第12話 館
目的地まではものの十分もかからなかった。門をくぐったリムジンから下車した太はなんとはなしに洋館を見上げる。地元であるゆえに目にしたことがないわけではなかったが、こうして庭に入るとあらためてその大きさを実感した。三階建ての洋風屋敷を覆う白い外装は多少くすんではいたものの、それがかえってこの建造物自体の歴史を窺わせた。中庭の大部分は、車と人のための石畳の道を除けば、短い芝が生やされていて、端の方にある鉄格子の囲い沿いには色とりどりの花畑や温室らしき透明な建物がある。太はこれらにいかにも金持ちの家だな、という庶民らしい感想を抱きながら、執事に続いて石畳の上を歩いて玄関へと向かう。隣には不承不承といった体の娘がいた。車内でも、運転手を担当していた執事の老人に思い思いの言葉を叩きつけていたせいか、その表情には疲れが見える。形はどうであれ、下の娘の頑張りを目にした太は、なんとしてでも上の娘の短慮を押し留めなければと、気を引き締めた。
両開き扉の左側を手前に引いた執事に続いて室内に入った太の目にまず映ったのは、長く続くなだらかな階段と、落下予防のための木製の柵が設けられた二階の廊下だった。それらの開かれた空間に目を奪われていたところで、お待ちしておりました、という声が耳に入ってくる。視線を左に逸らすと、使用人らしい女性が綺麗に頭をさげていた。白い帽子に同色の前掛け、紺色の作業着に長いスカート。これまたいかにもな召使いが頭をあげると、四角い縁眼鏡をしたとりたてて印象にも残りそうにない平板な若い女の顔があらわれる。強いてあげるならば、多めのそばかすが少々目立つ程度だろうか。
「ただいま戻りました。それで式の準備はどれくらい進みましたか」
おそらく直属の上司であろう執事が尋ねるのに合わせて、女は頷き、
「既にほとんどの準備が整いました。あとは、お坊ちゃまと美里様にお着替えいただければ、いつでも式をあげることができます」
どことなく温かみの欠ける声音でそう告げた。その際に浮かんだいかにも作ったという風な愛想笑いが癇に障ったが、太は表には出さないまま女の前まで移動する。
「じゃあ、私たちが最後まで着替えなければ式は挙げられないということかな」
女は、意味がわからないというようなじっとりとした眼差しを太に向けてくる。もしかしたら、この召使にまでは今回の詳しい事情がつたわっていないかもしれないと思いつつも、女から視線を逸らし、執事の方を見やる。
「そんな子供じみたことを仰られましても」
「じゃあ、あたしはまだ子供だから、いくらでもわがままを言っていいわけね」
薄っすらとした苦笑いを浮かべる執事の言葉を遮って、下の娘が揚げ足をとった。
「けど、子供じみているのはあたしたちじゃなくて、この館の人たちの方じゃないの。なんで、そっちが無茶苦茶なことをしてるのに、こっちが正気を疑われるみたいなことを言われなきゃならないわけ。意味がわからないよ」
やってくる前とさほど変わらない様子でを怒鳴り声を出す下の娘の姿に、執事と召使は顔を見合わせて、聞き分けのない子供と接した時のような笑みを交わしあった。太は表面上、下の娘に落ち着くようにと、語りかけたあと、使用人たちに向き直る。
「私もおおむね、娘と同意見ですね。たとえ、美里の同意があったにしても、このような性急かつ強引なやり方はどうなんでしょう。私としては、今日は結婚式ではなく、今後についての建設的な話し合いをしたいと訪れたのです」
もちろん、最終的には強硬手段も辞さないつもりではあったが、太としても話し合いで穏便な解決がはかられるのであれば、それに越したことはない。とはいえ、昨日の調子からすれば、話し合いにすらならないだろう、というのが容易に想像できてしまっていたのだが。案の定、執事は表情を変えないまま首を横に振る。
「話し合いを、と言われましても、既に今日ということで式の準備は進めてしまっています。それを今更、中止にするというわけにはいかないというのは、あなたさまにもご理解いただけるかと思いますが」
「昨日に急に発表していざ今日などと言う方が非常識じゃないですか。百歩譲っても、本日は親族間の話し合いというところまでが妥当でしょう」
少なくとも太自身は正論を口にしているつもりではあったが、下の娘の言い方が控え目すぎると主張する眼差しや、召使の女の何を言っているんだこの男はという淡々とした視線に挟まれると、なんとはなしにその自信も揺らぎかけてしまう。
「しかし、それは困りましたね。結婚はもう決定していることなのです。今更、駄々を捏ねられたところでどのようにもいたしかねます」
「私たちはお宅のうちの娘とそちらのお坊ちゃんの結婚を昨日知らされたばかりです。結婚を認める認めないといった判断をするための満足な期間すら与えられもしていないにもかかわらず、今更などと言われてもこちらが困ってしまいますよ」
そう抗弁してはみせたが、執事の老人は曖昧な笑みを浮かべるばかりで、まともな答えは返ってこない。何度話しても暖簾に腕押しか、と太は昨日から遅々として進まない話し合いにすらなっていないやりとりに徒労を覚えながら、早くもこれは強硬手段しかないのではないのか、と思いはじめていた。
そんな矢先、階段を下りる何者かの足音が耳に入る。
「旦那様、今戻りました」
執事が階段の方に一礼する。その頭の指し示す方へ太が視線をやると、ダークのスーツに身を固めた大柄の男がゆったりとした動作で階段を一段一段踏みしめるようにして下りてきた。
「ああ、ご苦労。そちらが美里の保護者と妹の美優か」
低く渋みのある声音が、太の体中に染みこんでいく。執事が、仰るとおりでございます、と肯定の意を示すのと同時に、階段を下りた男が敷いてある赤い絨毯の上を歩んでいき、太と美優の前で足を止めた。自信に満ち溢れた顔立ちに、太は既視感を覚える。
