったが、ここ何分かの話し合いからするに、交渉がご破算になるということはないだろう、と考え直す。案の定、館の主は口元を大きく吊りあげた。
「あれでも、俺の自慢の息子なんだが、随分な言い草だな」
「怒りましたか。けど、こういうところで建前ばっかり言ってもしょうがないでしょ」
下の娘はそこで一旦言葉を止めた。太が横目で窺うと、美優は少年の方を強く睨みつけている。それからすぐに主の方に向き直り、
「はっきり言って、あたしにはあなたの息子たちが気持ち悪くて仕方がないです。あの人たちが人を見る目は、まるで石ころとか虫けらを見ている時のそれと同じみたいで。正直、この場に一緒にいるだけでも不快です」
そこまで言って一息吐いた。昨日までの話で、この館の人間たちを苦手に感じているのは察していたものの、まさか、ここまであからさまな嫌悪を向けているのだとは、太も思ってはいなかった。さすがに言い過ぎたのではないのかという不安と同時に、こういったことを言うならばやはり自分が口にすべきだったと、太は後悔する。その上で、館の主たちに向き直れば、そこには二人揃って微笑む姿があり、拍子抜けした。
「素晴らしい。お前の言っていた通りに育っていたな、美優は」
「そうでしょう。ぼくの目に狂いはなかったって、お父さんも理解できたかな」
仲睦まじい親子二人が交わす会話の内容からすれば、どこをどう判断したのかは見当がつかないものの、どうやら下の娘を好意的に評価しているらしい。しかし、少年の方がそのように伝えたというのはともかくとして、館の主の方がまるで自分の娘を語るときのような物言いで、育った、などと話すのは太の癇に障った。とはいえ、気にし過ぎるのもどうかと思い、話を進めることにする。
「私の目から見ても、美里の行動は純粋な愛情というよりも、熱に浮かされて正常な判断能力を失っているように思えます。私は美里とあなたの息子が、この一週間ほどで、どのようにしてどれだけ仲を深めたのかを知らないので、多くを語ることはできませんが。あなたはあの二人の仲を、真実の愛だと語っていましたが、私の目にはやはりそれが一時的な気の迷いに見えて仕方がない。だから、もう少しだけ様子を見るという方向で考えてみてはいかがでしょうか。真実の愛というのであれば、多少離れていたとしてもびくつくようなものではないでしょうし」
一息で口にしてから、館の主の反応を窺う。結局のところ、主の言っていることを太は理解しきれていなかったし、主もまた太のような凡人の感性を理解できていないように見えた。だからこそ、ここら辺が現時点での落としどころだと思い提案する。しかし、館の主はひどくつまらなさそうな顔をしてから、肩を竦めてみせた。
「石井さん、あなたもわからない人だな。いいかな。愛し合う二人というのは、常に隙間なくくっつきあっているべきなのだよ。それが可能であるかぎり、まるで一人の人間のようにべったりとな。こちらからいわせれば、二人を引き離すことこそが不幸の始まりにほかならない」
そう言い捨てた館の主は、今度は美優の方へと視線をやる。
「なあ、美優よ。君には俺の言うことが理解できるだろう」
問いかけられた下の娘は溜め息を吐いたあと、間を置いてからおもむろに口を開く。
「わかりません。その考え方自体が気持ち悪いです」
はっきりとした声音には、色濃い嫌悪感が滲みこんでいる。しかし、館の主は楽しげな様子で、今度は隣にいる息子の方を見やった。少年は心得た、というように頷いてみせると、ねっとりとした眼差しを美優に注ぐ。
「ねえ、美優お姉さん」
「その呼び方もやめて欲しいんだけど」
「美優お姉さんは美優お姉さんだよ。そういうことはまたあとでいいや。あのね、美優お姉さんはぼくのことが嫌いかな」
「気に食わない」
間髪入れずに答えてみせた下の娘に対して、少年は目を細めてから唇をたわませる。
「そうはっきり言われるとへこんじゃないそうだけど、ぼくにはわかっているよ。その態度が照れ隠しだってことをさ」
変声期前の声音のあまりの甘ったるさに、太は怖気が走りそうになる。下の娘も同じ気持ちでいるだろうと気遣い隣を見やってから、唖然とした。
美優は顔を赤らめ、あからさまに目を泳がせている。どことなく節目がちになり、なにか言おうとしているらしかったが、金魚のように口を開け閉じするだけでなんの言葉も紡がれはしない。
