第8話 意外な申し出

 その翌日、夜のことである。


「お父さん。私、この人と結婚することにしたの」


 上の娘が隣に座る男をちらりと眺め見る。うっとりとした目の向けられる先を太が呆然としながら追うと、色白のすらりとした男が自信に溢れた笑みを浮かべていた。沁み一つないスーツ姿の若い男は、落ち着いた顔付きで美里と視線を絡ませたあと、


「美里さんを僕にください、お義父さん」


 厭味なほど透きとおった声でそう告げてきた。あまりにも唐突なことだったため、太は呆然しながらも、できうるかぎり自らを落ち着かせようとする。


「もう、兄さん。先走り過ぎだよ。そんなこと急に言われたら、お義父さんも困っちゃうでしょ」


 その隣には、最後に会った時と同じく、カッターシャツとスラックス姿の少年がいる。少年は美里の腕にこれみよがしに身体を巻きつけながら、薄く微笑んでいた。美里が結婚する、と宣言した男の弟であると判明したのは、それこそつい先程のことであった。


「おっと、これは失礼しました。僕としたことが少々焦り過ぎたようですね。美里さんのお義父さんに会うと決まって、いささか緊張してしまっていたようです」


 静やかな表情をした男から、言葉通りの強張りはどこにも窺えない。むしろ、その視線からは余裕が滲みでていた。太は男とほぼ同じ高さで見つめあっているにもかかわらず、見下ろされているような気にさせられる。そのすぐ横で、見慣れない白いワンピースを着た上の娘が、なにかを訴えるようにして父である太を見つめていた。


「二人は、付き合いはじめてからどれくらいたつのかな」


 直接的な答えを避けて、さしあたっての状況を把握しようと努める。問いかけながらも、太は早くも、向かい合う男に気に食わなさをおぼえはじめていた。


「一週間です」


 怖じることなく口にされた答えを、太が半ば予想していたものだった。


「それはさすがに、急ぎすぎじゃないの」


 太の後ろで控えていた下の娘が、訝しげに尋ねた。元々は隣に座っていたのだが、少年とその兄に苦手意識を抱いているのか、太の席から一歩下がった位置から話を聞いている。


 その反応を予想していたのか少年が、そう見えるでしょうねと口にしたあと、


「実はぼくも驚いているんですよ。ついこの前、美里お姉さんをうちの館に招待したんですが、たまたま家にいた兄さんと一度話しただけで意気投合して、すぐにお付き合いを始めてしまって。おかげで、お姉さんに遊んでもらう予定だったぼくは、一転して邪魔者になってしまったというわけです」


 これみよがしに肩を竦めてみせた。途端に隣にいた上の娘が困惑の表情を浮かべる。


「そんなことないよ。あなたも私にとってはとても大切な可愛い弟なんだから」

 

 そう口にしてから、少年の頭を撫でた。少年は特に表情も変えずに平然と美里の掌を受けいれているように見える。


「おやおや、結婚の約束をした僕の前で、君はさっそく弟と浮気してしまうのかい」

「そんなつもりじゃないわ。私のご主人様になるのはあなただけよ」 

「駄目だよ兄さん。お姉さんはいつでも一生懸命な人なんだから。そんなにからかったら可愛そうだよ」

「こいつめ。僕よりもちょっと早く美里さんと会ったからって生意気だぞ」


 こうした会話の間に美里と兄弟は実に愉しげに笑いあっていた。旧知の仲のような空気感に入り辛さをおぼえながら、太は目の前に並ぶ三人の様子をしばらく呆然と眺める。しかし、見れば見るほど不快感が募っていくのは抑えきれず、小さく深呼吸をしてから口を開いた。


「結婚をするって言ったけど、式はいつあげる予定なんだい」


 あくまで確かめるだけのつもりの発言だった。その瞬間、少年の兄の笑みが深まる。


「明日を予定しています」


 自信に満ち溢れた声に太は言葉を失った。この男はなにを言っているのか、と固まっている間、美里が、明日が楽しみだわ、と恍惚とした表情で口にするのに合わせて、若い男が、そうだね僕も楽しみだ、と恋人へと視線をからませる。その二人を見守るようにして、少年が微笑ましげな目線を送った。


