第3話 再訪

 前日とは異なり、定時よりも遅い帰宅となった。タイムカードを切る少し前、太はともに上がった同僚たちに一杯やっていかないかと誘われた。昨日、一滴も酒を飲んでいないことやここのところ同僚たちと飲みに行っていないのもあり、少々心が揺れかけたが、上の娘にお酌をしてもらいたいという欲望が勝り、断りを入れる。


 例のごとく若い部下に、娘さんとかいっていい人がいるんじゃないですか、などと茶化されたものの、おおらかに笑って応えた。気心の知れた年の近い同僚たちや上司などは太の人間性を理解しているのもあり、娘さんたちによろしくな、と軽やかに口にする。それらの言葉に背中を押されるようにして、太は飛び出すようにして会社をあとにした。


 頭の重さや肩や関節の節々の気だるさなどを感じながら電車に揺られる太の頭には、それほど広くない自宅のアパートの居間でお酌をしてくれる美里、それを笑って見ている美優の姿が浮かんでいる。くたくたになった体をほぐしてくれる想像に身を任せ、つり革を掴んでいる指先の力を強めたり緩めたりを繰り返した。


 程なくして最寄り駅にたどり着き、やや古びた改札口を抜けた太は、あまり栄えていない駅前の飲み屋街に響くサラリーマンたちの声を耳にしつつ、早く家に着かないだろうか、と子供のように気分を高揚させた。


 駅前の雑踏が遠くなり、人気のない道の薄明かりに照らされながら歩いているうちにアパートへとたどり着く。自室の前に来ると、焼いた鮭と葱の味噌汁の匂いに混じって、和やかな笑い声がしていた。それを耳にして太は、おや、と思う。とても馴染んだ娘たちの声に混じって、別の人間の声が聞こえた。誰だろう、と思ってすぐに、昨日のことを思い出す。すぐさまチャイムを押すと、騒がしい足音とともに、勢い良く扉が開かれる。出てきたのは、下の娘だった。


「お帰り。今日は遅かったね」

「ただいま。ちょっと仕事が長引いてな」


 短い挨拶を交わしあいながら、いつもであれば面倒臭がって出てこない美優が玄関扉を開けることを珍しがる。こんな時、美里がすぐ後ろにいれば、もう少し静かに扉を開けなさいとでも口にするところであるし、現に太も同じような気持ちにさせられてはいたのだが、鞄まで受けとりはじめた下の娘の姿に毒気を抜かれたのもあり、それ以上、なにも言えずにいた。青い半袖のTシャツに紺のショートパンツを合わせた下の娘は、高校から帰ってきてから解いていないらしい短い二つ結びを揺らしながら、部屋の中を指差す。


「今日も来てる」


 少し疲れたような顔をする美優の言葉に、太は、やっぱりか、と思いながら靴を手早く脱いで、ただいま、と家中に響くように言った。


「お帰りなさい、お父さん。すぐにご飯、用意するわ」 


 居間では父親の方へと柔らかい視線を投げかける上の娘の姿がある。クリーム色の長袖のシャツを着た美里の前の食卓には焼き鮭とご飯、ほうれん草のおひたしに葱の味噌汁が置かれていた。


「すみません、今日もお邪魔しています」


 その向かい側には昨日の少年が同じ姿で腰かけている。もちろん、目の前には美里のものと同じ料理があり、既に半分ほどが食されていた。


「いらっしゃい」


 薄い微笑みを浮かべる少年の礼儀正しさを見て、太はそう答えるほかない。上の娘を注意するという口実で、遠回しにこの変声期前の少年を帰すことはできなくもなかったが、相手も少なくとも表向きは自分が邪魔者であると理解しているようだったため、強く追い出そうという意思が働かなかった。


 少年の横を通って寝室へ入ると、その後ろから美優がついてくる。太は下の娘の座っていた位置にまだ食事が残っているのを確認していたのと、そもそも男の着替えをする直前に入ってくるのははしたないという認識もあり、すぐさま、あんまり食事中に立つんじゃないよ、と注意する。しかし、美優はそれに聞く耳を持たず、


「早く着替えて一緒に食べよう」


 迷わずに自らの意志を伝えてくる。下の娘の少し弱った表情を目にして、太はさしあたって口にし続けようとした小言を引っこめ、美優の言に従うことにする。すぐ後ろからは、昨日よりも弾んだ上の娘の声音と、昨日と変わらない落ち着いた調子で応じる少年との会話が聞こえた。


 部屋を一つ隔ててその場にいる姉妹の少年に対する温度差の違いに、太はネクタイを解きながら戸惑う。とはいえ、隔てられているのは襖戸一枚でしかなく、ここで下の娘に直接尋ねたとすれば、ほぼ間違いなく上の娘にも話にも聞こえるはずだった。今のところ、太の美優に対する問いかけは、なにかあったのかという軽いものではあったが、昨日と今日の娘の様子からするに原因自体は明らかである。とはいえ、その原因が悪いという話をしてしまえば、肩入れをしている美里の機嫌を害しかねなかった。


 現時点では丸く治まっている。そう判断した太は、今日のところは見守ろうと決めた。


 黒い半袖のTシャツに濃い緑の半ズボンに着替え終えた太が居間に出ると、美里が昨日太が腰かけた席に食事を運んでいる最中だった。ほうれん草のおひたしの入った小鉢を持ってきたばかりの上の娘は、そのまま台所へと引きあげていく。太が運ばれたものを確認すると、残りの鮭を取りにいったのだろうと察せられた。太はあわよくば手伝おうという気持ちと、冷えたビールとグラス、栓抜きを取りに行きがてらに上の娘の後を追う。