「美里お姉さんに連れられてあの狭いアパートに行った時、美優お姉さんは愛想笑いを作りながらぼくを見ていたけど、その時から知っていたんだよ。愛想笑いをしているつもりでいながら、その実、ぼくに見惚れていたんだって言うことをね。だけど、美優お姉さんはとても頑固で面倒臭がりやなようでいてまっすぐな人だから、ぼくのことを認められなかった。だって、ぼくのような人間を認めるという考え方は、美優お姉さんの住んでいた世界ではなかったんだから。けどね、もういいんだ」
そこで一旦、言葉が切られる。たまらず太が目を向けると、いつになく機嫌の良さそうな少年の顔が映った。笑ってはいたが、その瞳は美優の言うところの虫けらを眺める時のものである。しかし、この心底軽蔑していたはずの眼差しを前にして、下の娘は明らかに顔を紅潮させていた。
「美優お姉さんはもっと素直になっていいんだよ。自分の本当の気持ちに従って、ぼくと添い遂げればいい。もう、自分に嘘を吐いてぼくと無理に距離をとって離れなくたって。ここで一生、二人で幸せに暮らそう」
少年の言葉は、とんでもなく浮ついていて、普段であれば心に引っかかることもなく寒いとしか受けとられないだろう。しかし、少年自身の衒いのなさからか、ひどく様になっているように聞こえた。そうであっても、声の甘ったるさや話自体の気持ち悪さは打ち消せていないはずだったが、再び太が見やった美優の表情にははっきりとした迷いが露になっている。ここ何日かの様子を見ていれば信じがたい話ではあるが、下の娘はずっと少年を意識していたというのだろうか。
「美優お姉さんも、ぼくの愛情をこめた挨拶を受けて確信したはずだ。誰が美優お姉さんの相手にふさわしいのかって。さあ」
そう言ってから、少年は手を伸ばす。吊りあげられた唇の端と、感情の動きが窺いがたい瞳は、太には悪魔のように見えた。どうしていいのかわからないというように瞬きを繰り返す娘は、明らかに目の前の少年に対して抗し難い魅力を感じている。このままではいけないと太は思い、必死に頭を捏ね繰り回しつつも、なんでもいいからこの場をかき乱す言葉を捻りだそうとして、
「そんなわけのわからないことで押し切られても、私は納得がいきません」
結局、自らの思いを乗せた声を目の前の親子に放つほかなかった。館の主は呆れたように大きな溜め息を吐き、少年はいつにもまして大きな嘲りをこめた目を向けてくる。
「こうしている美優を見てまで、納得がいかないんだったらどうしたらいいのだ。その調子だと、目の前でなにかを証明してみせても、都合の悪い事柄だったらなかったことにされてしまいそうだな」
「実際にそうなんじゃないかな。きっとこの人の目には、自分が知っている世界の理屈から外れた出来事は映らないようにできているんだよ」
仕方なさげな口調の少年に、太は腹を立てながらも、美優の方に向き直る。下の娘は眠りから覚めたばかりの時のように、数度の瞬きをしたあと、弱々しげな視線をよせてきた。さしあたっては正気に戻ったものの、まだ心の揺らぎは解消されていないらしい。そう判断した太は、一旦、引きあげるべきではないのかと考えを起こす。どういったカラクリかまではわからないが、この館の主の息子たちは、他人の心を自分たちに都合よく揺さぶるのが得意らしい。このままでは、美優も美里の二の舞になりかねない。想像するだけで怖気が走りそうになる状況に身を震わせそうになりながら、太は隣にいる下の娘に、一旦、引きあげようと話しかける。こころなしかぼんやりとしていた美優は、短い間を置いたあと、お姉ちゃんはどうするの、と尋ねてきたので、それもなんとかできるよう考えるから、とその場しのぎの答えを返すに留めた。まずは、この空間から去るのを優先すべきだと、館の主に一時の暇を請おうと口を開こうとしたところで、部屋の出入り口をノックする音が耳に飛びこんでくる。
「入りたまえ。待ちかねていたぞ、我が子たちよ」
館の主の快活な声音を耳にして、太は機会を逃してしまったと悔やむ。裏口から引きあげようにも、この部屋には出入り口が一つしか設けられていなかった。とにかく、隙をみつけたらすぐにでも下の娘とともに飛びだしてしまおう。これから室内に入ってくるであろう美里を置いていくことは心苦しかったものの、まずは隣にいる娘を守らなくてはならない。そう決意を固めたところで扉が開き、
「お待たせしました。少しばかり、準備に戸惑ってしまいましてね。けれど、そのおかげで美里はとても綺麗になりましたよ」