「いや、ありえないでしょ」


 唯一、太以外にこの状況を異常だと思っているらしい美優は、声を振るわせつつも、まっすぐに切りこんでいく。


「なんでかしら」


 妹の言葉を耳にして、美里がさも不思議だと言うように首を捻る。それに下の娘は、いやどう考えてもおかしいでしょ、と声を荒げた。上の娘は合点がいかないというように、眉間に小さく皺を寄せていたが、程なくしてなにかに思い当たったように目を輝かせる。


「美優はまだ真の愛を知らないからそういうことを言ってしまうのね」

「いや、そう言うんじゃなくて。百歩譲って出会ってすぐに結婚の約束をするのはありえても、それで一週間で結婚式っていうのはありえないでしょ」


 美優の刺々しい言葉は、太も大きく頷くところだった。それ以上に、まだ感情面も論理面でも、上の娘と男の結婚を認めていないのだが。


「美優ちゃん、君が困惑するのはよくわかるよ」


 そう言って横から口を挟んだ男の表情は、少しも自らの行いを疑っていないのが、太の目から見ても明らかだった。


「けれどね、じっくりと深めあっていく仲というものもあれば、目を合わせた瞬間にわかる仲というものもある。それこそ、僕と美里さんのように、目を合わせた瞬間に結婚してずっと一緒に仲良く暮らしていかなければならないと確信させられることもね」

「うふふ、これからはずっと一緒ですよ、あなた」


 目を細めて若い男の胸に頬ずりをする上の娘は、太がこれまでにないくらいだらしなく蕩けきった表情をしていた。男は、まるで可愛らしい子犬を愛でるように、美里の黒く長い髪を、下から掬いあげるようして撫ですさっている。下の娘は太の隣までやってきて、机を強く叩いた。


「そんなので納得できるわけないでしょ。あたしは認めないから」


 美優の目にはやり場のない憤りと、今繰り広げられている出来事への理解を拒む感情が宿っている。それを見て、美里は一端姿勢をただしてから悲しげな顔をしつつ、あらあら困ったわね、とほんわかとした声で応じ、男が、今は混乱しているだけでいずれはわかってくれるよ、などと見当違いの慰めをした。


「変な美優お姉さん。結婚すれば二人は幸せになれるのに、なんでそれを邪魔する理由があるのかな。もしかして、お姉さんをとられるのがいやだとか思ってたりするの。だったら、美優お姉さんって子供っぽいね」


 薄い苦笑いをしてそう言った少年の口の端には、たしかに嘲りの痕跡がみとめられる。隣で苛立つ下の娘の気配を感じると同時に、太は腕を真横に伸ばして美優の体を制した。


「とりあえず、落ち着け」

「なによ。お父さんまでこのわけのわかんない人たちの味方なわけ」


 今にも食ってかかってきそうな美優の前で首を横に振ったあと、太は美里の恋人を名乗る男を真正面から見据えた。この場にやってきてから変わらない余裕を称えた笑みが癇に障りそうになるのをおさえながら、小さく深呼吸をしてから口を開く。


「君の言い分はわかった。娘の態度からしても、君を慕っているのは疑いようがない。正直なところ私としてはいささか不本意ではあるが、君と娘が好きあっているというのならば、邪魔はできない。だが、それでも明日に結婚するというのは認めがたい」

「なぜですか」


 いたって落ち着いた男の問いかけとともに、美里からも懇願の眼差しが向けられるが、太は気付かないふりをする。


「あまりにも唐突過ぎる。結婚というのは、当事者同士の繋がりであるとともに、家族同士の縁を結ぶ大切な儀式でもある。元より、私としては、急にやってきた誰とも知らない男である君が、娘をください、と言ってきたところで受けいれがたい。百歩譲って、事前に相談があるのであれば考えなくもないが、今回はそれすらもなかった」

「お父さん。それは私から今日、この人と会った時に離れたくないって思ったから提案したの。だから、この人は私の望みを叶えてくれただけなの」


 平時から一生懸命な娘の、より力のこめられた嘆願が横から挟まれる。男を庇う美里の声音から、嘘偽りのなさを感じた太は、なんとも複雑な気持ちにさせられつつも、いずれにしても、と話を仕切り直した。


