第2話 少年

 数日後、太は予定よりも仕事が進んでいたのもあり、定時よりもやや早く帰路についていた。五十手前の太よりも二十ほど年下の部下の男が、また娘さんたちのためですか、などとおかしげに尋ねてきたので、まあそんなところだ、と答えてタイムカードを切ってきた。事実その通りであるし、日頃から言われ慣れてもいるためたいして気にもならなかったが、ふと、自分には娘たちの面倒をみるくらいしか、やりたいと思うことがないと気付く。


 細かに見ていけば、週に数回にするように言われている晩酌のビールだとか、出張の時以外欠かさずともにしている家での食事だとか、狭い部屋での泥のような眠りだとかは楽しみにはしていたものの、そのどれもがおおむね家族がらみであるのは否定できない。


 もちろん、姉妹たちは年頃の娘たちであるし、気心が知れているゆえのやりにくさだとか、知らず知らずの内に異性にはよくわからない機微に触れ、気まずくなることもある。しかし、それらを差し引いたところで、娘たちへ向けられた温かな気持ちは薄れることはなかったため、へまをやらかしたあともまずは自己反省が先だっていた。


 そんな暮らしの中でもっとも困るのは、二人が蒸発した妻に年々よく似てくるせいで、時折、どきりとさせられたりすることだ。そのせいか、太が妻のことを思い出す回数も増えていった。いまだに、なぜ、いなくなってしまったのか心当たりがない。そんな調子だから別れられたのだと言われてしまえばそれまでであるが、多少甘い自己判断では、蒸発直前までは、上手くいっていたように思える。それなのにもかかわらず妻は何の前触れもなく失踪してしまった。妻がいなくなってから、太の世界は変わらざるを得なかった。


 世界が変わる前と後でもっとも大きな違いは、娘たちを見ている頻度だろうか。極端な話、狭い範囲に限定してしまえば、三人だった大切な人が一人減ったのだから、視線が集中するのは当たり前なのかもしれなかったが、同時に太は妻の受け持っていた機能の一部を望む望まないにかかわらず受け継がざるを得なかった。失踪する前の妻はパートとして働いてもいたので、元々、家事はある程度分担してはいたのだが、その頼れる相棒がいなくなった瞬間に、太の負担は増えた。もちろん、それだけというわけにはいかず、まだ成長しきっていなかった長女の美里にも苦労をかけてしまった部分もある。


 妻がいなくなる前の世界では、太も人並みの趣味を持っていた覚えがあった。しかし、せいぜい多く見積もっても十余年程度の年月しか経っていないにもかかわらず、それがなんであったのか既に記憶が曖昧になっている。おそらく、頭の中をじゃぶじゃぶと洗えば出てこなくもないのだろうが、そこまでする気力が湧いてはこない。


 いつの間にか太の体は、自らの住居であるアパートの部屋の前へとたどり着いている。そこで思考を打ち切り、チャイムを押した。今のままでいいではないか。頭の中のそんな声と同時に、まだほのかに焼けている空の下で、鼻先を掠めるカレーと鶏肉の匂いを嗅ぐ。程なくして扉が開き、赤いエプロンをかけた美里が出てきた。


「お帰りなさい、父さん」

「ただいま」


 短い挨拶をかわし合ってから、玄関に上がったところで、太の目に見慣れぬ金色の運動靴が目に入った。妹の美優は比較的運動靴を好むところはあったものの、覚えているかぎりでは、こんな派手な配色の靴を持っていた覚えはない。すぐさま、誰か来ているのか、と傍にいる姉の方に尋ねると、ええ、と困ったように曖昧に微笑む。


「お買い物の帰りに、なんだか一人で困っているみたいだから、ついつい連れて帰ってきちゃって」


 弱々しげに答える娘を見ながら、悪い癖が出たなと思う。普段、きっちりとしている反動か、あるいは弱いものを放っておけない性質ゆえなのか、美里にはダンボール箱に入れられて捨てられてる猫を拾ってきてしまうようなところがあった。本人も毎回、この決して広いとはいえないアパートではそれらの小さな命の面倒を見切れないというのはわかってはいるようではあったが、考えるよりも先に体が動いてしまうらしい。誰に似たのやらとかまたか、と思う一方、人間は初めてだなと考える。少しばかり、注意しなくてはならないかと思いを巡らしつつ、太は家の中に呼びかけるようにして、いま一度、ただいま、と言った。


「父さん、お帰りなさい。今日は早いんだね」

「お邪魔しています」


 居間に入ると、テレビから聞こえる芸人やタレントの笑いをぬって、陽気な美優の声音と礼儀正しいソプラノが耳に入ってくる。黒い半袖のTシャツとジーンズといった家着で楽にしている娘の隣に座っているのは、まだ変声期に入る直前と思しき少年だった。半袖カッターシャツと黒のスラックスという出で立ちからすれば学校帰りなのだろう。その物怖じしない態度から、迷子だとか弱々しい理由は想像できない。太は軽くお辞儀をし、どうぞごゆっくり、と曖昧に応じてから、姉から事情を聞きだすことにする。上の娘は、ひそひそ声で、ベンチで一人でたそがれている姿がとても寂しそうだったからついつい話しかけてしまったこと、その際ここのところ家に親が帰ってこないことなどを話された瞬間、一緒にご飯を食べていかないと誘ってしまった、と語った。