皺一つない純白のタキシードを着た青年と、
「お姉ちゃん、それ、どうしたの」
純白のドレスに身を包み、鉄の首輪をして四つんばいになっている美里の姿があった。驚く妹の目の前で、姉はただただうっとりとしながら、恋人のズボンの生地に顔をすりすりさせる。太は言葉を無くしながら、首輪に結びつけられた鎖の行く先を追っていくと、青年の右腕の袖の中に消えていっていた。おそらく、青年の腕にもまた鉄の輪が嵌められているのだろう。そう察すると同時に、太はたしかにこれは物理的に離れるのは難しくなったなと思った。
「これが僕らの絆さ。いつまでも離れないことを誓った僕らにふさわしい固い固い絆なんだよ」
言ってから、青年は恋人の頭の上で手を緩やかに動かす。気持ち良さそうに高い声で鳴く美里を見ながら、太の頭は目の前で起こっている出来事にただただ戸惑うばかりだった。やってきたばかりの息子のすぐ傍まで歩み寄っていった館の主は、勝ち誇ったような獰猛な笑みを浮かべる。
「どうだね。これが真実の愛というものだ。こうして繋がれることによって、二人はこの上ない幸せを得ることができたのだよ。石井さんもこうして目の前で直接見れば、言わなくても実感できるだろう。愛というものはかくも固いものなのさ」
その理屈でいけば、仮に太が今の鉄よりも固い材質の手錠を用意して、美里と手を繋いでみせれば、この青年よりもはるかに強い絆を得られることになるのか。そんな文句を言いそうになったが、今は揚げ足をとっている暇はなかった。
「なんですか、これは」
押し殺した声に、館の主は呆れ顔をして、
「聞こえなかったのかね。真実の愛さ」
疑問も挟まず、答えてみせる。どうやら、この男にとって、今美里が置かれている状況は、非常識な事柄ではないらしい。価値観の違いを実感するとともに、太はひどい喉の渇きをおぼえる。
「こんなの愛じゃない。いくらなんでも、ひどすぎるんじゃないですか」
隣では溜まりかねたのか、下の娘が金切り声を館の住人たちに叩きつけている。その正常な反応に、太は少しだけ胸を撫でおろしたものの、多数の不思議そうな視線が突き刺さるのにあわせて、再び不安を大きくした。
「いいかな、美優ちゃん。たしかにこれは僕が望んだことでもあるんだけれど、美里も心の底から望んでいたんだよ」
言い聞かせるように話しかける青年は、腕を僅かに引く。鎖のじゃらじゃらとした音が鳴り響いたあと、首を引っ張られた美里が気持ち良さそうな顔をした。
「僕も美里と四六時中一緒にいたい。けれど、世の中にはそういった気持ちを邪魔する無粋な力がいくつも存在する。だからこそ、僕らは真っ先にそれに反抗しようと決めて、こうして繋がることにしたんだ」
そう告げてから、青年は足元の美里に優しさをよそおったような平坦な視線を投げかける。美里は恋人と愛おしげに視線をからませたあと、首を上下に揺すった。青年はすぐになにを言われているのか察したらしく、ゆっくりと屈みこむ。止める間もなく、屈んだ青年と四足で立つ美里が口付けを交わした。目に恍惚を宿らせる美里とは対照的に、恋人の眼差しは冷やかですらある。それを見つめて尚、四本の足で立つ女は嬉しそうだった。
「でも、これじゃあ、まるでお姉ちゃんが、犬みたいじゃない」
訴えかけようとする下の娘の声音は、状況の異常さゆえか弱々しく太には聞こえる。それに対して館の主と青年と少年、執事と召使い、そして美里までが、子供に言い聞かせるみたいに微笑んだ。やがて、唇と唇の間に唾液の橋を築いた青年が、柔らかな視線を美優に向ける。
「それのなにがいけないんだい。僕ら二人が望んでこうしている。それならば、人に見えようと犬に見えようとかまわないじゃないか。そこに幸せがあるんだったら、なんでもいいんだよ」
そうだろ。優しげな声を投げかける青年の足元で、美里もまた小さく頷いてみせる。その二人を見て、下の娘は椅子を引き摺るようにして後ずさった。
太の方はといえば、目の前の状況に言葉を失いながらも、喉の渇きは強まるばかりで、紅茶を口に含もうと、カップに手を伸ばしかける。しかし、直前になって、先日までの青年や少年のやり口を頭に浮かべ、毒でも盛られているのではないのかという疑いを持った。万が一、予想が当たっているとすれば、今以上にこの館の住人の思い通りにされてしまうことになり、どうなってしまうかは見当もつかないと考え、手を引っこめる。