「いささか性急過ぎると私は思う。愛の形は人それぞれだったにしても、たった一週間で結婚を決めるというのは感心しない。結婚というのは一生ものになるかもしれないことだ。直接顔を合わせたのがはじめてである私には判断しかねるが、一時の感情に流されて結婚したいと思いこんでしまっているのではないのかな」

「私の気持ちは本物よ。それともお父さんは私をそんないい加減な判断しかできない娘に育てたつもりなの」


 目を吊りあげて反論してくる上の娘から滲みだす感情の深さに、太は益々憂鬱になる。もちろん、美里が自慢の娘であるのは疑いようがない。しかし、理由はどうあれ妻に逃げられた太からすれば、生涯の相手選びやその後の付き合いという点に関して、娘たちにまともな振る舞いを教え得たかといえばかぎりなく疑わしく、美里の気持ちが必ずしも本物であると言い切る自信がなかった。


「お父さんの言うとおりだよ。もう少し頭を冷やして考えたら」


 ちょうど助け舟を出すように下の娘が姉を咎める。途端に、上の娘は唇を噛みしめてから、視線を妹の方へと向けた。


「美優も私の結婚に反対するの」

「反対だよ。あたしにはお姉ちゃんが浮かれて我を忘れているようにしか見えない」


 はっきりとした物言いをする妹の前で、姉は、私は冷静よ、と明瞭な声で応じる。


「冷静な人は自分で冷静なんて言ったりしない。悪いこと言わないから考え直しなって」


 小さな子供に言い聞かせるように話す美優の声音に、太は不器用ながら美里に対する思いやりを見い出した。しかし、上の娘はただただ顔を曇らせる。


「お父さんも美優も変だよ。そんなに私に幸せになって欲しくないの」


 訴えかえるような眼差しを送ってくる美里に、太は話が通じていないと思う。それは隣にいる美優も感じているようで、戸惑っているのがうかがえた。


「そうは言ってないよ。もうちょっと考えようって言ってるだけで」

「なんでわかってくれないの。見てればわかるでしょ。この人と一緒にいられれば、私は幸せになれるの」


 声を荒げながら、美里は体をより強く隣に座る男に押しつける。男は恋人を楽しげな目で見ていたが、程なくして太の方へと向き直った。


「美里さんがこれだけ言ってくれているんです。美里さんと僕の気持ちを認めてくれませんか」

「不本意ではあるが、美里の気持ちは認めている。だが、先程から何度も言っているように、ことを性急に進め過ぎじゃないだろうか」


 あらためて話が噛み合わないと太は思う。そして、静かな笑みを湛えるこの男の顔付きを見るに、わざとこんなやりとりを繰り返している節すらあった。


「そうですか。ですが、僕と美里さんの気持ちを認めていただけるのであれば、あとの問題などほんの些細なことです。既に、結婚のための準備もほとんど整っています」


 男の言動を耳にして太は、それはないだろう、と思ったが、やけに自信に満ち溢れた口ぶりが気にかかった。


「家族の許可もとれてない癖に準備が整っているなんて言っちゃってるの」

「よく聞きなよ、美優お姉さん。ほとんどって言っただろ。あとは、お義父さんと美優お姉さんの許可をとれればいつでも結婚できるんだよ」


 馬鹿にするような下の娘の口ぶりに、少年は愉しげに答えてから、式が兄弟の自宅である屋敷で行われること、式を身内のみで行うため招待状を出す必要がないこと、服装や料理などは兄弟の家でまかなうため心配する必要がないことなどを語った。少年の調子に乗せられていると感じながら、太と美優はこの結婚が無茶であると思われる点を次々と指摘していったが、その度にしっかりとした答えが返ってくるため、徐々にこの結婚に対して反対する理由が失われていった。


「お義父さんも美優ちゃんもご理解いただけたでしょうか。僕らの結婚に対する障害はどこにもないのです」


 やがて、あらかたの言葉を失った太と美優に男は手を差しのべるような声を投げかける。太はその声音にほんの少しの嘲りがこめられているのを読みとった。それは下の娘が、以前少年に対して語った印象とぴったり重なる。途端に認めがたいという感情が、急激に膨らんでいった。


