第7話 不在
それから一週間ほど、上の娘は毎日のように遅く帰ってくるようになった。
「ごめんなさい。今日も友だちと約束があって」
決まって美里から断りが入るようになり、段々とそれ自体が日常になりつつあった。太は、危ないことはないんだな、と尋ねこそしたが、これまで長きに亘り家事などを任せ続けてしまった負い目もあり、最終的には、とにかく気を付けるんだぞ、と送りださざるをえなかった。しかし、美里の熱に浮かされたような表情は、父である太の本能的な不安を揺さぶった。
どことなく上の空な美里は、太の目に入る範囲でも、多くの細かな失敗をした。目覚まし時計をかける時刻を間違えて寝過ごしてしまい、家族全体の朝が慌しくなったり、目玉焼きを焦がしてしまったり、運んでいる皿を落とし割ってしまったり、その破片を拾おうとした拍子に指の先を切ってしまったり。これらの事柄から、太は上の娘になにかがあったのだろうと思いながら、いかにここ何年か美里に頼って生活していたのかを実感するにいたる。それとなく、なにかあったのか、と尋ねてみても、美里はなんでもないの、と首を横に振ってみせるだけだった。その間際に浮かべる顔には、恍惚とした感情が宿っているように見えた。
こうした気がかりを抱えつつも、太の時間はかまわず進んでいく。仕事中も美里のことが頭を過ぎったりもしたが、そればかりに気をとられるわけにはいかず、忘れようと努めながら、手と口と足をひたすら動かした。部下には、調子良さそうですね、などと感心されたりしたが、上司や同僚には、大丈夫か、と心配された。仲間たちの気遣いを受けた太は、自らがいかにわかりやすい人間であるかを実感しつつ、なんでもないですと作り笑いを浮かべた。そうしていつも通りをよそおって仕事をこなし、タイムカードを切ったあと、今日も家に上の娘がいないのだと思い出し、途方に暮れながら帰路に着く。そんな日がしばらく続いた。
「彼氏でもできたんでしょ」
ある日の夕食後、なんとはなしに美里はここのところなにをしているのだろう、と美優にぼやいてみたところ、さして興味もなさそうな様子でそんな答えが返ってきた。太もおおむねそんなところだろうと予想していたものの、はっきりと言葉に出されるとなんとも厭な心地にさせられる。下の娘は苦笑いをしながら、太のグラスにビールを注いだ。
「お姉ちゃんもいい歳なんだから、彼氏の一人や二人はいるでしょ」
「二股するような娘に育てた覚えはない」
既に何杯かビールを飲んだあとで酔いが回っているせいか、太は僅かに声を荒げる。美優は、たとえ話だよたとえ話、と呆れ声で応じてから、隣の席に腰を下ろした。
「でもさ、お姉ちゃんもいつまでもこの家にいるわけにはいかないじゃない。お父さんもそれはわかってるでしょ」
「わかってる」
短く答えながら、上の娘が仮に相手を連れてきた時のことを考えてみるが、やはり自分のものをとられてしまったような気持ちにさせられるのは止めようがなく、衝動的に手元のビールを大きく傾ける。苦味と酸味と冷たさが口内に溢れていくにつれて、美里の手を引いて連れて行く顔も知らぬ男の後ろ姿が頭に浮かんでしまい、まずいくせになんとも沁みる味のように思えた。
「お父さんは、お姉ちゃんのこと大好きだからね」
下の娘の生温かな言葉には、太は揶揄されているような気分にさせられたが、まったく持ってその通りでもあったため、顔を逸らして、娘が好きで悪いか、とぶっきらぼうに答えた。
「悪くないよ。ただ、ちょっと感想を言っただけだって」
美優の声音は淡々としているものの、その響きに太は、小さな不満のようなものが込められているのを聞きとる。いったい、なにが下の娘にそんな感情を抱かせるのか。少し考えてから、なんとはなしに察すると、
「そういうお前の方は、いい相手はいるのか」
がらりと話題を変えて、下の娘の方に向き直る。美優は少し気まずそうに頭を掻いてから、いないけど、と答えた。表情からして嘘ではないだろうと判断してから太はほっと胸を撫でおろすと、
「良かった」
と素直に口にする。途端に娘は頬を膨らました。
「娘が嫁に行けないのを願うっていうのはどうなのよ」
「嫁に行くことだけが幸せじゃないだろう。それにお前は高校生なんだし、結婚するにしてもまだまだ先のことだろうさ」
太がそう言うと、下の娘が不本意そうな目をする。それを見て、太の中におかしさがこみあげてきた。
「あたしには相手なんかみつからないと思ってるわけ」
じっとりと睨みつけてくる娘を、太は心から可愛らしいと思ったあと、そうじゃない、と否定する。
「お前がみつけようと思えば、きっといい男をみつけられるだろうさ。ただ、個人的にはもう少しだけ先であって欲しいって思うだけだよ」
「なんでよ」
不満げな娘を太は微笑ましく思いながら、
「お前が結婚したら、たぶん泣いてしまうからな」
と口にした。直後にものすごく恥ずかしいことを言ってしまったのではないのかと後悔しかけたが、その感情はアルコールが入っていたせいもあり、いつかやってくるだろうさびしさと、今現在下の娘がここにいるという小さな満足感によって掻き消される。
美優は少しの間、目を見開いたまま固まっていたが、途端に腹を抱えて笑いだした。
「そっかそっか、お父さんはあたしがいなくなったら泣くんだ。そういうことだったら、もうちょっとだけこの家にいてあげるよ」
美優は机を軽く叩きながら、愉快そうな声を出す。それを肴にして、太はビールを口にした。先程よりもやや美味しくなったと思いつつも、一方で今いない娘が嫁に行く姿が頭の中でよりはっきりしはじめたのもあって、少しだけ憂鬱にさせられた。きっと、泣くのだろうなと考えながらも、それは早くとも何年後かであると自分に言い聞かせた。
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