「ねぇ、美優お姉さん。美里お姉さん、とっても幸せそうじゃない。美優お姉さんも美里お姉さんが幸せでいてくれると嬉しいでしょ。だから、兄さんと美里お姉さんの結婚はみんなを楽しくする魔法みたいな出来事なんだ」
すぐ傍では少年が下の娘との会話を再開していた。隣を見やれば、美優は明らかにたじろいでいる。
「あたしにはそうは思えない。こんなのが幸せなはずないよ」
「美優お姉さんは目をつぶっているの。美里お姉さんのあの幸せそうな顔が見えないとは言わせないよ」
「それは、あんたたちがそういう風に騙したっていうだけで」
「たしかにぼくたちは美里お姉さんに好かれるために誠心誠意を尽くした。だけど、それは一目見たときから美里お姉さんを好ましいと思ったからだよ。そういう、ぼくたちの好意に美里姉さんもわかってくれたから、こうして幸せいっぱいでいられる。そして、その幸せの輪の中には美優お姉さんもいるんだ」
そう告げて少年は、話の矛先を下の娘へと向けた。途端に美優の顔が真っ赤に染まる。
「勝手にあたしを入れないでよ」
「いや、美優お姉さんにはもうわかっているはずだよ。ぼくたちと一緒にいられるだけで、とても幸せになれる。ぼくとはもう離れたくないはずだ」
「なに、その思いこみ。それとも、今まではその綺麗な顔で色々な人を騙してきたわけ」
そう言い捨てて、下の娘は少年から顔を背けた。直後に、助けを求めるような視線が太の顔に注がれる。娘の願いを聞こうとして口を開こうとするが、それを遮るようにして、少年が話しだす。
「こんなことぼくだって、大切な人相手にしか言おうと思わないよ。そして、美優お姉さんはぼくにとってそういう相手なんだ。それは美優お姉さんにとってのぼくも同じはずだよ」
隣で下の娘が首を左右に振る気配がする。それを受けとり、太は少年を睨みつけた。
「なあ、もう、そういうことを言うのはやめてくれないかな。こうして、美優も苦しんでいることだし」
「苦しんでいるだって。あはは、なにを言っているんだいお義父さん」
途端に少年は腹を抱えて笑いだす。その様子に、太はいつにもまして馬鹿にされているということだけは理解したため、なにがおかしいと睨みつけた。少年は目の端から出た涙を人差し指と中指で拭いながら、本当になにもわかってないんだね、と言い、
「美優お姉さんは、今、とっても喜んでいるじゃないか。見え見えの照れ隠しをしているところなんかも、ぼくにはとても好ましく思えるけどさ。もしかして、お義父さんは、十年以上一緒に暮らしていてそんなこともわからないの」
などと挑発じみた物言いをしてみせる。その高い声音の底には、強い確信の裏付けがなされているように太には感じられた。普段であれば、少年のこのような言葉など一笑にふしてしまう。しかし、こと今日にかぎっては太の価値観も随分と揺らいでいた。とりわけ、美優が少年の言によって心を揺らがせていることはみとめていたのもあって、今なされている挑発も、まったく根拠がないわけではないのだという理解が太の中では芽生えつつあった。
「こんな無理解な人とずっと暮らしていたら、それは幸せになれないよね。ほら、やっぱり美優お姉さんはぼくらと一緒に来るべきなんだよ」
呆れたように肩を竦めてみせる少年を目におさめる太の心はより苛立ちはじめる。しかし、この場はその感情をぶつけるべき場面ではないという気持ちがあった。再び、ちらりと隣に視線を移すと、不安そうに太を見つめ返す下の娘がいる。それだけで充分だった。
「たしかに私はいたらない父親だったかもしれない。できるだけ家族の時間を心がけようとはしていたものの、その実、娘たちには必要以上な家事を引き受けさせてしまったり、寂しい思いをさせてしまったことも多いように思う。そのせいか、あまりじっくりと娘たちのことを見てやれなかったというのもまた事実だろう。それでも、私なりに娘たちには愛情を注いで育ててきた」
そこで一旦、言葉を切ったあと、少年の方へと向き直る。目に映りこんだニヤニヤ笑いは、胸の中で不快さを膨れあがらせたが、太はその感情を無視して再び口を開いた。
「私の目に映る娘は、とてもではないが幸せそうではないし、助けを求めているように見える。私は私の良心に従って娘を守らせてもらうことにするよ」
宣言したあと、下の娘の前に腕を伸ばす。娘がほっとしたように息を吐くのを耳にした太は、やはり自らの判断は間違っていなかったという確信を深めた。眼前では少年が無機質な目つきで、太を見つめる。