「やはり私は君たちの結婚を認められない」

「お父さん」


 上の娘の叫びが鼓膜を震わせたが、太はそちらに視線を向けないようにしながら、自分から大切な娘を奪っていこうとする男の方を見据えた。


「美里には悪いと思うが、私はどうも君たち兄弟を信じることができそうにない。こんな風にして急に事を進めようとしてしまうのも含めて、正直気に食わない」

「同感」


 父親に合わせて、自らの本音を忌憚なく叩きつける下の娘の声には、上の娘を挟む二人への攻撃性が隠すことなく窺えた。それを耳にした美里は、やや俯きながら唇の端を強く噛みしめる。一方の当の兄弟はといえば、かえって笑みを深めはじめ、


「やれやれ。困ったね、兄さん」

「僕らも随分、嫌われたものだね。なにか失礼なことをしてしまったのかな」


 ニヤニヤしながら言葉を交わしあい、小馬鹿にするような視線で太を見つめた。太は腹の中で苛立たしさを募らせていったが、とにかく、と強く宣言し、


「もう、私には話すことはない。今日のところはお引取り願えるかな」


 そう結んで、兄弟を追い返そうとした。直後に、兄弟は揃って肩を竦めてみせる。


「そこまで言われたら仕方ないかな、兄さん」

「ああ、そうだね。とても残念だが」


 さして感じ入っていない調子でそう口にした男は、顔を伏せていた美里へと視線を送る。


「そういうことになったから美里。事前に言っていた通りに頼むよ」


 上の娘は顔をあげて頷くと同時に、真横に置いてあったハンドバッグを探り、一枚の紙切れと印鑑を取りだした。それを見て、太は目を丸くする。


「なぜ、私の印鑑をお前が持っている」


 広げられたのはあらかたの事項が記入済みの婚姻届と石井家の実印だった。


「僕からお願いしておいたんです。なにかあった時のために、持ってきておいて欲しいとね。けれど、まさかこういう状況で使うことになるとは夢にも思っていませんでしたよ」


 実に残念だ。そう告げる男の声音は、密やかな悦びに溢れている。表情からして最初からこの展開を予測していたのだと呑みこんだ太は、今にも押されようとしている印鑑と婚姻届を奪いとろうとする。それを遮るように男の長い手が伸ばされ、太の掌をがっちりと握りこんだ。涼しい顔をした男の指先にこめられた万力によって、太は手に食いこむような痛みを感じて顔を歪める。それでも尚、空いている手を婚姻届に伸ばそうとするが、それもまた同じように空いている手に補足され、苦痛が大きくなった。


「離しなさいよ」


 すぐ隣では下の娘が声を張りあげている。見れば、男の弟である少年が美優を背後から抑えこんでいた。一見細身な体格に似合わず、少年もまた相当な腕力の持ち主のようである。そうしている間に、美里は印鑑を紙上に押しつけ終え、心地よさ気な溜め息を吐いてから、男に熱のこもった視線を送った。


「これで、私とあなたを遮るものはなにもないのね」

「あとは。役所に提出するという煩わしい手続きも残っているが、それもすぐに解決する。実質、今日から僕らは晴れて夫婦となったわけだ、お前」

「はい、あなた。一生ついていきます」


 恋人同士がこの世界に自分たちしかいないように見つめ合う最中も、太は両手を抑えこまれたまま動けずにいる。隣では暴れ回ろうとする下の娘と、それを楽しげに押さえ込む少年の声が絶えず響き渡っていた。


「それではお前、僕はお義父さんたちに話しておかなければならないことがあるから、先に館へ帰っておいてくれないか」


 男の言葉に美里は少しだけ寂しげな顔をしたが、すぐに笑みを繕い、太の方に視線を向ける。


「父さん、今日はこれで失礼します。明日の結婚式でまた会いましょうね」


 そう言って一礼すると、美里は婚姻届を拾いあげたあと、あっさりと踵を返して玄関の方へと向かう。太はその背中に、待て俺は結婚を認めてないという台詞を叩きつけたが、反応らしい反応が返ってこず、あっさりと美里は家を出ていった。閉ざされた扉を呆然としながらじっと見ていると、ようやく男が手を離す。痛みが引くのと同時に太は慌てて手を引っ込めた。


