第10話 夜

 やがて気力も尽きかけた太たちは、窓際から離れ電気を消してから、寄り添うようにして薄いブランケットに隣りあって包まった。あわよくば、警察官がいなくならないかと闇に慣れつつある目で見張っていたが、件の男は自らの仕事を怠ろうとはせず、終始目線をぎょろつかせたままでいる。ともすれば、このまま朝までここに立っているつもりなのだろうか。たかが窓ガラス一枚を割ろうとしただけで密室に監禁される羽目に陥ったというのは、なんとも間が抜けているように思えたが、当事者としては笑えもしない。だいたい管理人名義で依頼されたとはいえ、警察官ならばこのようにして一般人が自宅で軟禁される状況をおかしく思いはしないのか。


 苛立ちを募らせながらそのようなことを思う太の横で、下の娘がぼんやりとしながら、膝を抱えている。警察官と鉢合わせてからというもの、美優はほとんど口を開いていなかった。ただただ、不安そうな顔をして、なにをするでもなく窓から目を逸らしている。なにを見ているのかといえば、なにも見ていない。強いて言うならば、部屋の壁にぼんやりとした視線を向けていた。


 太は何度か、大丈夫か、と尋ねかけたが、さほど器用ではない親の言葉に、下の娘は気のない声で、大丈夫と答えるばかりで、一向に話にならなかった。たしかに、あれほど理不尽なことがあったあとであるから、美優のこのような態度は自然なものだろうし、思い悩むのも当然なのだろう。しかし、父である太の目に映る下の娘は、いつにもまして内面に沈みこんでいるようだった。とりわけ、普段であれば面倒臭がりはしても、比較的明るく口数が多い娘だけに、今の態度にはただただ不安を煽られる。


「どこか他の出入り口に心当たりがあったりするか」


 沈黙を嫌った太が振ったのは、先程かわした数少ない会話の内容の一つとほぼ同じものだった。下の娘は少し間を置いてからいつにもまして物憂げな顔をあげる。


「ないよ。お父さんもわかってるでしょ。何年、ここに住んでると思ってるわけ」


 返ってきた声音の温度のなさに寂しさを覚えつつ、そうだよな、なに聞いてるんだろ俺、と太は苦笑した。その態度に、下の娘は小さく溜め息を吐いてから、ぐっと目と唇を閉じる。床へと向けられた顔はいつになく辛そうで、こんな顔をしてはほしくないと太は思う。できることならば、すぐにでも目を逸らしてしまいたかったが、娘がなにやら思い悩んでいることから逃げてはいけないと思い、しっかりとその表情を見据える。


「じろじろ見ないで欲しいんだけど」


 案の定、横顔に強い視線の気配を感じたせいか、下の娘は文句ありげな顔を向けてきた。太は、それはかまわないが、と前置きしたうえで、なにか悩んでいることがあるならば言ってほしい、と再度訴えかける。美優は、なんでもない、とシラを切り通そうとするが、太は、言いにくいことであっても自分に言ってくれればなんとかなるかもしれないから、と根気良く聞きだそうとした。それからしばらく、灯が消された室内で、あるない、の子供じみたやりとりが繰り返され、お互いの調子があがっていくにつれて、次第に声が大きくなるのも、どことなく楽しく思えるようになっていった。


「普段はお姉ちゃんのことばっかり見てて、ほとんどなにも言ってくれないくせに」


 押し問答は、膨れ面をした下の娘のこの一言によって、とりあえずの終結を見る。太は強い視線を向けてくる美優に、それはすまない、と力なく謝った。下の娘はそのままの表情で少し間を置いてから、ぷっと息を噴きだした。突然の変化に呆然とする父親の前で、娘は小さな笑いを部屋に密やかに響かせる。太にはなにが美優の心の琴線に引っかかったのかいまいちよくわからなかったものの、現状の閉塞感が少しだけ軽くなったような気がして、胸を撫で下ろした。


 それからしばらく言葉こそ交わされはしなかったものの、暗い部屋の中で、太と美優は小さな声で笑いあった。外にいる警察官が窓に顔を寄せて訝しげに室内を覗きこんできたことでせっかくの家族の時間に水を差された気がしないでもなかったが、美優の気分が少しでも和んだことに比べれれば些細な事柄だった。やがて、口を閉ざした娘は、苦笑いを浮かべながら床へと視線を落とす。


「お姉ちゃんは、あたしたちといて幸せじゃなかったのかな」


 物憂げな声音に、太ははっとさせられたあと、なんでそう思うと尋ね返した。下の娘は渇いた笑いが漏らす。


「だって、そうじゃなかったら、あんな人たちにほいほい付いていったりしないでしょ。なんか騙されてるにしたって、騙されたいって考える理由はあったんじゃないかな」


 美優の推測を、太はもっともだと思う。同時に、美優に、姉は幸せでなかったのではないのか、という疑いを抱かせてしまっているあたりに、自身の不甲斐無さをあらためて実感させられた。


「別にお父さんが悪いって言ってるわけじゃないんだよ。あたしもお姉ちゃんも、どれだけお父さんが頑張ってくれているかは一番近くで見ているつもりだから。普段から面倒臭いことをさぼってばかりいるあたしの責任の方が大きいだろうし」

「違うよ。お前は悪くないさ」


 むしろ、娘に自分のせいだと言わせたことが、太のいたらなさをたしかなものにした。太の体は一つしかなく、やれることにかぎりがあるにしても、姉妹に母親の不在による寂しさや負担は感じさせてはいけなかった。とりわけ上の娘には、心に引っかかりがありつつも、父親のまかなえなかった母親の役割の一部を引き受けさせてしまっていた。家の手伝いという名目であれば、一般家庭の子供たちも多少なりともしてはいるだろうが、美里は既に家庭を支えるための歯車としての役割を担っていた。美里本人はほとんど嫌な顔もせずに、すすんで家事を引き受けてはいたが、自覚するしないにかかわらず、精神肉体ともに負担を溜めこんでいたに違いない。多少なりとも家事負担を減らすことができれば、美里はもういくらか自分自身の時間を持つことができたのではないだろうか。


 もちろん、仮に美里に今以上に自分の時間ができていたとしても、今日のような出来事が起こらないという保障はどこにもない。気立てのいい娘のことだから、遅かれ早かれ、誰か結婚したい相手を連れてくることはあっただろう。しかし、結果だけの問題ではなく、日頃から腹の中に溜めこみつつもごまかしてきた家庭内の歪みをもう少しなんとかできたのではないのかという意識が、ここのところの出来事を境に膨れあがり、今頂点に達しようとしていた。


「悪くないわけないよ。それとも、なに。全部お父さんの責任だって言うつもりなわけ」


 その問いに、太は、そういうわけじゃないと答えたものの、下の娘は言外の感情を読みとったらしく、目を尖らせる。それからしばらくの間、美優は無言で太の顔を睨みつけていたが、やがてふと力を抜いて鼻の頭を掻いた。


「もしも、お姉ちゃんがこの家での暮らしを幸せじゃないって思ってたとしても、あたしは三人でいて、楽しかったから」


 そりゃまあ、一番楽してたからかもしれないけど。照れくさそうに付け加えて、顔を逸らす。少なくとも、口先だけで言っているわけではないようだ。そう判断してから、太もまた、ついこの前まであったはずの三人の生活に思いを馳せる。


 不満がなかったわけでは決してないだろう。太も、時折、職場の忙しさやどうにもならない人間関係、そして妻の不在を思い出したりしてやりきれなくなることもあった。上の娘や下の娘にも大小様々な問題があったに違いない。それでも太は、三人が食卓に揃う際に交わした笑顔は心からのものであると信じているし、信じたかった。


「だから、お父さんは胸を張っていいんだよ。お姉ちゃんがそんなお父さんのいいところを忘れてしまっても、あたしは忘れないから」


 いつにもまして潜められた美優の声音は、胸の中にじんわりと染みこんできた。こんな優しい娘に育ってくれたことを太は誇りに思う。


「明日の結婚式もぶち壊そうよ。ほら、花嫁泥棒ってことでさ」


 そう言ってあらためて振り向いた美優の顔は、いつもほどではなくても生き生きとしだしていた。太もそれに合わせるようにして口の端をゆるめる。


「いいな、それ」


 同意を示したあと、二人でまた笑い声をあげあった。外にいる警察官から夜間なのだから静かにするようにと注意されもしたが、かまわずに喉を振りしぼる。きっと、なにもかも上手くいく。そう思いながら。

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