「本当に見る目がない男だね、お義父さんは。そんな節穴みたいな目しか持っていないから、奥さんにも逃げられちゃうし、お姉さんたちに辛い思いをさせてしまうんだよ」
温度のない少年の声音に、太はなんとでも言えと思いながら、下の娘を見やる。不安そうな顔をする美優に、大丈夫だ、というように笑ってみせたあと、やはり、この場は引きあげるべきだ、という結論に達した。美里の様子からすれば、恋人である青年に心酔しきっているのは明らかであり、この場での説得は困難を極めるに違いない。この館に置いていけば、美里の青年への感情はより強まってしまいそうではあったが、このままここにいれば、すぐ隣にいる美優の心すらもどうにかなりかねなかった。心が揺れかけている下の娘をどこかに安全な場所に連れていったあと、あらためて考えを固めてこの館を訪れよう。太はそう決めて主の方を見た。
「どうにも、美優の体調がよろしくないようです。大変申し訳ないのですが、一度、帰らせてもらいます」
そう言ってから太は、できうるかぎりさり気なく下の娘へと手を差しのべる。程なくして、指先が掴まれるのを感じるのとともに、一礼しようとした。
「待ちたまえ」
その直前に、館の主から制止がかかる。太は反射的に体を強張らせつつも、真正面から浴びせられる強い視線を受けとめた。
「まだ、話は終わっていない。そもそも今回の話し合いは、あなたと美優の方から、うちの息子と美里の結婚が認めがたい、ということで持ちあがったことではなかったのか。そして、こちらが望む結婚式の期日が今日である以上、遅くとも今日の夕方頃までには決着をつけなくてはならないはずだろう。それとも石井さんは、もううちの息子と美里の結婚を認めてくれたということでよろしいのかな」
「私からの提案は先程口にした通り、本日の結婚は保留した方がいいんじゃないのか、という意見です。それは今も変わっていません」
尚も本日の結婚という点を譲ろうとしない館の主に対して、太もまた駄目元で自らの主張をぶつける。主は無表情になってから小さく溜め息を吐くと、後方に控えていた執事を呼び寄せ、なにかを指示してから、再び太の方を見た。
「残念ながら、その意見は受けいれられない。話しがついていない以上、このまま帰るというのならば、あなたたちがいないこの場で、俺たちのみで結婚式を挙げることになるが、よろしいか」
主の言葉は、太には到底受けいれがたいものである。とはいえ、この場に残ったところで、主張が強く人の話をあまり聞かないこの館の住人たちを説得できる材料はなく、良くて議論ともいえないお互いの持論のぶつけ合いに終始するだけだろう。悪ければ、美優の苦しみが深まったり、この家族に丸めこまれてしまうことになりかねない。少し考えたあと、太は顔をあげる。
「先程、今日の夕方頃までに決めなければならないと言いましたね。それならば、少し休憩を入れてから話し合いを再開しましょう。おおむね、お互いの意見も出尽くしたことですし、一旦、整理する時間を設けるべきだと思います」
とにかく、下の娘を一回、この館から遠ざけなくてはならない。そう思い太は、休憩時間が設けられたあと、どのようにして美優をここから遠ざけるべきかを模索しだす。館の住人たちの強引な行動から察するに、どこにいても安全ということはないのだろうが、とにかくここからは離れなくてはならない。そのような決意の元、美優の手を握る力を強めた。
「いいよ。あたしのことはいいから、とことんまで話しちゃおう」
隣からどことなく弱々しげな声音が耳に入りこんでくる。太が隣を向くと、美優がぼんやりとした目で見つめ返してきていた。
「そんな調子が悪そうな顔で言われると、気が気じゃなくなるんだが」
事実、娘の目の焦点はどことなくあっていないように見える。こんな調子であるならば、今すぐにでも引きあげなくてはならない、という理由がなかったとしても、一時帰宅を提案したかもしれなかった。しかし、美優は首を左右に振ってみせると、まだ、話がついてないでしょ、と上目遣いで訴えかけてくる。
その態度に太は違和感をおぼえた。昨日から見せていた美里を取り戻そうという気持ちの強さからすれば、さほど不自然ではないとも思ったが、少なくともつい先程までは、目の奥にすぐにこの場を去りたいという感情を滲ませていたはずだ。その感情が今は消えており、むしろ目に宿っているのは、
