第6話 たぶん、日常

 それから数日が恙なく流れた。調子がなかなか戻らない上の娘と、いつも通り眠気と食い気を発揮する下の娘、という対照的な二人を遠目に見守りながら、太は淡々と仕事をこなしていた。


 少年がいなくなった日に感じた家や心の中にあった空白も、忙しさに負われているうちに徐々に気にならなくなっていくのがわかった。たしかにあの少年の訪れは、この家族の歴史内でも稀な体験ではあったが、その珍しさはともすれば誰にでも起こりうる程度のものでしかない。そして、これくらいの珍妙さは人生という長い尺単位で見てみればたいしたことではないように感じられ、何年にも亘って降り積もった日常の強固さには到底及びはしないのだという認識にも繋がった。もっとも、太にとってのもっとも珍しい出来事の鋳型は、いまだに突然の妻の蒸発なのだが、これもまた人類という目線でみればさほど気にすることではないかもしれなかった。


 こんなことを時折考えたり忘れたりしながら太は仕事に力を注いだ。クーラーの冷気が骨身に染みたり、部下のミスに対して叱責を飛ばしたり、自らの些細な失敗に気付き心の中で舌打ちしてはすぐに切り替えたり。毎日、微妙に手触りを変えていく職場という生き物の中で、気を緩めないようにしながら、終わったら終わったで娘たちの下に帰ることを考えていた。


 そうしたいつも通りに戻っていく最中にあったはずのある日の夜、太が少々遅めに帰宅しチャイムを鳴らすと、出てきたのは下の娘だった。自然と何日か前まであったはずの出来事を思い出しやや身を固くする太の前で、美優が首を横に振る。


「今日は来てないよ。ただ、お姉ちゃんもいないけど」


 なんか、親しい知り合いとご飯を食べてくるから、今日は二人で食べて欲しいって連絡が来たの。そう告げる美優の言葉を耳にして、小さく胸を撫でおろすとともに、幾許かのさみしさを感じる。


 親しい知り合い、という物言いから汲みとれる含みの大きさに、太は思いを馳せた。それは友人や先輩か、あるいは恋人かという想像を巡らしたあと、美里の交友関係をあまり知らないことに思いいたる。妹の美優の方は聞かれもしないにもかかわらず、顔も見たことのない友だちのことなどをべらべらと食事中の話題にしたが、姉の方は高校の頃の部活やサークルの話をすることはあっても、さほど深いところまで踏みこまずに表面を撫でるようにして、なにがあったのかということと個人的なささやかな感想を口にするに留まっていた。


 太は時折、そんな上の娘のことが心配になり、俺たちのことは気にせずに楽しんできていいんだぞ、と言い聞かせたりした。しかし、美里は、私は家にいるのが一番だからと薄く微笑むばかりで、頑なに家事をこなし続ける。一時期、強く訴えかけてみたこともあったが、お父さんは私なんていらないの、と思い詰めた顔をされた時以来、あまりしつこく言えなくなった。同時に理由はどうあれ、上の娘にとってこのさほど広くないいくつかの部屋の連なりからなる空間がかけがえのないものであるのだと嫌でも実感し、少しだけ嬉しくなりもした。


 こうした事情から、太は美里に無理をさせていたという気持ちを持っていたため、上の娘が家族以外の交友関係を持っているのをあらためて確かめると、後ろめたさが解けていく気がした。一方で年頃の娘を持つ人の親の常で、いつもこの時刻にはここにいる美里が、こんな遅くに外に出て大丈夫なのかという心配や、ここにいないことに対する心細さがつのった。


「たまにはいいんじゃないの」


 一方の下の娘はいたって気楽なもので、太に家に入ってくるように促してから、一足先に引っこんでいった。鞄の重さが玄関前でなくならないのを少々名残惜しく思いながら、美優の後ろについていき、居間へとたどり着く。


「ちょっと待ってて。運んでくるから」


 そう言い置いて台所に引きあげていく下の娘を見送ったあと、太は寝室まで引きあげて鞄を下ろし、ネクタイを外しはじめる。首の圧力が緩まっていくのを感じるのと同時に、そこに心許なさをおぼえた。つい先日まで邪魔だと思っていた窮屈さに、僅かな懐かしさを覚えつつも、白と水色の縞模様の寝間着姿になり、居間へと戻る。襖扉を開けると同時に、ミートソースの匂いが鼻腔をくすぐった。


「インスタントだな」

「嫌だったら食べなくてもいいよ」


 途端に顰め面を作る下の娘に、太は苦笑いをしてみせると、これはこれで好きなんだよ、と答える。美優は、その言い方が引っかかるといいつつも、食卓の上に広がったミートソーススパゲッティとプチトマトとレタスのサラダを見やった。ごくごく簡単なものではあったが、逆にその単純さに食欲をそそられ席に着く。隣に座る美優はテレビ画面に移るバレーボールの国際戦の試合中継を横目でちらりと一瞥したあと、おずおずと手を合わせて、