「ようこそ、二人とも。美里の保護者ということは我が親族も同然。心から歓迎する」
執事の言や男自身の話しぶりからして、この館の主人であるのだろう。上の娘と結婚するとのたまった青年より高い位置から見下ろされていることや、既に美里を呼び捨てしていることなどに大きな威圧感と不快感を覚えつつ、太は呑まれないように一歩前に出る。ちらりと隣を見ると、太と同じく男の雰囲気に呑まれているのか、美優が呆然としていたので、大丈夫だ、というような視線を送ってから、あらためて男に向き直った。
「初めまして、美里の父です。本日はお招きいただきありがとうございます」
「これはどうもご丁寧に」
短い挨拶を交わしあったあと、太は来たばかりでこんなことを言うのは大変心苦しいのですが、前置きしたうえで、
「本日の結婚式を延期していただけないでしょうか」
単刀直入に本題を切りだした。誇りが高そうなこの男のことだから、下手をすればこの時点でつまみだされるのではないのかという懸念を持ちかけたが、
「ほう、面白いな。して、その理由は」
微笑んだまま話の続きを促してきた。太はまず一安心したあと、この結婚を昨日自分と娘に対して知らされたこと、許可も二人が勝手にとっていったこと、なによりも結婚式自体があまりにも性急過ぎる感があることなどを語っていく。昨日から何度も語ってきたせいか、すっかり同じ内容を喋るのに慣れ切ってしまったなと自嘲しているうちに、話し終えた。話の最中、黙りこんでいた屋敷の主は、少しだけ考えるような素振りを見せてから、
「ふむ、たしかに。あなたの意見にも一理あるな」
たしかにそう言ってみせた。太はここでもわけのわからない物言いで突っぱねられると思いこんでいたため、拍子抜けする。下の娘もまた、この家の人で、初めて話しを聞いてくれる人に会った気がするよ、などと隣で呟いていたあたり、最初から話し合いになるとは思っていなかったのだろう。とはいえそれで話が済むわけでもなく、男は、だがな、と前置きしたうえで、
「こちらにもこちらの都合や言い分というものがある。どうだね、うちの息子たちや娘たちも混ぜたうえでいまいちど話し合うというのは」
そのような話しを持ち出してきた。既に美里が娘扱いされているのが気に食わないといえば気に食わなかったが、太にしてみれば願ってもないことではある。とはいえ、今の言い分からすれば、向こうは館の主とその息子と美里。少なくともこの三人は話し合いに参加するだろう。対して太の味方は下の娘だけで、これまでほとんどまともに話を聞こうとしなかったこの家の人間を相手取るにはいささか不安が残る。もっとも、真意はともかくとして、相手が聞く耳を持とうとしているだけでも、随分と話が進んだとも言えた。
「わかりました。そういうことでしたら、話し合いましょう」
「さすがは我が娘の保護者だ。話がわかる」
満足げに頷く主の態度から見える隠し切れない傲慢さに、太は言い知れぬ不快感を覚えたものの、相手の機嫌を損ねてはせっかく訪れかけた機会すらふいになってしまいかねないと、笑みを浮かべる。
「ちょっと失礼なんじゃないですか。お姉ちゃんはうちのお父さんの娘で、あなたの娘じゃありませんよ」
しかし、生来から感情が表に出やすい下の娘は、父親の意図を汲みもせずに、それでいてとても太の本音に近い言葉をぶつけていった。館内に美優の声が響いた瞬間、太は相手の機嫌を害してこれまでの話がなかったことになるのではないのかという不安と同時に、このような気持ちを家長である自分がではなく、娘に言わせてしまったということを後悔する。
「そういえば、そういうことになっていたな。すまないすまない。しかし、既に俺にとって美里は娘なのだよ。できるかぎり許してもらえないかね、美優よ」
予想に反して、館の主は素直に謝ってみせながら、それでいて自らの意見を下の娘に対して伝えた。しかし、その言葉が美優の気持ちをより逆なでしたらしく、
「初対面なのに呼び捨てっていうのもやめていただけませんか」
どこか刺々しい声が投げかけられた。そこにおいて、主の表情にはじめて寂しさのようなものが浮かびあがる。
「そうか。善処はしよう」
歯切れの悪い返答とともに男は僅かに俯いてみせる。尚も隣にいる下の娘が更になにか言おうとしている気配がしたため、太は、とにかくまず話し合いをするために美里たちと会わせていただけますか、と二者の間に割ってはいる。
「そうだな。こちらとしてはできるだけ早くことを済ませたいのだし、石井さんにしても早く美里と会いたいのだろうしな。それでは、ついてきたまえ」
太の苗字を口にしながら笑みから憂いの色合いを消した館の主は、踵を返して階段をあがっていく。太もその後ろについていきながら隣を見やると、言い足りなかったせいかどこかぶすくれた娘の顔があった。背後から使用人たちがついてくる気配を感じながら、美優の不満げな視線を受けとめつつ、あとで目一杯話せばいいと囁きかける。下の娘がゆっくりと頷くのを目に映しつつも、実のところ太は自分たちの意思をきっちりと話す機会が訪れるのだろうか、という疑いを持っていた。なんというか、この男は今まで会ったこの館の人間に比べて、どうにも物分りが良すぎる気がした。それでいて、従いつつも自分の譲れない主張はしっかりと通していく強かさもある。これは実際に話が白熱した場合、こちらの言葉をまったく取り合わなくなるのではないのかという懸念があった。そんなことをぐだぐだと考えている内に、一向は二階に到達する。とにかく交渉を成功させるしかない。そう太は腹を括った。
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