「美優もそう言っているのだから、話をつけてしまおうではないか。たしかにこれまで、我々の意見はことごとく食い違ってきてはいたが、既に課題は見えている。そこを重点的に話し合えば、もう少しでお互いが幸せを見出せるところまで辿り着けるのではないかな」
太の思考を遮るようにして、館の主が話の再開を促してくる。その声と美優の後押し、犬になりきっている上の娘への心配も合わさり、この場でなんとかして話しをつけてしまおうという気になりかけた。館の住人達を説得できる材料はどこにも見当たらなかったが、裏を返せばこれだけ頑なになっている美里を放っておいても、より事態の悪化を招くだけかもしれない。ならば、一か八か、この場で長期の交渉をしてみるというのも一つの手ではないのか、と。
こうした思考過程を経たうえで太は主の提案に頷きかけたが、ふと、すぐ前に抱いた違和感が再び噴きだす。
「どうしたのだ。やはり、こちらの提案が気に召さないのかね」
催促するような館の主の物言いに、少し待ってください、と断りを入れたあと、下の娘の様子を窺う。
「もう、心配性だな。あたしは大丈夫だよ」
ぼうっとした苦笑いを浮かべる美優。太に向けられているのはあくまで横顔であり、娘の視線の先は対面に座る少年がいるところにあった。
この瞬間に、太の中ですべての糸が繋がる。美優の手を強く握りしめるのと同時に、主の方へと頭を下げた。
「やはり、娘の体調が思わしくないようなので、一旦、引きあげさせていただこうと思います」
「ちょっと、お父さん。あたしは大丈夫だって言ってるでしょ」
どことなく力がない声は、先日の美里を連想させる。太は笑みを繕いながら、
「その言葉はとても心強いけど、お前は大事な時は無理をするやつだっただろう。それで、体を壊したら元も子もない。まずなによりも、お前の健康が大事だよ」
そう言い聞かせる。美優はどことなく気まずげな顔をしながら、本当に大丈夫なのに、と小声で応じた。その間も、娘の視線は少年の方に向けられたままである。太は危機感を募らせつつ、そう思っていても自分ではわからないものだから念のためだよ、などと口にしてから、館の主に再度、向き直る。
「というわけで、一旦帰らせていただきます。話し合いの続きは、そうですね。二時間後、ということでいかがでしょうか」
このように口にしながら、太の頭の中にはとにかくこの屋敷を出なくてはならないという気持ちでいっぱいになっていた。掌からは美優の体の重さがつたわってきたが、気付かないふりをする。
直後に、館の主とその息子二人から忍び笑いが漏れはじめた。なにがおかしいのか、と睨みつけそうになるのをおさえた太は、いかがでしょうか、と再度館の主に問い直す。
「あなたも、必死だな。まあ、無理もない」
言いながら頬杖をついた館の主は、生温かい瞳で太を見やる。全てを見透かされているような居心地の悪さに襲われつつも、なんのことですか、と太はしらばくれた。
「大切に育ててきた美優を取られたくはない。その気持ちは、わからなくもない。だがな、その娘は残念ながら、元々、この館で暮らす運命なのだよ」
「仰ることはわかりかねますが、とにかく、娘とともに引きあげさせていただいてもよろしいですね」
決めつけるような館の主の話を強引に打ち切ろうとしながら、太は下の娘を半ば無理やり引っ張りあげようとする。しかし、その体は重りのようで、なかなか立ちあがろうとしない。もどかしくなり、直接促そうとした矢先、
「ねえ、美優お姉さん。美優お姉さんの願いはなぁに」
不自然さを覚えさせそうなくらい無邪気な高い声が、室内に響き渡る。見れば、楽しげに頬杖をついた少年が、昆虫を見やるみたいな視線を下の娘に注いでいた。
ごくりと唾を飲みこむ音。そして、
「あたしは、ここであんたと一緒にいつまでも暮らしていたい。それだけじゃなくて、お姉ちゃんたちともずっと仲良くしていたい」
おずおずと、それでいて一点の偽りもない調子で、美優は言ってみせた。愕然とする太の前で、少年の高笑いが響く。館の主が静かに瞼を閉じてから、
「あなたにとっては残念なことかもしれないが、そういうことだ」