「ということです。これで僕らの結婚を遮るものはなにもなくなりました。いえ、元々、そんなものはなかったというべきでしょうか」


 浮かびあがる男の嘲笑を目にして、太は自らの頭に血が昇っていくのを感じた。


「あんたは、こんなことが通るとでも思っているのか」

「ええ、通りますとも。既にほとんどの問題は解決されました。欲をいえば、お義父さんや美優さんに祝福していただければ良いのですが」

「するわけないだろう。未成年をたぶらかすばかりでなく、こんな犯罪まがいのことまでするような輩に、大切な娘を任せる気になどなれん」


 闖入者たちに対する敵意が膨らんでいくのをおぼえながら、太は正面の男を睨みつける。男は笑みを崩さずに、大袈裟に肩を竦めてみせた。


「やれやれ、困ったお方だ。それではあなたは美里さんの気持ちを踏みにじるつもりなのですか」

「あんなものははしかみたいなものだ。少しの間あんたたちと距離をとっていれば、その内いつも通りに戻るだろうさ」


 そう言ってはみせたものの、太には美里の気持ちが変わるという確信が持てていない。なによりもこれまでの生涯において、あの真面目な娘が家族以外の特定の人間に強く入れこむ瞬間を見たのは初めてだった。そんな太の心境を察しているのか、男の口の端が吊りあげられる。


「僕と美里さんの愛を甘く見過ぎですよ。心が通じ合っている以上、あなたがいかに二人を引き離そうとしても僕らは屈しません」


 男の口ぶりはいかにも自分が被害者であると言いたげなものだった。そのような三文芝居に付き合う気にもなれずにうんざりした太は、おもむろに腰をあげる。その際、隣を見やると、下の娘もまた少年の腕から解放されていた。太が視線で合図を送ると、美優は頷き少年から離れようとする。


「どこに行こうというのですか」


 その動きを目ざとく察したのか、男が親子の行く手を遮る。太はその細長い体を疎ましく思いながらも、どこでもいいだろう、と言い捨てて横を通り抜けようとした。しかし、男は尚も立ちふさがる。


「それは困りますね。お義父さんも美優さんも明日の結婚式の大事な参加者なんだ。ここで勝手にどこかに行かれては困りますね」

「ちょっと、外に出るくらいなによ。それも許されないわけ」


 下の娘の苛立ち混じりの問いかけに、男は、当然ですよ、と答える。


「あなたはもう既に僕たちの家族なんだ。しかし、不幸なことにそれを受けいれられないときている。それに、明日は大事な式なのだから、逃げだされては困ります。だから、明日、迎えが来るまで、ここにいてもらおうと思います」

「逃げるつもりなんてこれっぽっちもないさ」


 太はこれまでに募った憤懣をこめて男を見つめる。男は少々興味深そうに、小さく息を吐き出した。


「それではあなたは今ここから出て、なにをするつもりですか」


 口を開く直前、太は下の娘と視線を合わせる。不安げな美優の眼差しに、大丈夫だ、と目で応じてから、再び男に向き直った。太を見下すようなにやにやとした笑いがただただ気に食わなかったが、その感情はとりあえず腹の中にしまう。


「君たちの家を訪ねて、美里と話をつけてくる」

「僕らの未来に祝福の言葉を贈っていただけるんですか。いやあ、嬉しいな」


 揶揄するような響きをこめた男の声音は、太の耳にただただ耳障りなものとして流れ込む。一瞬、太はこの話に乗るべきかと考える。しかし、乗ったら乗ったで口約束で二人の仲を認めたことになりかねないと思い、結局今頭の中にあることを直接叩きつけることを選んだ。


「美里に結婚を取りやめるように説得しにいく」


 それができるという確信が、太の中にはない。しかし、だからといってこのままわけのわからない連中に美里を連れ去られたままでいるわけにもいかなかった。ゆえに、太としては、自分のよく知っている美里の優しく物分りのいい気質を信じるほかない。


 男は少しの間、黙りこんでいたが、程なくして腹を抱えて笑いだした。それに呼応して、少年の方もおかしげな声をあげはじめる。


「なにがおかしい」

「いえいえ、お義父さんの諦めの悪さに感動しただけですよ。その頑固さ、僕は嫌いじゃないです」


 言ってから男は再び口を押さえて笑いだす。ともすれば、品の無さに繋がりかねない仕種だったが、そうならないのは育ちの良さや服の着こなし方のせいなのだろうか。室内に響き渡る兄弟の声を不快に思いながら、太は下の娘に視線で合図を送り、ともに部屋から出て行こうとする。しかし、兄である男は目ざとく反応し、二人の行く末を体で遮った。