 太は、さしあたっての疑問はなくなったので、そうか、と頷きながらも、ちらりと来客を見やる。年相応の幼さと育ちの良さが同居した顔立ちは年相応の可愛らしさを覗かせる一方、とても整っていた。ただ、落ち着いた佇まいからは、美里のいうところのさみしそうなところはかけらも見てとれず、美優と早くも軽口を叩きあっているところからは、ただ単に少し幼い友だちがやってきたと言われた方がまだ納得できる。たまたま、この少年の精神が不安定な時間帯に、上の娘が出くわしたのだろうか。そんなことを思いつつも、太としても今更、この見ず知らずの少年に出て行けなどと告げられるはずもなく、とりあえず夕食をともにするほかないと納得する。


 上の娘が、ごめんなさい勝手なことしてと囁いてきたのに太は、たまには賑やかなのもいいじゃないかと応じる。それからすぐに、下の娘と少年の後ろを横切って、寝室に入り着替えをはじめた。普段であれば寝間着になるのだが、なんとはなしに落ち着けないのもあり、半袖の白いシャツと薄緑の半ズボンを身につける。程なくして居間に戻り自分の席へと座ろうとするが、少年が腰かけていたため、立ち止まった。途端に、少年が振り返る。


「なにかありましたか」

「いいや、なんでもないよ」


 心当たりがないというように不思議そうな顔をする少年に薄笑いで応じたあと、太は下の娘と少年が並んで座っている席の向かい側に腰かける。普段の位置関係でいえば、美里の隣だった。どことなく居心地の悪さを覚えながら、特に興味のないテレビを流し見る。下の娘と少年が楽しげな視線を送っている以上、リモコンを手にするのも気が咎められて、机の端の方に積みあげれている新聞紙のうち、一番上にある今日の夕刊を手にする。拾いあげる際にちらりと見えた番組表には贔屓球団と首位球団との試合が書かれていて、チャンネルを回せないのを少々残念に思った。


 程なくして、夕食になった。太はこの食卓で上の娘の隣に座るのは何年ぶりだろうかという短い感慨に浸りながら、カレールーの程好いとろみと辛さを舌の上で転がす。その間、食事の合間をぬって、娘二人と少年の話が弾んでいた。


 もっとも口を動かしているのはもっぱら美優の方で、勢いよくスプーンを動かしながら、少年に対して質問を重ねている。少年の方は打てば響くとでもいうように、好奇心旺盛な下の娘に対して、薄っすらとした微笑みを絶やさないまま、一つ一つ丁寧な答えを返していく。それにより少年の家が近所でも有名な山の上の洋館であるとか、あまり体を動かすことが得意ではなくもっぱら一人で本を読むのが好きではあるが、それでいて人と話していないと少し寂しくなるなどといった話が聞けた。太は少年の口ぶりを耳にして、太は少々明け透け過ぎないか、と思いながらも、そういった性格なのだろうと気にしないことにする。


 姉の方はといえば遠慮を知らない問いかけを続ける妹を時折嗜めながらも、少年の言葉の端々から滲みでたさみしさのようなものを感じとっているのか、それら一つ一つにいちいち心配を向けたり、いつでも頼っていいからね、などと年上じみた優しげな声をかけていった。少年の方は表情を崩さずに、ありがとうございます、と受け答えをしながらも、上の娘にすすめられるままに、カレーをお代わりした。太は美里のように、少年をさみしそうとは見られなかったものの、この上の娘の態度に、昔度々猫を拾ってきた際にみせた過保護さを見いだし、困っているものを放っておけない人間に育ってくれていることにしみじみする。


 三人に比べて、太の口数は少なくなったものの、それは娘二人が他の人間に向ける微笑ましいやりとりを見ていたいという欲望からくるものであった。急にやってきた見ず知らずの少年が自分たち家族だけの場所にしれっと紛れこんできたことに居心地の悪さをおぼえなくもなかったが、たまにはこういう夜があってもいいだろうという気持ちで、いつもよりもゆっくりとカレーを食した。


 夕食を終えてから数十分後、少年が帰宅することになった。娘二人が途中まで送っていくと希望したのを少年は、すぐに帰れるから、と控え目に断りを入れる。


「お姉さんが二人できたみたいで、とても嬉しかったです」


 含みなく微笑んでみせる少年に、上の娘は庇護欲をそそられたらしく、いつでも来てくれてかまわないのよ、と玄関から少年を見送りながら、延々と手を振っていた。太は、一応の許可を自分にとらない娘に少しばかり思うところがないではなかったが、そこまで固く言うことでもないと自らを戒める。


 一方の下の娘のほうはおざなりに手を振ったあと、欠伸をしながら家の中へと引き返していった。食卓についていた時に比べて、随分と疲れたような顔をしてみせてから居間の自らの席へと腰かけてぐだーっとした。なんとはなしに気になり、太は上の娘よりも先に家の中へと引き返してから、美優に、なにかあったのか、と尋ねた。下の娘は一言、子守りってけっこう気を遣うのよね、と潰れたまま告げる。先程までの振る舞いは普段の美優とさほど変わりがない態度であるように見えていたが、あれはあれで、無理をしていたらしい。それを知って、太は長年一緒に暮らしていてもまだまだわからないことはあるのだなと思いながら立ち上がり、台所の方へと、ビールを取りに行こうとする。その途中、戻ってきたばかりの上の娘に腕をつかまれた。


「今日は休肝日でしょ」


 思いのほか強い力にたじろぎつつ、わかったよ、と太は引き下がる。美里はわかってくれればいいの、などと答えながら、父親を引きずるようにして居間へと戻った。そこでだらしない姿勢をとる妹に、ちゃんと布団で寝なさい、と説教をする。それに応じる下の娘の、面倒臭げな声音を耳にして、太はいつも通りだ、とほっと胸を撫でおろした。

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