はっきりとそう告げてみせた。膝から崩れ落ちてしまいそうなほどの脱力感を覚えながらも、太はなんとか自らの体を支えようとする。一度、娘たちの心が傾いたからといって、元に戻せないと決まったわけではない。そう言い聞かせようとするものの、娘たちの心を取り戻すための道筋が少しも見えてこなかった。美里一人だけですら、既にどうしようもないほどあの青年を心酔してしまっているにもかかわらず、その妹までも少年にのめりこんでしまいつつある。一人の心も取り戻せないにもかかわらず、二人をどうこうできる力などあるはずもない。悪い方へと向かう考えを無理やり振り払い、掌を掴んだままだった美優の方を再度見やる。
「どうしたんだ、美優。さっきまで、この館の人達を嫌っていたのに」
直接は言わずとも、正気に戻れ、という意をこめて語りかけた太に対して、美優は決まりが悪そうに顔を伏せた。
「あれはね、ふり。全部、ふりだったんだ」
「そうは見えなかったけどな」
美優が少年に惹かれた素振りを見せはじめたのは、この部屋でなにやら怪しい話しを聞いたあとである。少なくとも太の見立てでは、それ以前の美優ははっきりと少年を嫌っていたのはまず間違いない。このように考えた太の前で、美優は力なく首を横に振った。
「あたしも最初はそう思ってた。ううん、そうじゃないかな。思いこもうとしていたのかもしれない。けどね」
ゆっくりと顔をあげた美優は、薄く微笑みながら甘やかな視線を少年に注いだ。
「あいつの話しを聞いているうちにわかったんだ。あたしは自分の気持ちに嘘を吐いていたって。それこそあたしは、うちのアパートで初めて顔を合わせた時から、あの眼差しに魅せられていたんだよ」
「忘れたのか。その目が嫌いって言ってただろ」
できるだけ平静を装おうと普段どおりの声を出そうと努めながらも、太の胸の内は穏やかではない。そして、この先の美優の反応も察しがついてしまっている。
「うん、そうだね。今までのあたしだったら、嫌だって思ってただろうし、現にさっきまでそう思いこもうとしていた。だけど、そもそも、最初の嫌だっていう感じは、嫌じゃなくて、今まで感じたことのない形の好意だったんだってことに気付いたんだ」
「それこそ、勘違いじゃないのか。色々とありすぎて疲れているんだろ」
耳に入ってくる独白を受けいれがたい太は、全ては気のせいだという方向に話しを持っていこうと試みる。むしろその試みは、そうであってくれという祈りだったのかもしれない。途端に、美優は激したような目を太に向けた。
「あたしの気持ちを勝手に決めないで。あたしはお父さんの操り人形じゃないんだよ」
先程まで、この館の住人に向けられていたはずの怒りを浴びせられた太は、呆然とするほかない。その場ですぐに我に返ったらしい美優は、顔を逸らして少年の方に視線をやる。それからすぐに表情がゆるませた。
「ちょっと言い過ぎたかもしれないけど、あたしはいたって正気だよ。本気であいつやお姉ちゃんとずっと一緒にいたいの。お姉ちゃんの結婚も今日でいいと思う」
驚くほどの美優の変わり身に、太は館の住人たちの手から見えない糸でも伸びているのではないのだろうかと疑った。あるいは、催眠術かなにかを使っているはずだと思う。そうでなければ、理屈でも感情でも今起こっている出来事を受けいれるのは困難だった。
とにかく、このまま黙りこんでしまえば、本当に今日、美里の結婚式が行われてしまうと考えた太は、今までどおり、反対意見を口にしようとする。それを遮るように、じゃあさ、と少年が楽しげな高い声を響かせ、
「いっそのこと、美優お姉さんも今日、ぼくと結婚するっていうのはどうかな」
またもやとんでもないことを口にした。
「なにを考えているんだ、君は」
反射的に食ってかかる太に、少年は白けきった目で応じる。それこそ、ごみくずでも見るような眼差しだった。
「なにって、今言った通りですよ。ぼくなりに一生懸命考えたうえで、一番いい案だと思うんですが。あっ、もしかして、お義父さんはこの国の言葉に不自由だったりするのかな。それだったら、失礼しました」
わざとらしく頭を下げる少年に対して、太はいつにない苛立ちを膨らませながらも、わかったうえで正気を疑っているんだ、と告げる。
「今日約束して今日結婚するなんて、一週間で結婚を決めた美里と彼よりもはるかに非常識だ。しかも、君は成人はおろか、十八歳にもなっていないはずだ。そんな状況で結婚するなんて、考えがないとしか思えない」