「まあまあそう慌てないでくださいよ、お義父さん」

「君らにお義父さんなどと呼ばれたくない。なにをしようと俺の勝手だ」


 言い捨ててから太は男を押しのけようとしたが、まるで床に根を張っているかのようにびくともしない。その間に、下の娘が一人玄関まで向かおうとするが、後方からやってきた少年に捕縛された。


「離しなさいよ」

「そんなに嫌わないでよ、美優お姉さん。ぼくは美優お姉さんが嫌いでこんなことをしているわけじゃないんだから。むしろ、愛しているからこそ良かれと思ってこうしているんだよ」

「あんたにそんなこと言われたって少しも嬉しくない」


 下の娘は絶えずもがいてはいたものの、少年は美優の体を愉しげに捕まえたままびくともしない。男は二人の様子を一瞥したあと、太の方へと向き直る。


「お二人にはできるだけ早く、館にやってきてほしいと思ってはいるのですが。生憎、まだ、お客様をお迎えする準備が整っていないのです。だから、もう少々お待ちいただけないでしょうか」

「準備なんてどうでもいい。とにかく娘と話をさせてくれ」


 悪びれもしない男の声音に取り合わないまま、太は距離を詰めていく。徐々に近付いていくにつれて、男の顔に苦笑いが浮かんだ。


「やれやれ、やはり、お義父さんはとても強情なようですね」

「だから、君にお義父さんなどと呼ばれたくもない」

「僕はあなたの娘さんと結婚させてもらうわけですから、こればっかりは譲れませんね。それはともかく、ここで別れるのはお互いのためでもあると思うのです」


 どういうことだ、と太が訝しげに聞き返すと男は、ええ、と短く応じる。


「今日は遅くなってしまいましたし、お義父さんも美優さんは随分と熱くなってしまっています。僕ら兄弟はそれほどではありませんが、美里さんも僕との結婚をお義父さんに認めてもらえなかったことで、少々心を痛めているように見える。だからこそ、お互いに多少頭を冷やしたうえで、あらためて話し合った方が良い方向に話が進むと思うのです」


 理路整然とした男の声音は、いかにももっともらしく聞こえたが、太は真っ向から反対の意を示す。


「それで時間を置いたらどうなる。俺と娘をここに閉じこめている間に、君らは役所に婚姻届を提出してしまうつもりだろう」

「ええ、もちろん。僕らの仲は誰にも邪魔されてはならないものですから。それは僕もそうですし、美里さんもまたそう思っているでしょう。その上で、お互いの妥協点を見つけるために、明日の結婚式までの時間を使って話し合う、というのはどうでしょうか」

「話にならん。全ては君らの都合の押しつけじゃないか。結婚を急ぐのも、まともな手段で俺や美優を納得させられないから、強引に押し切ろうって魂胆なんじゃないのか」


 お互いの主張が平行線を辿るばかりだったのもあり、太は少しでも話が進展すればと挑発混じりの言葉を口にする。しかし、男は少しも表情を変えないまま、それは違いますよ、と告げた。


「僕と美里さんの心はがっちりと結ばれています。それは本日、お話をさせていただいた際にお義父さんもしっかりと確認していただけたと思いますが、いかがでしょうか」

 

 男の言と同時に、いつになく幸せそうな顔をした美里のことを思い出す。そして、この兄弟と話している際の打ち解けた様子も。


「おわかりいただけたようですね。だから、僕には何の心配もありませんし美里さんもこの点に関しては同じ気持ちであるのは疑いようもない。ですが、そんな美里さんも、まだ心の端の方に小さな不安を残しているのです」


 そこまででもったいぶるようにして口を閉ざした男は、すぐに太に、おわかりになられますか、と尋ねるような視線を送ってくる。男の眼差しにこめられた微かではあるもののたしかな嘲りを見てとりながら、太は今日この兄弟を連れてきた美里ではなく、いつも家で笑顔を振りまく娘であればなにを思うのかを考え、


「俺たち家族と君たちの間にあるわだかまりのことか」

「そうです。心優しい美里さんにとっては、あなたたち家族はかけがえのない人たちに他ならない。だから、今のようにあなたたちが美里さんと僕の仲を認めないというのは、彼女にとってはただただ心苦しいことなのですよ」