「男児、厨房に立ち入らずですよ」


 気分が良さそうに軽口を叩く娘に太は、昔は俺が作ってただろうという突っこみを入れながら、台所の手前に設置されている冷蔵庫の扉を開く。すぐさま瓶ビールとあらかじめ冷やしておいたグラスを発見する父親に美里は、そういえばそんな頃もあったわね、と懐かしげに応じた。


「随分と楽しそうだな」


 さり気なく尋ねるつもりではあったが、家族三人水入らずといった空気を崩されたのが思いのほか堪えたせいか、太は自らの声が少々刺々しいものになってしまったのを意識する。上の娘は、あら妬いているの、とまた軽口を叩いた。それが不本意だった太がゆったりと向き直って、そう言うわけじゃない、と答えると、美里は、わかってるわよ、と笑みを深める。


「なんだかこういうのってとても新鮮な気がして」

「こういうのって」

「昨日、あの子が私たちのことを、お姉さんが二人増えたみたいだって言ってたけど、私も弟ができたみたいだなって」


 ラップのかかった焼き鮭の乗った皿をオーブンに入れる上の娘は、ひどく穏やかな眼差しをなにもないところに向けている。元より、太としては思いやりに溢れた娘に育ってくれたと常々思っていたが、そんな美里を基準にしても、これほどまでに優しい目になることは稀だった。


「弟が欲しかったのか」


 言いながら、太自身も遥かに幼いころにそんな希望も持った時があるのを思い出す。しかし美里は、そういうわけじゃないけど、と首を横に振ってから、


「ああいう可愛い子がいると、家族で賑やかになるのもいいなって思って」


 少しだけさみしげに言った。


 上の娘の顔を見て、太は蒸発したかつての妻の不在をあらためて意識する。どうしても父親である太が家に帰ることができない時、母がいない家でその代わりを果したのは姉である美里だった。可能であれば老いた両親を頼りもしたが、太の生家も蒸発した妻の生家もいくつか県を隔てた土地にあり、そうそう何度も迷惑をかけるわけにはいかず、結果として上の娘には小さな頃からかなりの負担を強いてきた。とりわけ、家にはやや年の離れたやんちゃな妹の美優もいたのを考えれば、美里の気苦労はかなりのものだっただろう。そんな生活を通して、上の娘が母に頼ったり甘えたいと思ったことは一度や二度ではなかったはずだ。しかし、姉という立場が幼い妹を心配させられないという気持ちに繋がったのか、表向きは美里がそういった弱音を吐くことはなく、結果として、母親の代わりという役目を太と二分することになった。


 太は休みの日、家事を引き受けてくれる美里を労うように心がけ、常にその心に気を配った。そういった時、上の娘は多少は寄りかかってくれはしたが、大抵は笑顔とともに、大丈夫と答えるに留まった。家族三人での生活がはじまったばかりの頃は太もややしつこく尋ねもしたが、一貫してなんでもないように振る舞う美里の姿に太も対応を変えざるをえず、代わりに感謝を忘れないように優しい声をかけ続けた。もちろん、太自身が悪いと思ったことは叱り、過度に甘やかしはしなかったが、声の一つ一つには、細かな苦労をかけていることへの気遣いと家庭を支えてくれていることに対する感謝をこめたし今も込めている。


 それから長い年月を経て、上の娘も今や十九歳になり、いつの間にか家事の多くを引き受けるようになっていた。もちろん、太もできうるかぎりの家事仕事を引き受けようと試みたが、細々ながら職場内で昇進していくにつれて、時間に追われることも増えたうえに、年老いてきて活力が徐々に衰えていったのも効いたのか、家のことを上の娘に任せる時間は少しずつ増えていった。職場も太の立場を理解してくれてはいたものの、子持ちで働いている同僚の中にも似たような境遇に置かれていても休まず働くものが何人かいたため、娘たちのためというだけで早く帰ったり出張を減らして欲しいなどとは簡単に言えず、忙しさに追われていった。これらの流れを経て、美里は、太が担当していた家事の多くを肩代わりしはじめた。


 気にしないで、こう見えても私は自分の時間を作るのが得意なのよ。太がすまない、と口にすると、美里は決まってそう告げて微笑んでみせた。決して表に出ている感情と言葉だけが本音ではないだろうと察しつつも、太自身が使える時間にもかぎりがあり、いずれにしろ上の娘の好意に甘えざるをえなくなった。こうしてここ何年かは、上の娘が家のことの多くをこなす状況が生まれていた。


 太自身はこと今日にいたるまで、感謝と気遣いを忘れないようにと努めているつもりではあったが、行われている事柄が当たり前になるにつれて、それらの感情も知らず知らずに薄れていたのかもしれない。そして、自らの今が忙しくはあっても比較的幸福であるのもあいまって、娘たちも無条件で幸福であると信じこんでいた。たしかにこの密やかな家庭には常に明るく、上手く回っているように見えもする。しかし、そこにいたる前には、いなくなった母親というものが関与していた。本来ならば、四人いたはずだったのだ。


 これらのことから、太は上の娘の少年に対する感情を、本来いたはずの家族の不在のさびしさを埋めようとする代替行為なのではないのかと考えた。もしかしたら、やたらと猫を拾ってきてしまおうとしたのも、そこら辺に由来していたのだろうか。そんな風に思いを巡らしている太の横で、美里は賑やかなのはなによりね、などと言いながら、頬を弛めている。


 上の娘の心の癒しになるのであれば、あの少年がいるのも悪くないのかもしれない。太は自らの居心地の悪さを押し殺してそう思おうとする。居間からは昨日と同じように話し声がしていたが、こころなしか下の娘の答え方が面倒臭そうである。さて、どちらの意見を汲みとるべきなのかと考えている最中、美優の呼び声が聞こえたため、太は足早に居間へと引き返した。

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