「それじゃあ、いただきます」


 少し照れたようにそう言った。太はすぐさまフォークを手にとるのと同時に、パスタを茶色のソースにからめて巻きつけてから口にする。途端に舌先に人工的な甘さと酸っぱさが広がった。ここのところ、ミートソースは上の娘がもう少し手をかけて作るのが大半だったので、さして手を加えていない既製品のソースの味に新鮮さを感じると同時に、僅かな物足りなさをおぼえもする。


 すぐ横に座る下の娘はといえば、ちらちらとバレーボールの試合経過に目を移しながら、手早くパスタを食している。太が行儀が悪いと注意をすれば、美優はいいじゃんこれくらいと応じ、態度をあらためようとしない。太は呆れながらも、これもまたいつも通りであるので、もう少し味わって食べろよなどと愚痴る。


「あたしが作ったんだから、どう食べようとあたしの自由でしょ」


 下の娘はうるさげに応じつつ、手を止めてテレビに見入りはじめている。試合は、太たちの国が二セットを連取されたあとで、今のセットこそリードしていたものの、依然として予断は許さない状況だった。たしかに邪魔はされたくないだろうなと思い、太は、そうか、と言ってから、フォークを握りパスタにぱくつく。


 しばらくの間、自国側に点が入る度に叫びだす男性アナウンサーの声と食事の音が卓に響く。既に、下の娘はパスタとサラダを平らげ、今にも負けてしまいそうな自国のチームを固唾をのんで見守っている。太もまたパスタを平らげ終わると、お代わりを取りに立ちあがろうとした。


「いいよ。あたしがやるから」


 これまでほとんど父親を目に入れていなかったように見えた美優が立ち上がって、太の皿を横から奪いとった。思わず、今いいところだろ、と尋ねた太に対して、下の娘は、だから代わりに見といて、と気軽に応じてから台所に引っこんでいく。その後ろ姿を少し見送ったあと、プチトマトを口に放りこんでから、身体をずらしてテレビ画面に見入る。試合は三セット目終盤に入り、先程から自国側がマッチポイントになっては追いつかれるという展開が続いていた。カメラは主に自国側コートに向けられているのだが、六人のチームメンバーはこころなしか息が切れているようにも見える。そうこうしているうちに試合再開とともに相手チームがサービスエースを取り、逆にマッチポイントをとられ追いつめられる結果となった。


「これは駄目そうだね」


 戻ってきた娘の手から、湯気を立ちこめさせるミートソースパスタが置かれる。どこか投げやりな口調に苦笑いをしながら、まだわからないだろう、と月並みな答えを口にした。しかし美優は淡々とした調子で、いや無理だと思うよ、と答える。


「たとえこのセットをとったとしても、次のセットをとれそうにないし」


 その言葉を証明するように、自国側があっさりと相手チームの強烈なスパイクを選手と選手の間に落とされ、試合が終了した。ああ、と小さく落胆しながら、テレビ画面を消した下の娘は、今度は太の方をみつめてくる。なにも言わずに、楽しげな表情をしだした美優の前で、パスタを一口啜ったあと、なにかあるのか、と尋ねた。


「いや、さびしそうだなって思って」


 最初太はなにを言われたのかよくわからなかったが、すぐに思い当たり首を横に振る。


「嘘ばっかり」


 下の娘の訳知り気な顔が少々癇に障りはしたが、無視して口を動かしていく。パスタに目線を注いでいる間、太は真正面から向けられる美優の視線を感じていた。それにやりにくさをおぼえて、注意しようとしたものの、娘の眼差しがあまりにも優しげだったため、毒気をぬかれてしまい、黙って食事を再開する。温かなミートソースを口内で味わっている最中、太は娘がテレビを消したままでいるのを珍しいなと思った。


 結局、太が食べ終わるまでの間、娘は父親の横顔にじっと視線を注ぎながら頬杖をついて微笑んでいた。眠たそうにしているわけでもないのに口数が少ない娘に訝しさを覚えながら、皿を台所に運んでいこうとすると、あたしがやるよ、と言われて先に持っていかれた。このような行動が、普段の娘のぐうたらさにあまりにそぐわなくて、太は首を捻る。その戸惑いを察したのか、美優は悪戯が成功した子供のように口の端を弛めた。


「たまにはこういうのもいいでしょ」


 親の欲目かもしれなかったが、その微笑みはとても可愛らしく思えた。一方でこういう仕種を上の娘と一緒に見ていたかったなという、僅かな寂しさを覚えもする。


 結局、上の娘は十時過ぎ頃に帰宅した。遅くなってごめんなさい、と謝るその表情はこころなしか上気していた。

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