 それはまた、この僕も同じことなのです。言い加えながらも、少しも感じいってないように見える男に腹を立てつつも、一方で今の自分の行動が美里の心を傷つけているのではないのかという懸念が、太の激情を徐々に冷ましつつもある。


「それに加えて、幼い頃から母親無しで過ごした美里さんは、大切な人との距離があるのに不安を覚えやすいたちでもある。だからこそ、僕としては、できるかぎり早くたしかな結びつきが必要だと思った。これが今回の結婚が早まった理由です」


 男は言い終えてから息を吐きだし、不敵な笑みを浮かべて太の顔を覗きこむ。


「これでこの結婚が美里さんと僕、二人の気持ちであるということをおわかりいただけたと思います。もちろん、お義父さんが反対しているのは僕も重々承知していますが、ここは美里さんの幸せを考えていただくということで、結婚を了承していただけないでしょうか」


 男は滑らかに言葉を紡ぎだしていく。それらを耳にして、太は自らの振るまいが、実のところ娘を誰とも知らぬ馬の骨にやりたくないという個人的な感情に引き摺られているだけなのではないのか、という疑惑にかれられた。端的に言えば、この男や少年に対して抱いている反抗心に自信が持てなくなりはじめていた。とりわけ、どちらの行動が美里のために良いことであるのかという点に関しては、大きな迷いが生じはじめている。


「そんなのこの人たちの口から出任せじゃない。相手にすることないよ」


 押さえつけられたままの状態で発せられた下の娘の叫びは、太の心に少しばかりの活気を灯しはしたものの、一度与えられた上の娘の幸せを遮っているのは自分自身だという確信を拭うまでにはいたらない。


 美里の幸せは、このどこともわからない馬の骨たちと太や美優が手と手を取りあうことであるのだろう。だからといって、太自身の兄弟たちに対する生理的嫌悪はいまだに根強くそこにあり、首を縦に振ることもできない。


 そんな太と美優を見兼ねてか、男は小さく溜め息を吐く。


「どうやら、今日はここまでのようですね。お義父さんもお疲れのようだし、これ以上、僕らがいても進展はないでしょう。明日の朝、お迎えにあがりますので、ゆっくりと体を休めてください」


 それでは、と告げて頭を下げると、男は踵を返して玄関まで歩いていく。今、太が全力で走れば追い抜いて外に出られるかもしれなかったが、不思議とその気力はどこにも湧きあがらなかった。呆然としている内に、扉は開かれ、あっという間に閉ざされる。


「なにしてるのよ、お父さん。早く行ってよ。もう、お姉ちゃんとあの人の行き先はわかっているんだから早く」


 下の娘の急かす声は、意味を喪失したようにして音だけが耳の中に響き渡る。自分は何もしない方がいいのではないのかという気持ちが徐々に胸の内に満ちていくのがわかった。


「お義父さんは美優お姉さんよりも物分りが少し良かったってことだよ。だって、うちのお兄さんと美里お姉さんを見ていれば、二人をくっつけるのが一番幸せだっていうのはすぐにわかるもんね」


 少年の小憎たらしい口ぶりを耳にしても、太の心は静けさを保ったままだった。反対に、美優の感情は一向におさまるところを知らないらしく、後方の少年を睨みつける。


「そんなのわかんないじゃない。っていうか、あんたら胡散臭すぎ。最初は図々しく家にあがりこんで、それが済んだと思ったら丸めこんでいたお姉ちゃんとすぐに結婚するとか言い出すし。それ以上に、あたしはあんたたちの目が大嫌い。その自分たち以外をみんな見下すみたいな目が、本当に気に食わない」

「やれやれ。知らないうちに随分と嫌われたものだね。最初は、一緒に楽しく遊んでくれていたりしたのに」


 ぼく、悲しいよ。そう感情の籠もっていない声で告げると同時に、少年はゆったりと下の娘へと顔を近付けていく。そして、口の端を吊り上げたあと、躊躇うことなく美優の唇を奪った。


 太は目を丸くする。当の美優またも面食らったように固まっていた。程なくして、唇を離した少年は、じゃあまた明日、とあっさりとした様子で告げて玄関から出て行く。蛍光灯が薄く点滅する間、室内にはただただ静寂が広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る