「失礼ですね。少なくとも、お義父さんよりはずっと高級な脳味噌を持っているはずですよ。更にいえば、富と将来性と不自由のない住居、一生添い遂げてくれる伴侶も持つことになりますし。これだけ揃っていれば、結婚を渋る理由なんてどこにもない。ねぇ、美優姉さんもそう思うでしょう」
そう言って少年は美優の方に笑いかける。すぐ隣から息を呑む音を耳にし、太もまた、体を固くしながら、おずおずと美優を見やった。太の目には、美優の困ったような横顔が映る。そして、少し間を置いてから、
「うん、すごくいいと思う。あたしもあんたと結婚したい」
小さくではあったが、美優ははっきりと宣言する。途端に、太は胸の中でなにかが崩れていくのを感じつつも、なんとか引きとめなければいけないという気持ちに駆られ、必死に口を動かしだす。
「そんな簡単に人生の重大な事を決めるな。お前はまだ高校も卒業してないんだぞ。それで結婚するなんて」
「昔は十五で嫁に行ったんでしょ。だったら、これくらい早く結婚するのもいいんじゃないかな」
美優の軽やかな口ぶりに、太はどれだけ昔の話なんだと声を荒げそうになる。しかし、それと同時に、美優自身はいたって真面目に話しているのだということも伝わってきてしまった。
「仮に結婚したとして、これからの生活はどうするつもりだ。卒業してない高校はどうする」
もしも、という前置きをしてはみせたものの、太自身は美優が示してみせた意思に、次第に気圧されはじめていた。美優は、そうだなぁ、と小さく唸りながら、
「結婚できるっていうのが嬉しくってあんまり頭が回ってなかったけど、もし、お金が入用だっていうのなら働きだしてもいいかな。高校は入れてくれたお父さんには申し訳ないけど、そういうことなら中退しなきゃいけないかも」
「そんなに急がなくてもいいだろ。高校を卒業してからでも遅くはない。今日する必要もないはずだ」
太の訴えに対して、美優は横顔に煙たげな感情が宿らせる。
「必要とかそういうのじゃない。あたしはあいつと今、結婚したいの。それだけ」
なんでそれをわかってくれないの。苛立たしげにも悲しげにも見える美優の表情を目にして、太はわかってほしいのはこちらだ、と思いつつも、なんとか納得してもらわなくてはならないと自らに言い聞かせ、お前の言いたいこともわかるが、という前置きをしたうえで、今すぐ結婚するには、様々な問題があるこを一つ一つ説いていった。
なんとかして、今日の結婚を辞めさせ、そのうえでこの館の住人から美優を遠ざけ、ゆくゆくは美里も取り戻し、また元の通り、三人で暮らす。このような夢想を力の源にして、太は必死に美優に思いとどまるように説き続けた。
しかし、太が持ち合わせる一般常識的な問題は、美優自身の今日結婚したいという頑な思いと、館の住人の結婚後も全力で支えになるという言葉の前に、次々と攻略されていった。とりわけ、経済的負担に関して館の主が全面的に面倒をみると口にしたことや、美優の結婚に関しての準備も既に整えてあるなどの物言いが、批判の多くを無力化していった。残る問題のほとんどは一般社会の常識と照らし合わせて突飛すぎるという点のみだったが、それにしたところで館の住人と美優と美里が今日結婚しても問題などないと判断している以上、太一人がどれだけ喚こうともどれほどの意味を持ちあわせるわけでもなく、今日二人が結婚する、という判断を覆すにはいたるほどの意見にはなりえなかった。
やがて、必死に食い下がり続けた太は言葉を失い、美優の横顔を縋るように見つめるほかなかった。美優は小さく溜め息を吐いたあと、苦笑いをしてみせる。
「今まで、育ててくれてありがとう。あたしはあいつと幸せになるよ」
そう素っ気なく告げてから、少年の方に顔を向けたまま、太の指を一本一本剥がしていく。太は離したくない、と思っているはずであるのに、指先に一向に力が宿ろうとしない。そして、さほど時間をかけず、美優の手を挟むのは、親指と人差し指を残すのみとなった。握りなおすこともできるはずだったが、まるですべての力が失われてしまったかのように、気力が湧かない。そして、特になにも起こることなく人差し指が剥がされるのと同時に、美優はゆったりと腕を自らの方へと引き寄せたあと、少年の方へと駈け寄っていった。年下の男に媚びるような声音が、耳の中に響くのを耳にしながら、太はただただ、先程まで美優が座っていた空席を見つめるのみだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます