第9話 みまわり
それからしばらくして、美優は自らの唇をごしごしと腕で拭ったあと、台所へと走っていった。直後に水の流れる音を耳にしながら、太の中にようやくあの兄弟たちを追わなくてはならないという気持ちが戻りはじめる。仮に美里の心がどうであれ、話し合わないことには事態は進まないのだから。なぜ、ああもあっさり相手の意見に呑まれていたのかと悔いながら、玄関へと歩いていく。少しばかり、遅れをとりはしたが、あの男と少年が住む館まではさほど距離があるわけでもないのだから、今から行っても間に合うだろうと算段を固めた。そして、玄関から外に出ようと解錠してから扉を手前に引いたが、なぜだかぴくりともしない。鍵をかけ直してしまったではないのかと摘みに視線を落としてみるが、ちゃんと開いている。試しにノブを前後に揺すってみるが、やはり動かない。誰かが押さえつけてもいるのだろうかと、覗き穴に目をやるがそこにも誰もいなかった。
少し考えてから、見えない位置に外から扉が開かないように細工が施されたのではないのかと考える。おそらく下手人は少年だろう。それができる程度の時間、太も下の娘もぼんやりとしていた。抜けているにも程があると、素早く行動しなかったことを悔いながら、太は居間の方へと踵を返す。残る出入り口は、寝室及び、娘たちの個室に取りつけられた、ベランダに出るための扉だった。幸い、ここは一階であるため開いていれば、外に出られる。
居間と台所に娘の姿はなく、子供部屋の襖戸が開いているところからして、そこに入ったのだと察せられた。美優のことを心にかけつつも、まずは出入り口を確かめなくてはならないと寝室に飛びこみ、ベランダ側にある扉の鎌錠を素早く解いてから、戸を引いてみるがやはり動かない。カーテンを引いてから電気をつけて、ガラス越しに扉の外を見れば、今度ははっきりと外側に見慣れない錠が取り付けられているのが確認できた。
「あっちもダメみたい」
いつの間にかやってきたのか、下の娘が力ない声で告げる。遅まきながら完全に閉じこめられたのだと太は理解した。
「あの人たち、やっぱり頭がおかしいよ。そりゃ、顔はカッコいいかもしんないけど」
振り向いて困惑の念を宿す娘を見て、太もその気持ちに心から同意する。今日だけでも現実離れしたことが起こりすぎて、まるで悪夢の中にいるみたいだった。とはいえ、このままではぼんやりとしているうちに、あっという間に婚姻届が提出されてしまう。そこに思いいたれば、判断は一瞬だった。太は近場につるしてあったシャツを手に巻きつけると、窓ガラスに向かって拳をかまえる。明日から風通しが良くなる代わりに多数の虫が侵入してくることや、窓ガラスの代金をさほど多くない給料から引かなくてはならないなと雑念を頭に浮かべながら、覚悟を決めようとした。
その瞬間、窓に近付いてくる人影を太は認める。目を凝らすと、それはがっちりとした体格の警察官の男だった。男は平手をかざして太に待てと合図を送ってくる。とっさに、太は腕を引っこめた。
「お伺いしますが、あなたはまさか窓ガラスを割るつもりだったのではないでしょうね」
尋ねられて思わず口ごもってしまう。それに乗じたかのように警察官は厳しげな眼差しで太の顔を貫いた。
「それは立派な器物破損に当たりますよ。管理人さんからの通報があって駆けつけてみたら、案の定これだ」
その声音を耳にした太は、管理人とは名ばかりで通報したのはあの二人のどちらかであろうと決めつけながら、もしかしたら、この警察官は器物破損がこれからなされるという話しか聞いていないのではないのかという点に思いいたる。
「別に私も好きで窓ガラスを割ろうとしたのではないのです。実は外から誰かに鍵をかけられてしまって、残る脱出方法がこの窓を割るくらいしかなかったからなんですよ。もしよろしければ、そこにある鍵を外していただけないでしょうか」
咄嗟の訴えに対して、警察官の男は顰め面を曝したまま首を横に振る。
「それについてもおおまかに聞いています。あなたたちはなんらかの罪を犯したため、ここに一時拘留されているとのことですね。私はそんなあなたたちを移送車が来るまで見張るようにという役目を申しつかっているのです」
警察官の男の話しを耳にして、既に工作がなされていることを理解しつつも、太は必死に、いつの間にか進められていた美里の結婚式などの出来事を交えながら説得しようと試みた。しかし、屈強な体をした男は、更に頑なになり、
「そう思っているのはあなたたちだけなのではないのですか。むしろ、あなたが娘さんの正当な結婚の権利を奪おうとしているだけに過ぎないのでは」
などと言われる始末だった。向こうの言い分が無茶苦茶なのだと、できるかぎり話を整理したうえで訴えかけてみたが、警察官の男の目は益々醒めていくばかりだった。
やがて、埒が明かないと判断した太は、警察官から視線を逸らして、窓際から離れていた美優の方へと歩み寄っていく。色濃い困惑を露にする娘を気の毒に思いつつ、携帯電話を貸してくれないかと尋ねる。公権力が介入してきている以上、あてはかぎりなく少なくはあったものの、なんとか信頼できる人間に連絡をとる必要があった。しかし、美優は首を横に振り、
「ポケットに入れておいたはずなんだけど、いつの間にかなくなってて」
と口にした。まさかと思った太は急いで居間へと引き返し、いつも自らの携帯電話が置いてある机の端を見やるが、そこにはなにもない。慌てて、固定電話を手にして、適当な番号を押したあと受話器を耳に押しつけるが、虚しい音がこだまするのみだった。屈みこんで配線を確認すると、何本かが切られているのが目に入る。昨日までは使用できていた記憶があるところからしても、今日切られたのは間違いがない。いつ、事がなされたのかはっきりとしなかったが、最悪の事態が訪れたことだけは理解した。途方に暮れながら寝室に戻ると、美優が不安げな眼差しを投げかけてくる。太が力なく首を横に振ると、下の娘は途端に俯いてしまう。その後ろでは、警察官の男が無機質な瞳で父と娘を観察していた。そこに居心地の悪さを感じつつも、諦めるわけにはいかない、と再び説得を試みようと窓際へと近付いていった。
その後もできるかぎりわかりやすく理を説こうとしたり、泣き落とそうとしてみたり、なんらかの金品や物を授与する約束をしてみたりしたものの、男は聞く耳を持たず、かえって太たちへの疑いを深くするばかりだった。
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